あれから十年。
 私は二十六になった。

 神経質そうなあの男の人──オルネル様の言う通り、ずっと後宮で暮らしている。
 この十年間で陛下が私のところへお渡りになったのは、たったの一回。私がはじめて涙を流した翌日だけだ。

 陛下は私に、すまない、と詫びた。
 私のように拐うような形で連れてきた側室は初めてだったそうで、私にされた仕打ちのことは一切聞かされておらず、その日の朝にオルネル様から事の次第を聞いて慌てて来てくださったそうだ。

『どうにかお前を家族の元へ帰せないかと計ったのだが………閨に侍った女は室に入れるのが習いだとオルネルが頑として聞かなくてな。あの夜は何もなかったと説明しても、引っくり返すことが出来なかった。力不足ですまない』

 あの冷悧な顔が、痛ましそうに眉を寄せた。私などより、余程つらそうだった。
 私は慌てて、気にしないでください、あなたが悪いわけじゃない、王様なのだから慣習を守らなければ民に示しがつかないのでしょう、と言おうとした。
 言おうとしたけれど、ぼろりと涙がこぼれて、驚いて止まってしまった。拭っても拭っても、ぼろぼろと溢れだしてくる。号泣だった。

『……可哀想に』

 陛下は、涙をせき止められず焦る私に呆れることなく、あろうことかその長く美しい指で頬を拭ってくださった。
 それが優しくて、慣れていないのだろうというのがありありと感じられて、せっかく拭ってくださったのに、またさらに泣いてしまった。

 私はこのとき、きっと陛下に恋をした。
 優しくて不器用なあの方に、初めての恋を。


 けれど、あれ以来陛下が私の元へいらっしゃったことはなかった。もちろんあの夜だって、陛下は私を抱いたりしなかった。
 この後宮には他にも側室が何人かいるが、一度も抱かれた経験がないのは私ひとり。そしてその事実は、公然のものとしてみんなが知っている。
 他の側室の方々は貴族の女性ばかりで、庶民の出であることだけでも嘲笑の対象になるというのに、陛下から愛されたことが一度もないというのはここでは人間以下も同然だった。
 おまけに容姿は凡庸で地味。いじめるにはもってこいの存在だ。

 そんな状況で、十年間。
 かろうじて生きてこられたのは、私に与えられた部屋が西の端にあり、他の側室と顔を合わせることがあまりなかったことが大きい。侍女すらも私を軽んじる中で、たとえ厄介払いがしたかったからだとしても、この端の部屋であったことは不幸中の幸いだった。
 そう、『だった』。ほんの少し前までは。


 部屋の窓を開け放つと、中庭が見下ろせる。他の部屋からも見えるのかもしれないが、端にあるこの部屋は中庭から遠くもなく近くもなく、たとえ庭に人が立っていようともこちらが見ていることに気付かれにくいのが最大の利点だ。
 この十年、ここから中庭を見るのが日課になっている。
 理由は簡単。たまに後宮へ渡られる陛下は、決まって中庭に立ち寄るからだ。
 好いた方の姿を少しの間だけでも見つめていたい。その一心で、私は日ごとこの窓から中庭を見下ろしている。
 最近、陛下はお渡りが多くなった。日を空けず毎日のように渡っている。

 なぜなら、待ち望んだ相手がようやく現れたから。

「あ……」

 中庭に、慕わしい黒髪の君がいた。
 そしてその傍らには、白と見紛うほどの淡い金色。

「……“ツガイ”様……」

 十年前はまだ六つだった王の“ツガイ”が、ついに陛下の元に舞い降りたのは、一年ほど前のこと。
 身分は確か、私と同じ庶民だったはずだ。他の側室のように目を見張るほどの美女ではない。体型もまだ成長途中で、目立つと言えばその儚げな髪の色くらいという、どこにでもいそうな少女。
 けれど、その右腕には確かに、陛下と同じ紋様が浮かんでいた。

 少女もまた、私と同じく拐われるような形で連れて来られたが、私とは違いオルネル様に流されることはなかったらしい。毅然と立ち向かい、閨に侍ることを断固として拒否したそうだ。
 けれどやはり、王と“ツガイ”は呼び合うのだろうか。彼女が連れて来られたことを知らないはずの陛下が、最初の晩、慌てた様子で彼女の元を訪れたらしい。
 そして、言った。『ようやく会えた―――私の、“ツガイ”』

 “ツガイ”様(後宮では彼女は陰でそう呼ばれている)は、小柄な見た目に似合わずなかなか剛毅な方のようで、随分長い間後宮に入ることを拒否していた。陛下は優しい方だからまだいいけれど、あのオルネル様相手に曲げなかった彼女は相当な強者だろう。
 長い間、ゆっくりと時間をかけて、陛下は“ツガイ”様と近付いていった。猫のように毛を逆立てる彼女を、安心させるように、労るように。
 彼女もまた、生来のまっすぐさで陛下と向き合い、徐々に距離を縮めていった。

 彼女がようやく陛下の愛を受け入れ後宮に入ることを決めたのは、つい最近のことだ。
 “ツガイ”様がここへ来てからというもの、毎日が騒がしい。他の側室といさかいを起こすのは日常茶飯事で、通例というものをことごとく蹴散らしている。
 庶民出であるせいで侍女からも軽微な扱いを受けることがあるようだが、本人はあまり気にはしていないそうで、むしろ説教をして改心させた者もいるというから驚きだ。

 彼女は、端にあるここへもよく訪れた。
 自信はないが、同じ庶民出身の私を慕ってくれているらしい。剛毅な振る舞いの多い少女であるが、根は素直で、笑顔のかわいらしい子だと思う。
 十年の年月の中で、ようやく出来た味方のように感じられた。ひとりぼっちだった私に、やっと現れた友人と呼べる存在。

 なのに。

 部屋の窓を閉めて、陛下と“ツガイ”様の姿を視界から消した。
 涙が止まらない。
 胸が焼けるように熱く、張り裂けそうに痛んでいた。

 ようやく出来た大切な友人は、恋しい御方の大切な女性。

 私が持ち得なかったものを持ち、なれなかったものになったあの子が、妬ましくて堪らなかった。





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