201号室:四月一日 暁



「自分の名字、きらいなんだ」

 ……なんで?
 浮かんだ疑問がそのまま口からするんと飛び出ると、あっくんは眉間に皺をよせてちょっと厭そうな顔をした。それ聞いちゃうの?とでも言いたげだ。
 いやいや、聞いちゃうよ。理由がわからないもん。とりあえず賄賂がてらに共用スペースのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れようとしてみたけれど、勝手がよくわからなくてしばらくがたがたやっていたら、俺がやってみせてあげるから退いてなさい、とその場から引き剥がされた。

 慣れたように機械を操作して、やがて透き通った深いブラウンの液体がカップに注がれていくのをじっと見ながら、でも、あっくんて眉間に皺よせると眉が八の字になって困っているみたいに見えるから、あんまり迫力はないなあ、と考える。可哀想さは増すけど。あっくんはよく見れば割と整った顔立ちをしているのに、なんだかちょっと残念だ。

「名字きらいってめずらしいよね」
「そう?」
「ワタヌキってそんなに変な名字じゃないと思うけど」

 口にして、はたと気付く。

「そういえば、ワタヌキってどういう漢字書くの?」

 何気なく言ったつもりだったのに、あっくんはまたまたあの厭そうな(でもやっぱり可哀想さが勝ってしまう)顔をした。地雷だったらしい。

「……言いたくない」
「えー」
「きらいなんだってば」
「漢字が変ってこと?」
「黙秘」
「えー!」

 淹れてもらった熱々のコーヒーをこわごわ両手で支えながら、二人して共用スペースのソファーに移動する。
 わたしより先にソファーにぼすっと座りこんだあっくんは、コーヒーメーカーの使い方覚えた?と聞いてきた。話題を変えるつもりのようだ。隣に腰かけつつ、覚えた、と答えると、嘘つけ、と返される。なんでバレたんだろう。

「それね、しがつついたちって書くんだよ。アイちゃん」

 そこで、突然割って入った声が、突然そんなことを言った。

「あ、達也さん」
「ただいま」
「帰ってたんだ。おかえり」
「おかえりなさい」
「ついさっきね。これ神戸土産。あと俺もコーヒー飲みたいぞあきらくん」
「あーはいはい」

 ちょっと待って、とあっくんが再び立ち上がってコーヒーメーカーへ向かう。わたしは達也さんが差し出した紙袋を受け取り、中を覗いた。東京バナナだった。

「いや、神戸でお土産買ってくるの忘れちゃってね」

 だからとりあえずこれで我慢して、と笑う顔は、また一段と日に焼けたように見える。ワイルドさが増したね、と感想を伝えると、普通に仕事してきただけなんだけどね、と達也さんは不思議そうに首を傾げていた。建築士ってそんなにサバイバルな仕事なんだろうか。一緒になって首を傾げていたら、こちらに背を向けてコーヒーを淹れていたはずのあっくんが、アイの気のせいなだけだと思うよ、と短く見解を述べた。

「ところで、さっきのってどういう意味?」
「ん?」
「しがつがどうのこうのって」
「あー、それね」
「教えなくていいよ」

 厭そうな声(顔はきっと可哀想になっているにちがいない)であっくんが諌めたけれど、達也さんは気にせずわたしの斜向かいの一人掛けのソファーに座ると、いたずらっぽい表情で言った。

「あきらの名字のさ、漢字の話だよ」
「漢字?」
「四月一日って書いて、ワタヌキって読むんだ。珍しいだろう」

 確かに、今までお目に掛かったことのない名字だ。わたしは紺野というありふれてはいるけれども佐藤や鈴木ほどメジャーじゃない名字だから、こういう珍しい名字はちょっとうらやましい。

「そんな隠すことないのに。読みづらいのはあるかもしれないけど、覚えてもらいやすそうだし、わたしはいい名字だと思うけど」
「や、違う違う。あきらがこの名字嫌いなのにはさらに理由があって……」
「達也さん、話しすぎだよ」

