「正気ですか皇帝陛下!」

 カロリア王国の宰相、オルネルが焦ったように声を荒げた。
 応接用のソファーに深く腰掛けたままの男は怖じ気づくこともなく、この部屋の主であるカロリア国王を一直線に射抜く。

「別に構わんだろう。どうせ十年も相手にしていなかった女だ。それに“ツガイ”が現れた今となっては、最早側室など一人も必要ないのが本音ではないのか?ジェスター」
「必要か不要かが問題なのではありません! 王の側室が他国の皇帝に嫁ぐなど前代未聞です! 有り得ない!」
「お前は姦しいなオルネル。俺は今ジェスターと話をしているのだ」
「姦しくて結構! 側室を明け渡したと世に知られれば我が国はランバルドの属国に成り下がったと嘲りを受けます! 陛下、如何にカロリアが小国と言えども、誇りを捨ててはなりません! 今すぐ否の御返事を!」
「オルネル」

 男は再び、宰相の名を呼んだ。

「お前には聞いていない。口を閉じて黙っていろ」
「しかし……!」
「聞こえなかったか? 俺は、黙っていろと言った」

 ちらりと視線が向けられて、オルネルはぐっと息を詰めた。
 男の目は、獣のようにぎらぎらと獰猛な光を放っている。
 宰相と言えども所詮は文官上がりのオルネルは、たったそれだけで竦み上がってしまう。いや、恐らくは歴然の猛者であっても恐怖を感じることだろう。

 ―――“ランバルドの黒獅子”

 自ら指揮を取り、天下無双と謳われるランバルド帝国軍を動かす荒々しい北の皇帝を民たちはそう呼び、ただただ畏れた。
 男は只でさえ筋骨逞しく、身の丈も平均より随分大きい。佇まいだけでも充分威圧的だ。
 この巨躯が、戦場で立ち回る様は、どれだけ恐ろしいことか。オルネルは直接目にしたことはないが、想像するだに、頭に上った血が急激に冷めていくのが分かった。

「……あまりいじめてやるな、ルカ」

 執務机の椅子に腰掛けていたカロリア王、ジェスターがやれやれとでも言うように溜め息まじりでそう告げた。

「いじめてなどいないぞ。そっちこそ、臣下の躾はちゃんとしておけ。五月蝿くて敵わん」
「ならばお前は自らの躾をちゃんとしておけ。大事な話があると秘密裏に我が国を訪れたと思ったら、少し目を離している間に後宮に侵入だと? 一体何を考えているんだ」
「“ツガイ”を見に行こうと思っていた」

 男が飄々と答えると、ジェスターの眉間にこれでもかと皺が寄せられる。秀麗な面立ちが一気に凶悪さを増した。

「お前が年甲斐もなく蝶よ花よと可愛がっていると言うから、どんな美女なのかと確認しに行ったのだ。そうしたら何だ、驚くほど棒だったぞ。あんな棒のどこが良いのだ、お前」
「……貴様っ……サシェを侮辱するつもりか」
「あっはっは、まさか! ただ俺はもう少し尻の大きい女の方が好みだというだけだ」
「お前の好みなど知らん」

 ジェスターは机の上で指を組むと、どうにか気を落ち着けて静かに瞼を下ろす。

「念のため聞くが、……お前まさか、サシェを人質に取ろうとでも考えていたのではないだろうな」

 目を瞑ったまま、男の返事を待った。
 言葉は返ってこない。代わりに、獣が唸り声を押し殺したような忍び笑いが聞こえる。

「やはりか……何が目的だ」
「なに、西への遠征を手伝ってもらおうと思っただけだ。お前のところは何かにつけ理由を捻出しては援軍要請を断るからな。ちょっと立場というものを分からせてやらねばと思っていたのだ」

 男がちらりとオルネルを見やる。誰が断っているのかについては見当がついているらしい。オルネルは見ている人間が心配になるほど顔を蒼白にしていた。

「……我が国はあくまで貴国の同盟国だが」
「俺の温情でかろうじて属国となるのを免れている、な」
「……」
「だが安心しろ。もともとそんなのは戯れの延長線上だったし、もうそんなつもりもない。リーザを貰えればな」
「何故、彼女を……」
「俺の運命の女だからだ」

