窓から中庭を見下ろす日課をやめた。
 誰にも気付かれることもなく二人を見つめる自分が、ひどくみじめに思えたからだ。
 かつて中庭を覗くのにこの西の端の部屋は私にとって都合が良かったが、“ツガイ”様が現れてからはただ苦しいだけの時間になった。なぜ見せつけるようにこんなところに私の部屋があるのかと、理不尽なことを思ったりした。
 そういうことに、疲れてしまった。だから、もう中庭は見下ろさない。


 代わりに、部屋の前に造られたこじんまりとした庭を愛でることが多くなった。
 中庭のように立派な薔薇園もなければ、技巧を凝らして整えられた木々もない。素朴な花が季節ごとに姿を見せる、ささやかな庭だ。
 他の側室の部屋の前にも同じような庭があるのだろうと思う。これは謂わば慰め。ここから出ることが叶わない、鳥かごの鳥たちへの。

 部屋の扉を開け放ち、椅子に腰掛けたまま庭をぼんやり眺めていた。
 しばらく庭師を入れていなかったせいか少し荒れてきている。侍女に頼んで庭師を手配してもらわなければ。
 そんなことを考えていると、不意に強い風が吹いた。

 ざあっと動いた花々の上に、どこからか流されてきたらしい布が、一枚ひらりと落ちる。
 後宮においてそんなものを見つけるなんてことはついぞなかったので、気になって庭へ降りてみた。それは帯のようにも見える、が、奇妙に布が切り取られて二つの穴が空いていた。一体何なんだろう。

 思わず拾い上げてまじまじ見ていると、背後からががさがさと葉の擦れる音がした。風のせいではない。私は不審に思って振り返った。

「……え」

 ゴリラがいた。

「えっ、えっ」

 混乱して手にしていた布切れを取り落とす。
 そのことにも気付かないくらい動転していた。何せゴリラを目にするのは生まれて初めてだ。
 幼い頃に見た図鑑に描かれた挿し絵くらいしか情報がないが、その挿し絵にあったゴリラそのまま、それがまさに今、目の前にいた。

「そこの女」
「ヒッ!」

 ゴリラが喋った。
 最近の動物は人語まで話せるのか。
 私が十年ここに引きこもっている間に随分と世の中は進んだらしい。そういえば図鑑にも猿はヒトの先祖だと書いてあった気がする。ゴリラも猿も同じようなものだろう。つまりヒトに近いのだ。

「それは俺のなんだ。拾ってくれ」
「え」
「その足元にある布切れだ」

 そこでようやく、さっきの布切れが手から滑り落ちていたことに気付いた。
 言われるがまま慌ててそれを拾う。ゴリラがずんずん近付いてくる。ゴリラは私の頭二つくらい背が高く、筋骨逞しく、いかにも凶暴そうだった。
 恐ろしくて後ずさるが、ゴリラの歩幅は非常に大きい。すぐに目の前にやって来た。悲鳴をあげて助けを呼べばよかったと気付いたのは、随分あとになってからである。

「すまん。ありがとう」

 そう言って、私の手から布切れをさらっていった。

「せっかく変装用に持ってきたというのに、風で飛ばされてしまってな」
「へ、変装……?」
「ああ。これでこうして目元を覆うのだ」

 怪盗のようでかっこいいだろうとふんぞり返ったゴリラは、さっきの奇妙な二つの穴から私を見下ろしてにっかと笑った。
 訳が分からないまま頷く。

「ところで女よ」
「ヒッ」

 改めて話を振られるとびくついてしまう。大きいから怖いのだ。

「お前が、件の“ツガイ”か?」

 問われて、腕に視線をやられた。条件反射で咄嗟に肩を引き右腕を隠す。
 ここへ来てからもなるべく長袖のものを着ていたので分かりづらいが、手の甲まで及んだ痣は目に入ってしまったかもしれない。おそるおそるゴリラの様子を伺った。

「その腕、シルシか」
「あ、いえ、私は……」
「なら首尾よく辿り着いたという事か。いや良かった良かった。にしても驚いたぞ、当代の“ツガイ”は随分と顔が薄いな!」
「……は……」
「地味を通り越して、薄いぞ!」

