103号室:片桐 達也
「あ、達也さん」
朝、コンビニに行くためてんてんと階段を下りていたら、ちょうど部屋から出てきたらしい黒のライダース姿を見つけて声をかけた。こちらを見上げた顔がぱっと笑って、目尻に皺が刻まれる。
「おお。おはよう、アイちゃん」
「おはよう。今からどこか行くの?」
「ちょっとツーリングにね。なんかお土産でも買ってきてやるから、楽しみにしてて」
「……べつに毎回お土産いらないよ?」
出張のときならまだしも、ツーリングと言うからにはきっとそんなに遠くまでは行かないんだろうし、そうなるとお土産は最悪また東京バナナだ。あれはあれでおいしかったけれど、ああいうのはたまに食べるからいいものなのだと思う。
階段を降りきったら、今度はわたしが達也さんを見上げる側になった。
達也さんは筋肉質なのと色が黒いのとでどことなく威圧感がある。これで建築士って、お客さん怖がらないのかな。どっちかと言うと大工さんの方が似合いそう。前にそう言ったら、大工もやってたことあるよ、と笑っていた。やっぱり。
「そう?いらないか。残念だな」
「なんか、だんだんお土産買うの趣味みたいになってきてない?」
「若干ね」
いたずらっぽく言う達也さんにつられて、わたしも頬がゆるむ。
そういえば、達也さんに会う前、ママから達也さんの外見を『エグザイルにいそうな感じ』と説明されたのを思い出した。あっくんもそれは的確だと頷いていたので、割とわかりやすい例えらしい。エグザイルってなんだろう。大工さんの集団?
それからしばらく、二人で他愛のない話をした。この間一緒に鍋を囲んだらあっくんが全然ネギを食べなくて困ったとか、あいつネギ系は万能ネギしか食えないんだよとか、ネギは焼いたのを味噌で食べるのが旨いよねとか、たまねぎはネギ感が薄い気がする、いやそんなことはないとか、なぜか大部分がネギの話だった。たぶんあっくんのせいだ。
そうこうして、やがて達也さんは愛車と共に出かけていった。行きがけに土産はネギにしようかなと言っていたけれど、冗談だと思いたい。
もう見えなくなった後ろ姿をエントランスでぼーっと追っていたら、自分がなんのために下に降りてきたのか忘れそうになった。そうだ、コンビニ行ってセロハンテープ買ってこなきゃ。
「またどっか行ったの?達也さん」
背後から声がしたので振り向く。そこには案の定、スーツに身を包んだあっくんが立っていた。
「うん。あっくんはこれから仕事?」
「そりゃそうだよ。アイは?」
「わたしはコンビニ」
「バイト?」
「ううん。利用者」
セロハンテープ買いに行くの、と言うと、あ、そう、と可笑しそうにあっくんが答えた。
そういえば、と浮かんだ問いを投げてみる。
「さっき『また』って言ってたけど、達也さんてしょっちゅう出かけてるの?」
「まあね。どこ行ってるかは知らないけど」
「へえ」
ツーリングが好きだとは聞いていたけど、ずいぶん熱心な趣味らしい。やっぱり風を切る感覚が気持ちいい、とかそういうのなんだろうか。わたしは車の免許すら持っていないからわからないのが残念だ。
ちら、とあっくんを見ると、これから仕事だと言っていた割りにはまだ全然動く気配がなかった。行かないの?と聞いたら、あー、と曖昧な唸り声だけが返る。
「ねえ、あっくん」
「ん?」
「前から気になってたんだけど」
「うん」
「あっくんは、達也さんは好きにならないの?」
は?という顔をされた。そんなに変なこと言ったかな。
達也さんはヒトに恋愛感情や性欲を抱かないタイプのひとだそうだけど、あっくんは確かゲイだと言っていた。達也さんは大人だし、紳士だし、尚且つ性格もあの通りおおらかで茶目っ気もあるから、ちょっといいなと思ったりしないのだろうか。
「タイプじゃない」
