101号室:高見 秀一郎



 街でママを見かけた。若い男の子と一緒だった。
 二人は道路を挟んだ向こう側で腕を絡ませながら歩いていて、時折親しげに顔を寄せては話をしていた。男の子がタクシーを停めると、ママは彼とかるくハグをしてそれに乗り込んだ。男の子はドアを閉めて、外から後部座席にいるママにひらひらと手を振った。
 タクシーが走り去っていく。その姿が見えなくなるまで、彼はそこに佇んでいた。



「っていうことがあったの」

 帰ってから、アパートのエントランスで鉢合わせした仕事帰りのあっくんを捕まえ共用スペースに引きずりこみ、その日見た一部始終を話した。あっくんは見るからに疲れためんどくさいはやく寝たいと書いてある顔で、ソファーに沈んだままだるそうに口を開く。

「それ、多分啓太だよ」
「ケイタ?」
「ママの息子」

 ママの、むすこ。

「ママ、子どもがいるの?」
「うん。あのひと昔結婚してたからね」

 けっこん!

「なんでそんな驚いてんの……」
「だって、ママって心は女の人でしょ?」
「関係ない関係ない。戸籍上で男と女だったら恋愛感情なんてなくても結婚できんだから」
「でも子どもは?」
「……さあ。気合いで乗り切ったんじゃない。子ども欲しいセクシャルマイノリティには間々あることだよ」

 気合いで乗りきれるものなんだろうか、セックスって。よくわからないけれど、へー、と感心がてら空気が抜けたような声を出していたら、だんだん眠そうになってきたあっくんが、目をこすりながら言う。

「ていうか、そんなん気にするなんてアイも案外俗っぽいんだね」
「そうかな」
「なんか意外だった」
「わたし、結構こういう話興味あるよ」
「……面白い?」
「と言うより、勉強になる」
「勉強?」

 うん、レンアイの勉強、と頷くと、眠たげな両目がぬぼーっとわたしを見つめた。2秒後、くあ、とあくびをひとつ。ひとの顔を見てあくびしないでほしい。

「駄目だ、眠い。俺もう寝る」
「うん。引き留めてごめんね、おやすみ」
「おやすみ。アイもはやく寝ろよ」

 あの様子だと、今日はあのまま寝てしまいそうだなあ。スーツしわくちゃにならないといいけど。
 それにしたって、まだ日付も変わっていないのにあの眠気。相当疲れているんだろうか。勤め人って大変だ。



 翌朝、今度は純粋に趣味としてツーリングに出かけるという達也さんに声をかけた。

「達也さん、ママの息子のこと知ってる?」
「なんだ、突然だなアイちゃん」

 知ってるよ、と他愛なく頷いた達也さんに、どんなひとなの?と重ねて聞く。

「どんな……まあ、普通の子だな」
「ふつう……」
「いやほんと、普通の子だよ。少しくらいひねた性格になってもおかしくなかっただろうに、よくもまああれだけ真っ当に育ったもんだと思うよ。母御さんの教育が良かったんだろうね」
「ははごさん、は、ママの元奥さんだよね?」
「そうそう。円満離婚だったらしいから今でも付き合いあるみたいだよ。啓太くんもたまにここ遊びに来るし」

 その割には、わたしはまだ一度も見かけていないけれど。そう言ったら、今年から社会人になったから今は忙しいんじゃないかな、と達也さんが答えた。息子は新社会人らしい。だとすると、年齢は二十二、三歳くらい?
 わたしより年下だ、ということに思い至ったのとほぼ同時に、それならママはいま何歳なんだろうという疑問にぶち当たった。わたしの親と同じくらいなのだろうか。……見えない。

「あ、でも」
「うん?」
「ここ、遊びに来ても平気なのかな」
「何が?」
「だってケイタくん、ふつうのひとなんでしょう?」

 大家であるママの息子なら、ここにどういう人間が住んでいるかということも知っているかもしれない。だけど、ふつうのひとにはきっとわたしたちの存在は気味がわるくて理解しがたいものに見えるだろう。マイノリティ同士ですら必ずしも理解し合えるものではないのだから、それはなおさら。できるだけ関わらないように避けたくなるのが人情ではないだろうか。
 達也さんはようやく得心した様子で、ああ、と声を上げた。そしてすぐに破顔する。

