番外3:波江 祐里子



 朝、納品された花を店先に運んでいると、オガさんがすっきりしたスーツ姿で現れた。おはよう、と笑う顔は相変わらず和み系だ。見ていて癒される。

「波江いる?」
「うん。奥にいるよ」
「え、あいつ手伝いもしないで何やってるの」
「たぶんパソコンと闘ってる」
「ひどい奴だね! 女の子一人にこんな力仕事させるなんて」

 ナミエさんも一応女の人です、と言おうとして、はたと思いとどまった。そうだ、ナミエさんは体は女の人だけど、心は男の人なのだった。ナミエさんてとくに男の人っぽい話し方や格好をしていないから、うっかり忘れそうになる。髪も長いのをひとつに結んでいるし。

「手伝おうか?」
「ううん大丈夫。オガさん、仕事は?」
「これから行くところ。波江に会ってから行こうと思って」
「ラブラブだね」
「お陰さまでね」

 にっこりと微笑んだオガさんは、わたしに断ると慣れた様子で奥に入っていった。
 オガさんはなんとかという会社の偉い人で、遅めの出勤が許されているらしく、時折こうして朝方にここを訪れる。本人は小さい会社だよ、大したとこじゃないよ、と言っていたけれど、会社の名前を聞いたあっくんや豊岡さんが揃って目を剥いていたので、たぶん大した会社なんだと思う。謙遜は信用ならない。

 奥の方から、二人の話し声が聞こえた。オガさんがナミエさんを叱っているようだった。いわく、せっかく君なんかの元で働いてくれているんだからアイさんをもっと大切にしなさい、だそうだ。対するナミエさんはごめんごめーんと笑っている。わたしはわたしで結構この仕事がたのしいので、別に多少大変でも構わないのだけれど、オガさんはいつも気を遣ってくれる。あいつフェミニストなんだよ、といつかナミエさんが言っていた。

 そんな二人の左手の薬指にはお揃いの指輪が光っているのを、わたしは知っている。オガさんとナミエさんは、いわゆるパートナーだ。けれども、オガさんはゲイだ。





 ナミエさんは、FtMゲイらしい。
 はじめに聞いたときはなんのことだかさっぱりだったのだけれど、FtMというのは体が女の人で心が男の人、というトランスジェンダーのひとを指すことばだそうだ。ちなみにママはMtF。英語のなんとかという言葉を省略した言い方らしいけれど、残念ながらわたしには覚えられなかった。
 以前はナミエさんもあのアパルトマンに住んでいたから、ナミエさんとママは親しい。わたしがアルバイトとして雇ってもらったのも何を隠そうそのコネである。そんな仲良しのママだから、いつだったか苦笑いまじりに言っていた。あの子自分では言わないけど、昔は相当大変だったと思うわよ、と。
 セクシャル・マイノリティには自助グループとかのコミュニティが間々存在するのだけれど、ナミエさんみたいなひとの場合、FtMのコミュニティに行けば「男が好きならFtMじゃない」と言われ、ゲイのコミュニティに行けば「女なんだからゲイじゃない」と言われてしまう。そうやってどのコミュニティからも弾き出されてしまうのだ。今でこそトランスジェンダーの同性愛者、というひとたちが存在することも知られるようになってきたけれど、ナミエさんが若いときなんかはまだまだ存在していないことになっていて、当時は針のムシロみたいな状態だったんじゃないか、って、これは全部ママの受け売り。

 店奥にある休憩スペースでお昼ごはんを食べながら、ナミエさんの出してくれたお茶を飲む。ナミエさんは料理が壊滅的に下手くそなので、ただお茶っ葉にお湯を注いだだけでもなぜかそれがまずくなる。あいつきっと腕からなんか変な汁が出てるんだよ、とはオガさんの言であった。

「ナミエさん」
「うん?」
「ナミエさんは、どうして男の人っぽくないんだろう?」

 トランスジェンダーと言えば、わたしは他にママくらいしか知らない。だからママを基準に考えてみる。ママは、女の人みたいな喋り方や格好をしていて、声は低くて首は太くて肩幅もがっちりしているけれど、ちゃんと女の人に見える。でもナミエさんは、一見すると普通の女の人だ。心が男の人だと、もっと男らしくしたいとかそういう風にはならないんだろうか。
 そう思って尋ねたら、ナミエさんはうーんと思案げに首を傾げた。