「そうなの?」
思った以上にばっさりだった。
「それに、ビルしか愛せない男を好きになるほど物好きでもないしね、俺」
苦笑しながら言うそのことばに、けれども馬鹿にした色はすこしもない。むしろ、駄々をこねる子どもをしょうがないなあと抱き上げてあげる母親のような、そういう類いのあたたかみがあった。それはわたしに向けられたものか、達也さんに向けられたものかなのか、判断に困る。でもたぶん、どちらにもだろう。
達也さんやわたしは、マイノリティの中でもさらにマイノリティな存在だ。だから、同じマイノリティと呼ばれるひとたちにだって理解されないことはザラにある。
一概に“マイノリティ”ということばで括ったって、わたしたちはみんな全然ちがう。きっと、異性愛者の多くが同性愛を理解できないように、わたしたちはお互いのセクシャリティを理解し合えない。みんな愛の向かう方向が異なっていて、なのにマジョリティからすればそれぞれが異端だ。異端であるからまとめられる。誰ひとりとして同じではないのに、いつの間にか“マイノリティ”という大勢の内の一人になる。
このアパルトマンに集まるのはなにもセクシャルマイノリティばかりじゃないらしいけれど、今現在の住人であるママや、あっくんや、達也さんを見ても、だれも同じものを抱えているひとがいないのは確かだ。理解できなくて、したくもなくて、傷つけ合ったって何もおかしくはないはずだと思う。
でも、みんなはそうしない。理解はできなくても、さっきのあっくんみたいにそっと受け入れたり、ただ寄り添ってくれたり、なんとなくゆるしてくれる。気持ちわるいとかおかしいとかふつうはこうだよとか、そういう『当たり前』で押し固めた論理でひとを攻撃したりしない。それが、ここがマイノリティのための場所であるからなのか、みんなのもともとの性格のせいなのかは、わからないけれど。
「……達也さん、どこ行ったんだろうね」
思考が遠くへ飛んでしまったのを誤魔化すようにそう言うと、それに気付いているのかいないのか、さあ、とあっくんが短く返した。
「あっくん、仕事いきなよ」
「んー」
「遅刻しちゃうよ」
「あー」
「……行きたくないの?」
「うーん」
「仕事、嫌になった?」
いや。とそこだけはやけにはっきり否定して、けれどもにゃもにゃ煮え切らないまま、あっくんは腕時計に目をやって渋々動き出した。さすがにもう出発しないと遅れるらしい。
「じゃあ行ってきます」
「うん。あ、」
「あ?」
「ネギ」
達也さんがお土産に買ってくるかもしれないから、今度はちゃんと食べてね、と言おうとした。でも、あんまり仕事に行きたくなさそうなあっくんにこれを言うのはなんだか追い討ちをかけるようで酷な気がして、なんでもない、仕事がんばって、とだけ言って送り出した。あっくんはやっぱり気重な足取りだった。
夕刻、達也さんが帰ってきた。手ぶらだ。
「ネギ買い忘れたよ」
やっぱり買う気だったらしい。
「どこまで行ったの?」
「近いよ。横浜の方」
「今日はずっと横浜?」
「うん。ずっと横浜」
それなら横浜土産を買えばよかったんじゃないかと思ったのだけれど、べつにいらないと先に言っていた手前、口にするのはやめておいた。
達也さんは帰ってきたその足で共用スペースの三人掛けのソファーにどっかりと座り込むと、深くため息を吐いた。心なしか、出かけたときより元気がないように見える。今日はみんななんとなく変な日だ。そのせいかこちらまでしょんぼりした気分になりながら、元気ないね、と率直に聞いてみた。
「……そう見える?」
「うん」
「そうか。まあ、お葬式直後だからかな」
「……お葬式?」