「大丈夫だよ。普通の子ではあるけど、あのママの息子だからね」
「……ふうん?」
「会ったらわかる」

 まあ気長に待ってみなさい、とわたしの頭をぽんぽん撫でて、達也さんはヘルメットを被った。愛車のナントカっていうかっこいいバイクに跨がり、じゃ、俺はそろそろ行くとするよ、と告げてエンジンをかける。
 轟音をふかして走り去っていくその後ろ姿を見つめながら、昨日ママの乗ったタクシーを長いこと見送っていたケイタくんを思い出した。

 あのときのケイタくんは、一体どんな気持ちだったんだろう。
 お父さんだったひとが女の人の格好をして、女の人のように腕を絡めてきて、二人はまるでデートのような空気をまとっていた。
 そのあとに残されたケイタくんは、一体なにを思っていたのだろうか。

 想像できない。
 わたしは、お父さんだった頃のママを知らないから。
 でも、もしかしたらほんのすこしだけ、さびしいなあんて思ったりしたのかもしれないと思うと、なんだかいろいろどうしようもなくて、一人かなしくなった。



 部屋に戻ってごろごろしていると、お昼過ぎにママが訪ねてきた。

「おはよおアイちゃん。ご機嫌いかが?」
「おはよう、ママ。機嫌はふつうです」
「あら、いかにも現代人っぽい回答ねえ」

 最近になって、ママは何時だろうとおはようと挨拶することに気が付いた。理由を聞いたら、一日の最初の挨拶はおはようだって相場が決まってるのよ、とやけに自信満々に答えられた。納得。あんまり疑問は解消されてないけど、あんなに自信ありげだったんだからきっとそういうものなんだろう。

「……あ、ママ、今日はもうお化粧してる」
「ふふ、そうよお。今日はもう出なきゃいけないの。その前にこれ渡しとこうと思って」

 ちょっと不精なおじさんから、すっかりきれいなおねえさんに変身したママが、抱えていた発泡スチロールの箱をわたしに差し出した。思わず受け取る。そのあとで、これなに?と当たり前の疑問を口にした。

「蟹よお。しかもタラバ!」
「タラバ?」
「妻が親戚だかなんだかからもらったらしいんだけど、あんまりたくさんもらったからアタシにも食べろって寄越してきたの。で、せっかくだからみんなで食べようと思って」
「……それでなんでわたしに渡すの?」
「アイちゃん今日どうせ暇でしょ? お鍋の用意しといてほしいのよ」

 そういうことか。暇なのはいかんせん事実なので、わかったと素直に頷く。ガスコンロは共用スペースのどっかにしまってあるからあとで探してみてね、というセリフを聞きつつ、発泡スチロールを見下ろした。はたと気付く。

「……つま?」
「え? ツマ? 刺身の?」
「つま……奥さんから、もらったの?これ」
「ああ、そういうこと? そうよお。まあ『元』妻だけど」

 そういえばアイちゃんにはまだ話してなかったわねえ、とからからとママが笑う。今朝達也さんが言っていた、今でも元奥さんと交流があるらしいというのはほんとうだったみたいだ。しかもタラバ蟹もらってる。これは仲が良くないともらえないはずだ。ぜったい。

「わたし、タラバ蟹食べるのはじめて」
「あらほんと? じゃあアイちゃんもこれで一つ大人の階段登ることになるのねえ」
「二十四歳にして?」
「二十四なんてまだまだお子ちゃまよお」

 ふっくらとした紅い唇が弧を描くと、ママはほんとうに本物の女の人のように見えた。首が太くて、喉仏が浮き出ていて、肩幅が広くて、声も低い。それでも女の人に見えるんだから不思議だ。
 女って、なんだろう。男ってなんだろう。なんで世の中、二通りしか許されていないんだろう。以前ママにそう聞いたら、アタシはどっちでもないわ、とおはよう理論を振りかざしたときと同じように自信満々に言い放たれた。男とか女とかから自由になったから、アタシは自分の好きな生き方を楽しめてるのよ、と。

「わたし、まだお子ちゃまかあ」
「そうよお。昨今の年寄りは平気で百まで生きるんだから、あと八十年くらいあるわよ」
「長いね、人生って」
「ふふ、そうね。有り難いことだわ」

 わたしも、いつかママみたいに自由になれたらいいなあ、と思う。でもわたしが自由になったら、きっと傷付くだれかもいるんだろう。自分にその価値があるのか、わたしには未だによくわからない。
 それでも、人生は長い。いつかは答えが出るのかもしれない。気長に待てばいい。焦る必要は、たぶんないのだ。




20131109

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