「…………男っぽいってなんだろうね?」

 なんと。逆に質問されてしまった。

「だぜ、とか、じゃねえよ!とか言うこと? 一人称が俺や僕なこと? 髪が短いこと? 筋肉ムキムキなこと? ズボンを履いていること?」
「うーん……?」

 今度はわたしが首を傾げる番だった。どれもそうだし、どれも違う気がする。言われてみれば、男っぽいってなんなのかよくわからない。

「世の中には、そんなステレオタイプの男ばかりじゃないだろ? 女だってそうだよ。料理が好きな男もいれば髪が短い女だっている。なのに心と体がバラバラに生まれてきてしまった私たちだけ、『男らしさ』や『女らしさ』に囚われてそういう多様な生き方が出来ないなんて、不公平じゃないか」
「ふこうへい……」
「あ、もちろん、自分でやりたくてそうしてるってんならいいとは思うけどね」

 言われて、ぽんとママの姿が頭に浮かんだ。確かにママは、お化粧したりスカートを履いたり、そういう典型的な『女性らしいこと』をするのが好きだ。けれど、それを囚われているとは思わない。ママらしいなって、そう思うだけ。

 ナミエさんの言うことが、なんとなくわかってきたような気がする。

「私は男だけど、それ以前に『私』なんだ。だから何よりもまず『私らしく』いたい。一人称は私がいいし、まとめやすいから髪も長い方がいいし、服装もユニセックスなのが好きだし、そうやって『私』がやりたいことを好きなようにやりたい! そのせいで私が男であることやゲイであることを周りから理解されずに否定されても、私が私として生きていられる限り、絶対に後悔はしないよ」

 詰まるところ自分大好きなんだよねえ、と言ってナミエさんはぐいっとお茶を飲み干した。そしてまずーい!と仰け反って笑っている。自分で淹れたのに自分の味覚にも合わないらしい。

 『私らしく』いる。それってすごく難しい。ママが言っていたように、そうすることできっとナミエさんはたくさん傷ついてきたんだろう。それでも、曲げなかった。無理に男っぽくしたり、ましてや女っぽくもしなかった。ただひたすらに、自分らしくいた。
 そうしてやっと、そういう自分をまるごと大切にしてくれる相手と出会ったのだ。オガさんはゲイだけど、体が女の人であるナミエさんを愛している。それは、ナミエさんの心はほんとうは男のひとで、尚且つゲイであるということを理解して、受けとめてくれたからだ。
 FtMを好きになれるゲイのひとも少ない、というあっくんの証言もあるから、二人が結ばれるのは、きっと、ぜったい、容易なことではなかっただろう。たくさん悩んで、たくさんぶつかったりもしたのだろう。それでもお互いに手を取ることを決めたのだ。パートナーとして、生きていくことを決めたのだ。

 わたしにも、いつか現れるんだろうか。誰も愛せないわたしを、まるごと大切にしてくれるだれかが。

「……ごめんなさい」
「ん? どうして謝るの?」
「わたし無神経なこと言っちゃったから」

 ナミエさんがおおらかなひとだとは言え、あまりにずけずけとものを言いすぎた気がする。わたしが言った言葉なんか、きっとナミエさんは今までに飽きるほど浴びせられてきただろうし、その度に、傷ついてきたのかもしれない。
 そう思ったら、途端にしゅんとして項垂れてしまう。……反省。

「ああ、まあ、気にするこたないよ! 私としてはむしろ面と向かってそういう風に言われる方が反論の余地があるし、何よりモヤモヤしないからね。そんなに気に病まないで」

 それに、とナミエさんがわたしの分のカップを手に取った。あまり口をつけていないので、まだ並々とお茶が入っている。

「アイちゃんはそうやって、自分が間違っていたと思ったらすぐに謝ることができる。それはキミの素晴らしい美点だと思うよ。誇りなさい」

 ぐいっとカップを煽って、やっぱりまずーい!とけらけら笑っているナミエさんを見つめながら、わたしもつられて笑う。
 同じだけの気持ちを返せないわたしには、ナミエさんにとってのオガさんみたいな存在は現れないのかもしれない。けれど、だからって誰からも愛されないわけじゃない、のかもしれない。

 わたしには、ちゃんと味方がいる。あっくんも、達也さんも、ママも、もちろんナミエさんも、わたしを大切にしてくれる。だからわたしも、わたしらしくいよう。それがとても痛くて、つらくて、死にそうなほどかなしくなっても、わたしの心がそうしたいって叫び続ける限り、がんばれって応援してくれるだれかは、いるのだから。




20161028

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