ゴリラもといルカ様からの求婚を受けた翌日、私は慌ただしく出立の準備をさせられていた。
 やはり皇帝ともなると忙しい身のようで、今日中にはもう帝国に帰るのだという。そして、私もそれに伴ってこの国を離れることになった。

 他国の側室を娶ろうと言うのだから、さぞやごたごたするのだろうと思っていたが、まさか一夜にして話がまとまってしまうとは。
 相手が私のような出来損ないの側室だったからなのか、それともルカ様のあの強引さが成せた業だったのかは分からないが、とにかく私は、今日、この後宮を出る。

 珍しいことに、私の部屋では何人もの侍女が駆けずり回っていた。出立のための身支度をやってくれているのだ。その中には女官長であるターニャの姿もあって、目が合うときっちり会釈された。
 そういえば、彼女だけはこの十年、私を軽んじたりはしなかったなと思う。元が厳格で側室と馴れ合うようなことをするひとではなかったが、同時に馬鹿にしたような言動も取らなかった。
 そんなことに、今さらになって気付く。どうやら私は、知らないうちに殻のようなもので自分を覆ってしまっていたらしい。ひとの小さな気遣いにすら気付けないほど分厚い殻の中で、十年も、無駄にした。

「ターニャ」

 忙しそうだったので気は引けたが、思いきって声を掛けた。
 振り返った彼女はいつも通り厳めしい顔をしている。けれど、そこに侮蔑の色は欠片もなかった。
 少し、泣きたくなる。

「今までありがとうございました。……よくしてもらったのに、何も返せなくてごめんなさい」

 頭を下げると、驚いているような気配がした。
 放っておけばいつまでも腰を折ったままでいそうな私に、呆れたような叱り声が降ってくる。

「側室ともあろう御方が、侍女に頭など下げるものではありません」
「でも……」
「でももかかしもないのです。ほら、お顔を上げてくださいまし」

 促されて視線を合わせた。そこには、予想外に穏やかな顔がある。

「それに、謝って頂く筋合いも御座いません。リーザ様はいつもわたくしたちの仕事にありがとうと言って下さいました。それだけで充分報われております。他の側室様はそんなこと仰いませんわ」
「それは、あの、私が庶民だったから、いろいろやってもらうのが申し訳なかっただけで……」
「それでも、わたくしは嬉しかったのです」

 微笑まれて、堪えきれずに涙がぼろりとこぼれた。
 どうして私は、こんなにもあたたかいひとが近くにいたことに、気付けなかったんだろう。勝手にみんなに嫌われていると思い込んで、一体何人の思いやりを見過ごしてきたんだろう。
 確かに私を嫌うひとは沢山いただろう。けれどその中に、私の味方になってくれるひとが一人もいなかったなんて証拠はない。諦めてしまわなければよかった。孤独な殻に閉じこもってしまわなければよかった。
 そう思っても、後の祭りなのだ。

『……目立って感じられるのは、お前が今不幸だからだ。不幸だから幸福な人間を見るとその感情が増大するのだ。ではどうすればそれが解決すると思う。簡単だ―――……』


「……ありがとう、ターニャ」

 幸せに、なれば良いのだ。
 気付けなかった分は、これから気付いていけば良いのだ。
 孤独に視界を塗りつぶされることなく、内にこもることもなく、ひとを見つめていけばいい。
 少なくとも、もう私は孤独ではない。私を好きだと、幸せにしてやると言ってくれたひとがいる。大丈夫。ゆっくり気付いて、気付けたら、ちゃんと受け入れればいい。ありがとう、と心から口にして。


「リーザ!!」

 ターニャと向かい合っている私のもとに、見慣れた白と見紛う金髪が飛び込んでくる。
 突進する勢いで抱きついてきたので引っくり返そうになったが、咄嗟にターニャが支えてくれたため事なきを得た。

「ここを出ていくって本当?! 昨日はそんな話してなかったのに……」

 見上げてくる二つの目は今にもこぼれ落ちそうな涙で潤んでいる。純粋な子。ずっと彼女のようになりたかった。

「ごめんなさい、急に決まったことだったから」
「あたしのせい? あたしが……“ツガイ”がいるから、側室のリーザは追い出されちゃうの? ねえそうなの?」
「そんな……違うわ。誰がそんなこと」
「ミラルダもフィリンも他の側室たちも、みんな噂してる……あたしのせいだって」
「サシェ様……」
「ごめん、ごめんね、あたしがいなかったらこんなことにならなかったのに。あたしじゃなくてリーザが“ツガイ”だったら、そしたらリーザ、ジェスと結婚できてた。もしかしたらもう子どももいたかもしれない。あたしがジェスのこと好きになんかなっちゃったから、あたしがここに来ちゃったから、あたしがいたから、リーザから全部奪っちゃった。あたし……あたし邪魔だったよね。ずっと腹立ってたでしょう。ごめんね、ごめんなさい」

 私の胸元に顔を伏しながら、サシェ様は子どものように泣きじゃくった。
 こんな彼女は初めて見る。そしてふと、ああ、彼女は私の気持ちに気付いていたのだ、と思った。私が陛下を心からお慕いしていたことも、陛下の隣で笑う彼女を憎々しく思っていたことも、そんな自分が消えてしまいたいくらい嫌いだったことも、何もかも。
 気付いた上で、私を慕ってくれていたのだ。気付いた上で、この西の端の部屋を訪れて、私の孤独を和らげようとしてくれていたのだ。

 なんて優しい子なんだろう。そんな彼女に、私はどうして憎しみや妬みばかり抱いていたのだろう。
 私は、いま自分に出せる精一杯の力で、有らん限りにサシェ様を抱きしめた。今までこんなにも強く誰かを抱きしめたことはないというくらい、強く。

「いっ、痛い痛い痛い!! リーザっ、痛い!」

 悲鳴が聞こえてパッと放すと、痛みで涙が引っ込んだらしいサシェ様が、訳が分からないとばかりに私を見つめている。

「泣かないで」
「え……」
「私、あなたの笑顔がだいすきなんだから。……ね、サシェ」

 そう告げると、彼女は一瞬目を見開いて、そしてぐしゃりと顔中をしわくちゃにした。
 ぼろぼろと涙はこぼれていたし、とてつもなくへたくそだったけれど、それは私がずっと憧れ、ずっと妬み、ずっと救われていた、あの太陽のような笑顔だった。





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