達也さんはパンツのポケットから携帯端末を取り出してささっと操作すると、それをこちらに差し出してくる。よくわからないままとりあえず受け取ったら、ディスプレイには古びたビルの画像が表示されていた。
「それ、俺の初恋の相手」
「え」
「そのビルが取り壊されるって聞いたから、見に行ってたんだ」
達也さんを見て、ディスプレイの中のビルを見る。初恋の相手。これが。
たぶん、わたしがいまいちピンと来ていない顔をしていたんだろう。達也さんが苦笑しながら言った。
「このビルを見たとき、生まれて初めて、ああ、恋に落ちる、欲情するっていうのはこういうことを言うんだ、って思ったよ」
「よくじょう……」
「そう。中学三年生のときだった」
それまで、グラビア雑誌の女性の際どい水着姿を見てもなにも感じなかったのが、そのビルを見た瞬間に世界がひっくり返ったのだと達也さんは言った。
わたしには、その背筋を走るぞわぞわした違和感も、下半身を熱くする情動も、焦がれるような切迫感も経験がないけれど、それがはじめて身に降りかかることを想像したら、きっと大変な事件なのだろうと思った。若かった達也さんも混乱したに違いない。
「……気持ち悪い?」
軽い調子で聞いてきた達也さんに、ぶんぶんと首を横に振る。
「ううん。うらやましい」
「羨ましい?」
「だって、わたしにはそういうのわからないから」
言うと、そうか、と頷きながら達也さんが目を細めた。言いたいことは誤解なく伝わったらしい。
「今日のもそうだけど、好きになったビルの取り壊しには、出来るだけ足を運ぶようにしてるんだ」
「もしかして、バイクでよく出かけるのってそれが目的?」
「うん。まあ、もちろん趣味もあるけどね」
わたしから携帯端末を受けとると、達也さんはビルの輪郭を指で辿るようにディスプレイに触れた。タッチパネルが不粋にも画像をがたがたさせるので、空気を読め、と念を送る。
「俺たちはさ、モノが相手だから恋愛は出来ないし、車とかビルを見てオナニーする変態だと思われてるかもしれないけど、相手をいとおしむ感情はもちろんあるんだよ」
「うん」
「だから、壊されるの見るのは正直つらい。目の前で殺されてるみたいなもんだからね」
「……じゃあ、どうして見に行くの?」
達也さんがこちらを向いた。にっかと歯を見せる、愛嬌のあるあの笑顔だ。
「何でだろうなあ、やっぱり好きだったからかな。悼んであげたいんだ、せめて俺くらいは」
ビルが取り壊されるのを見て、心が痛むひとは一体どれほどいるんだろう。
よっぽどそこに思い入れがある人ならまだしも、少なくともわたしは気にもしたことがない。達也さんは、もしかしたらそういう瞬間に、ふと他人と自分のセクシャリティの隔絶を感じるのかもしれない、と思った。
「ねえ、達也さん」
「うん?」
「もしまた取り壊しを見に行くことがあったら、そのときは、わたしも一緒に連いて行ってもいい?」
「アイちゃんも?」
頷く。
不思議そうに首を傾げる顔に向けて言った。
「だって、ひとりで行ったら、達也さんがかなしくなったときに慰めてあげられるひとがいないでしょう?」
達也さんは目をまるくして、わたしを見つめる。見つめて、そして、一瞬すこしだけ泣きそうな顔をすると、それを隠すかのようにわたしの頭を手荒に撫でまわして、ぎゅっと押さえつけた。……痛い。
「くそ、ちょっと感激しちゃったぞ。やるなアイちゃん」
「ふふ、やったあ」
「おじさん喜ばせてどうするんだ、全く……」
恥ずかしそうに苦笑する達也さんが、アイちゃんはいい子だね、とやさしく言った。わたしは、あなたこそいいひとだ、と思う。そういうあなたにやさしいわたしであるなら、それは、とてもうれしい。
20131029
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