春の夜、朧


手を引かれて歩く。ボンヤリと上を向いたまま、その視線を下へと降ろすことができない。前を歩くその人が、時折振り返っては見てくることも感じてはいるけれど、やはり視線は上へと向けたまま。黒く広がる空を後ろに従えて、提燈の微かな明かりを身に纏っている。ただ、悠然に、艶美に、荘厳に立っている。照らしだされたその色は桜色よりも微かに赤みを帯び、薄紅色に染め上がっている。桜というよりは裏梅を匂い立たせる。

「いい加減転ぶぞ」

掛けられた言葉に、夢現に返事をすれば、これ見よがしに溜め息を返された。

「どっか止まっか。おい」

強引に引かれる手は、そうでもしなければ私が足を進めようとしないからか、それとも止めようとしないからか。

「奈々子、首痛くなんぞ」

魅入られた。魅入られたからには、視線を外すことなどできない。風に煽られ揺れる枝は、優雅に手を招いているようで、その招きに応じてしまえば、己はどこに連れていかれるのだろうか。

ふいに視界になにも映らなくなった。目隠しをされたことに気付くにはいささか鈍すぎた。

「見すぎなんだよ」

耳元に落とされる声だけが鮮明に響く。桜が、見えない。

「裕行?」
「桜、見すぎなんだよ」

目を隠しているのは、その温もりから裕行の手だということは分かるけれど、どこにいるのかがわからない。声だけが、明瞭に響く。

「だって、お花見だし」
「だからって、見すぎなんだよ」
「でも、夜桜って、昼間と違って、」
「だってもでもでも、見すぎなんだっつーの」

引き寄せられて、ようやく後ろにいるのだとわかる。外での珍しい行為に困惑しかけて、そういえばこの並木は人のいない隠れスポットだったことを思い出す。

「桜、見なかったら、お花見にならないよ」
「充分見ただろ。いい加減に他のもん見ろっつってんの」
「他の?」

他のものとは桜以外になにがあるのかと問いただせば、俺に言えるか、と照れ隠しの声と同時に目隠しの手が離された。やっと戻ってきた視界で、それは桜と同じように微かに赤みを帯び、色づいている。

「裕行のことは明日も明後日も、これから先、ずっと見るからいいんだよ」
「なっ!奈々子!お前っ」

どんどんと中紅色に染まっていく裕行を見て、幻想的に、幻惑的に見えていた世界が現実味を帯びていく。

「バカ奈々子」
「ふふっ。だーい好きだよ、裕行」

桜よりも、もっときっとずっと、大好きだよ。



fin


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