 にやり、と笑んだ男を見て、オルネルが小さく悲鳴を上げた。面構えがすでに凶器だ。

「リーザは家族と縁を切っているのだろう。そんな天涯孤独な女がひとり後宮を出たところで、なんの問題がある。一体世の中に彼女が側室だったと知っている人間がどれだけいるのだ。お前たちが自ら喧伝でもしない限り、彼女は『王の元側室』ではなくただの『リーザ』として生きていくことが出来る。俺は、カロリアの片田舎に住んでいた只の女を見初めて連れ帰るのだ。そういうことにする。後宮での事後処理ならば流行り病で死んだという事にでもすればいい。そら、万事解決だ。何か不都合でもあるか?」

 首を傾げる仕草がこうも威圧的に見える人間もそうはいるまい、とジェスターは暢気に思う。この顔面凶器との付き合いはそこそこ長いせいか、さして萎縮することもない。
 何も言わない王の代わりに、なんとか気力で持ち直したらしいオルネルが口を挟んだ。

「不都合は大有りです……! というかそもそも、皇帝陛下ともあろう御方があんな容姿も中身も冴えない女をわざわざ選ばなくとも……もっと相応しい者はいるでしょうに」
「リーザが良いのだ。他の女では意味がない」

 空気がびりっとひりついた。何か男の癇に障ったらしい。
 人の腕くらいなら食い千切れそうにも思える白い歯を覗かせながら、男は笑った。

「リーザを貰えないのならば、今度こそ俺は本気で強行手段に出るぞ。同盟を破棄してカロリアへ攻め込む」
「な、何を馬鹿な……」
「俺は本気だ。お前なら分かるな、ジェスター」

 動揺した様子のオルネルが国王にすがるような視線を送る。
 しかし残念ながら、男は本気だろうとジェスターは確信していた。奴はそういう人間だ。

 カロリアという国は軍事に疎く、国土も広くはない。それがこれまで生き残って来られたのは、ひとえにランバルドと同盟関係にあるが故だった。
 ランバルドとの歴史は長い。ただの同盟国ではなく、王室間でも厚く親交が交わされていた。そのこともあって、ジェスターは幼い頃をランバルドで過ごしている。目の前の獣のような男は、言うなれば竹馬の友、幼馴染みだ。
 男は昔からこうだった。欲しいと思ったものはどんな手を使っても手に入れる人間だった。事実、男が皇帝に即位してからランバルドは只でさえ広大な国土をさらに拡げていた。軍を天下無双と言われるまでに育て上げたのも男の手腕に他ならない。

 幼い頃、男はジェスターの友人であり、悩みの種であり、憧れだった。
 今では同盟国の首脳同士、政治を挟んだ関係になったが、友情を忘れたことはない。
 ジェスターは再び目を瞑った。

「一つ、条件がある」
「聞こう」

 オルネルが焦ったように呼ぶ声がしたが、黙殺した。口を挟むなと一瞥だけくれる。

「彼女は不幸な身だ。腕の痣のせいで“ツガイ”と間違われ、家族と故郷を奪われた。十年間も後宮に閉じ込められる羽目にもなった。私は彼女に、詫びても詫びきれない負い目がある」
「ふん、ならば何故抱かなかった。捨て置かれる事ほど女のプライドを傷付ける事もないぞ」
「……只でさえ、不幸な身の上なんだ。その上好きもしない男に抱かれるなど、あまりにも哀れだろう」

 男が信じられないと言わんばかりな様子で溜め息を吐いた。眉間と鼻の頭に皺が寄っている。不機嫌な時の癖だ。

「それならせめて会うだけ会いに行ってやれば良かったのだ。心だけでも交わしてやれば良かった。リーザは孤独に喘いでいたぞ。唯一味方になってやれるはずだったお前すらなくして、十年間も一人で泣いていたのだぞ」
「……」
「お前は所詮逃げたのだ。一人の女の人生をぶち壊しにした、その良心の呵責から逃げたのだ。そんな男の元にいつまでもリーザを置いておけるはずがない。明日にでも彼女を国へ連れ帰る。条件はなんだ」

 ジェスターは急かす男をひたと見つめると、一度深く息を吸って、吐いた。
 男が彼女を正妃に迎えたいと言ったときから、答えは決まっていたのだ。あの娘を早くあそこから出してやりたいとずっと思っていた。
 だから、ジェスターが出す条件はたったひとつだけだ。

「彼女を、幸せにしてやってくれ。私には出来なかった」

 それを聞いた男は鼻を鳴らして、獰猛で不遜な笑みを浮かべながら、自信満々に言い放った。

「当たり前だ」





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