後宮から出るのは十年ぶりだ。
情けない話だが、緊張のあまり膝ががくがくと震えた。
それでもなんとか城門のところまで出ると、簡素な一台の馬車と、おそらく念入りに世話をされているのだろう美しい白馬、そしてここ二、三日で私の人生をがらりと変えてしまった巨躯が佇んでいた。
そう、ゴリラだ。
「待ち侘びたぞ、リーザ!」
「ご、ごめんなさい、お待たせして」
「うん? なんだ、お前生きている設定なのか」
「は?」
私の荷物を運んできてくれた兵士たちを見やって、ゴリラもといルカ様はおかしなことを言った。
「随分荷物が多い割にはここに来るのが早かった。侍女が大勢手伝ってくれたのだろう?」
「……さっきは来るのが遅いみたいな口振りを」
「まあ実際は俺もさっき来たばかりだ! あっはっは!」
大口を開けて笑うルカ様に、私の荷物を馬車に積み込もうとしていた兵士たちが凍りついた。恐ろしいものでも見るような目付きをしている。確かにルカ様は見た目がゴリラのような方だが、何もそこまで引かなくても。
「侍女たちに嫌味は言われなかったか」
「いいえ。むしろ私を見守っていてくれたひとがいたのだと今さら気付いて、情けなくなりました」
「そうか」
「でも、私はなんともなかったですけど、サシェが……」
「誰だそれは」
「あ、陛下の“ツガイ”様です」
「ああ、あの尻の小さい棒はサシェというのか」
「棒……」
「あれがどうした」
「あ、はい……私が出ていくのは“ツガイ”が来たせいだと他の側室に吹き込まれたみたいで。なんとか誤解は解きましたけど、これからあの子、大丈夫かしら……」
公正なターニャや友人であるモニがいるのだからおそらくは大丈夫だろうが、まだ十六の少女がこれから先、後宮という牢獄のような場所で尚もあのきらめきを失わずにいられるだろうかと、正直不安に思わないでもないのだ。
出来ることなら、もっと側にいて支えてあげたかった。彼女が立派にこの国の后妃となるまで。たとえ微力であっても。
「“ツガイ”ならば心配ないだろう。最悪、ジェスターもいる事だからな」
「あ……そ、そういえばそうですよね」
「しかしまあ色々蹴りがついたようで何よりだ」
「はい。とりあえず、気持ちの整理はつきました」
「やっぱり生きている設定にして良かったな。これでもし死んでいたらリーザも悔いが残っただろう。ジェスターもたまには粋な事をする」
さっきからその設定というのは何なのだ。
「ルカ」
聞き覚えのある声に、思わず振り向いた。
そこには、正面から見るのはいつぶりかも分からない慕わしい御方が立っている。
「む。なんだ、見送りには来るなと言っておいただろう」
「すまん、やはり気になってしまって」
「お前に会ったせいでリーザがやっぱり嫁ぎたくないと言い出したらどうしてくれるのだ」
「……私にそれを言われても」
急にぷんすかとでも擬音が付きそうな子どもっぽい怒り方をし始めたルカ様を、慌てて宥める。というか、その言い方だと私みたいな女が陛下に本気で恋をしていたことがバレてしまうのでやめてほしい。恥ずかしい。
困ったような顔をしていた陛下は、私に視線を移すと、申し訳なさそうに笑った。
「……久しぶりだな」
「あ……」
「私のことを覚えているだろうか」
「も……もちろんです、陛下! 私の方こそ、お声を、掛けて頂いて……こ、こうえいです」
言っているうちに涙が出てきた。
後宮にいる十年間を泣いて暮らしていたせいか、知らぬ間に涙腺が馬鹿になっていたらしい。ここ数日で思い知った。
「……お前には寂しい思いをさせた。こんな事で許してもらえるとは思わないが、心から詫びる。すまなかった」
「そんな……そんな、いいんです、私。確かにつらいことも沢山あったけど、陛下を恨んだことなんて一度もありません。……あ、いえ、い、一度も、っていうのは、嘘、かもしれないけど……」
「そこは言い切った方がよかったと思うぞリーザ」
「嘘です!!」
「いやそっちではない」
「いいんだ。恨まれて然るべきをしたのは私なのだから」
けれど、本当に陛下のことは恨んでいないのだ。
どちらかと言うと直接私を絶望に叩き込んだのはオルネル様……
と思っていたら、陛下の背後にオルネル様が立っていた。目が合って眉をしかめられ、変な声が出る。
「なんだ、忙しそうだなリーザ。面白いぞ」
「わ、私はおもしろくありません……!」
「ともかく、ルカ。彼女を頼んだぞ」
「言われずとも」
再び私の方を向いた陛下が、やはりどこか申し訳なげな色が消えない笑みで言う。
「リーザ」
「は、はいっ!」
「……私がこれを言うのは無責任かもしれないが……どうか、今度こそ幸せになってくれ」
ことん、と欠けていた胸になにかが嵌まる音がした。
初めて呼んでもらった名前。幸せを願ってくださった言葉。足りなかったすべてが揃って、ああ、ようやく、と心から思う。
これでようやく、私の長い初恋が終わった。
十年の付き合いだった。寂しさはあるが、不思議と未練はない。
「……はい。必ず」
答えると、ぐっと強く肩を掴まれて抱き寄せられた。
見上げた先にはにっかと笑ったルカ様の顔。
これから一生、ともに生きていくひとの顔。
このひとに恋愛感情があるかと聞かれると、まだ正直よく分からない。出会ってまだ二、三日しか経っていないし、ついさっきまで別のひとを愛していたのだから、すぐに気持ちを切り替えられるほど器用でもない。
けれど、なんとなく大丈夫な予感がしている。
理由は彼が言ったのだ。私も、信じてみようと思う。
「行こう、リーザ」
「はい」
『根拠が必要か? それならば、そうだな……』
『俺が、お前を好きだからだ』
私もきっと、いつかあなたを好きになる。
顔、ゴリラだけど。