 薄い。
 言った本人(本ゴリラが正しいのだろうか)はあっはっはと景気よく笑っている。凡庸だ地味だと言われたことは数えられないほどあるが、薄いなどと例えられたのは初めてだ。
 少し、的確だな、と思ってしまった。

「ち、違うわ、私は“ツガイ”じゃない」

 焦って、そう口にしていた。私のような女が“ツガイ”な訳はないし、本物の“ツガイ”様はもっとかわいらしい方だ。その思いのせいか、語調はいつになく強くなった。

「だ、大体あなたはどこから入ってきたの。飼い主はどこ? 一緒にいなきゃ駄目じゃない」
「飼い主? よく分からんが、俺はこっそりここに忍び込んだのだ。あまり大声を出されると困るぞ、女」
「しっ侵入者なの?!」

 動物だと甘く見ていたが、自分の意思で後宮に侵入したのなら大罪だ。死罪も有り得る。

「……悪いことは言わないから、早く飼い主のところへお帰り。見つかったら殺されてしまうわ」
「おお、それは大変だ」
「そうよ。だから帰りなさい」

 小さな子どもに言い聞かせるようにして告げたのに、ゴリラは可笑しそうにそうかそうかと言うばかりだ。こういう部分はやはり獣らしい。なかなか言うことを聞かない。

「女、お前面白いな。名はなんだ?」
「え……あ、リ、リーザ」
「リーザか。俺はルカと言う」

 急に名前を尋ねられてたじろぐと、ゴリラは自らも名乗ってみせた。
 ルカ。あまりこの国では聞かない響きの名前だ。異国から連れて来られたのかもしれない。

 自分の思考に、ひゅっと息を飲んだ。

 “連れて来られた”。

 ───私の、ように?


「リーザは何か勘違いしているようだが」

 ハッと顔を上げた。
 ゴリラは相変わらず可笑しげに笑ったままだ。

「お前は俺を動物かなにかだと思っているようだが、それは間違いだ。俺は正真正銘人間だぞ」
「……え」
「確かに動物に例えられたこともあるし、図体もでかいから人間離れしていると言われもするが……」
「……に、にんげん……?」
「まさか本気で動物と勘違いされるとは思わなかった! あっはっは、貴重な体験だ!」

 大声を出すなと言っていた本人が私などよりよほど大きな声で笑っている。それは獣の遠吠えのようにずしんと私の体を震わせた。これが、人間?

 記憶の中の挿し絵と目の前のゴリラ(仮)を比べてみる。
 すると、よくよく考えたら本物のゴリラはこんなにぴんと背筋を張っていないし、体毛はもっと全身を覆っているはずだし、肌の色も黒いはずだ。
 なんてこと。まさか人間をゴリラと勘違いするなんて。

「ごっ、ごめんなさい!! 私てっきり……」
「顔を上げろ。俺は怒ってないぞ」
「いえ、でも」
「こんなに笑ったのは久しぶりだ。爽快だ。むしろ感謝したいくらいだ」

 垂れていた頭をそろそろと上げると、本当に怒ってはいないらしい晴れやかな笑顔が目に入る。
 ───やはり、ゴリラだ。
 違うというのは分かっているが、どうしたって似ている。似ているものは似ている。


「……ん?」

 何かに気付いたように振り返ったそのひとが、ぼりぼりと後頭部を乱雑に掻いた。綺麗に撫でつけられていた黒髪がほつれる。

「でかい声を出しすぎた。誰か来るな」
「えっ」
「すまんが俺はこれで失礼する」

 先程がさがさと揺れていたあたりに、そのひとは再び分け入っていった。
 来たときと同じくらい突然な事態に、消えたその背中を唖然と見送っていると、後宮の警備兵として特別に中に入るのを許されているらしい男の人たちが数人、慌ただしく走ってきた。

「リーザ様、今獣の吼える声が聞こえましたが……!」

 思わず、噴き出した。
 やはりあの笑い声は、獣の咆哮にしか聞こえなかったらしい。





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