 顔を上げると、いつの間にかコーヒーを淹れ終わっていたあっくんが傍らに立っていた。憮然とした表情で達也さんにカップを差し出している。それを受け取った達也さんは、やっぱり気にせずありがとうとにっかと笑った。大人の男の人がこういう笑い方をすると、妙に愛嬌が出るのだというのは達也さんから学んだことのひとつである。

「理由、まだあるの?」
「教えてあげたら?あきら」
「………」

 再び隣に座ったあっくんは、むっつりと黙ってコーヒーをすすっている。でも別段嫌だともなんとも言わないので、達也さんは教えることにしたらしかった。

「こいつね、誕生日も四月一日なんだよ」
「え?」
「名字が日付だからやっぱり聞かれるんだって、『誕生日も四月一日なんですか?』って。それでまさしくその通り四月一日が誕生日だろ。そうなると、段々本人それ言うの恥ずかしくなってきちゃったらしくてね」

 コーヒーに口をつけながら、達也さんが苦笑する。黙っていたあっくんが憤然と反論した。

「別に恥ずかしくなったんじゃなくて、初めて会う奴に四半世紀以上毎回おんなじこと聞かれ続けたら誰でもめんどくさくなるだろ」
「まあそうだわな」
「だから、名刺渡すとかそういう嫌でも漢字を目にされるとき以外は、基本的に黙ってることにしてる」

 いちいち誕生日教えることになるのも嫌だし、と言うあっくんは、その厭そうもとい可哀想な顔も相まって、なんだか迷子になって途方に暮れている子どもみたいだった。泣くことも忘れて人ごみのなか立ち尽くしている、頼りなげな子ども。

「あ、そうだ。この土産ママにも渡してこないとな」
「そういや土産って結局なんなの?」
「東京バナナ」
「……神戸じゃないじゃん」
「たまには地元に立ち返ってみるのも良いもんだぞー」

 達也さんは紙袋から東京バナナの箱を一つ出して好きなだけ食べろと告げたあと、カップ片手に共用スペースを出ていった。たぶんママの部屋に行ったんだろう。あの紙袋にはあと二箱入っていたから、ママのお店のみんなの分もあるのかもしれない。
 一応補足として、神戸でお土産買うの忘れたんだって、とあっくんに教えてあげたら、そうだろうね、と呆れたように返された。呆れてはいるけれど、口調はちいさく笑っている。

「……昔、さ」
「うん?」
「俺の名字見て、誕生日も四月一日なのって聞いてきたやつがいてさ」

 そういうひとはあっくんの言葉を借りると四半世紀以上の間にいっぱいいたらしいけれど、この話ぶりからすると、これは特定の個人の話だろうか。わからないまま、とりあえず頷く。

「俺、そんときも多分イヤーな顔してそうだけどって答えたと思うんだけど、そいつ、なんか喜ぶの」
「よろこぶ?」
「俺ひとの誕生日覚えんの苦手だけど、お前のは忘れそうにないわー、って、なんか、喜ぶの」

 あっくんは達也さんを見送った姿勢のままドアの方を向いているから、どんな表情をしているか完全にはよくわからない。ただ、声がしんと静かに空気を震わせていて、ああ不思議だなと思った。
 あっくんの話し方は不思議だ。一瞬の揺らぎさえない凪いだ湖面を小鳥がちょんと蹴って波紋をつくるような、その波紋がいつの間にか大きな湖全体に行き渡って漣を生むような、そういう話し方だ。穏やかで落ちつくけれど、どこかひとをそわそわさせる。あっくんは不思議だ。

「そういうの、思い出すからきらいなんだよね。この名字」

 そう言ったあっくんは、テレビのリモコンを手にして電源を入れた。
 東京バナナ食べる?と聞かれたので、うんと答える。ばさばさと箱を開けていく乱雑な手つきはさっきの静けさとは正反対だ。

「わたし、実は東京バナナって食べたことない」
「俺も初めて」

 わたしたちは顔を見合わすと、同じタイミングで破顔した。たまには地元に立ち返ってみるのも、良いものかもしれない。




20131022

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