お友達から | ナノ

  ジレンマ


ピザを食べ終えて後片付けも終わらせると、ちょうどシャワーを浴び終えたらしい獪岳先輩がパンツ一枚でリビングまでやって来た。

「あ……先輩、着替えあるんですか?」
「あ? あぁ……お前の借りた」
「えっ!?」

そう言って今日着ていたシャツを着始めた先輩の下着をよく見ると、確かに僕が所有しているパンツだった。見覚えがあるなとは一瞬思ったけど、まさか僕のものを勝手に使うなんて。

「なんだよ。文句あんのか」
「あっいえ……」
「洗濯して返しゃいいだろ。パンツ一枚で一々騒ぐな」
「はい……すみません」

そういう問題じゃないと思う。借りるならせめて一言なにか言って欲しかった。でもこの人にそんなこと望んでも無駄なことだとはもう察している。僕はそれ以上何も言わずに、獪岳先輩の後に続いてシャワーを浴びに行った。




──今日は疲れているから一刻も早く寝たくてシャワーも早く済ませてしまった。着替えてから脱衣所を出ると、先輩はすでにソファーの上に横になって眠っていた。

また毛布を掛けていない。風邪を引いたらどうするつもりなんだろうこの人は。

仕方なく昨日掛けたタオルケットを探しに部屋へ行くと、タオルケットはベッドの上に乱雑に置かれていた。たぶん、獪岳先輩が置いたんだろうと思う。

あの人がわざわざ畳んで返すわけないか、と呆れつつ、僕はタオルケットを取って部屋を出た。静かなリビングにあるソファーに近づくと、瞼をしっかりと閉じた先輩の寝顔が見えた。

寝息もほとんど聞こえないくらい静かに眠っている先輩の体に、起こさないようそっとタオルケットを掛ける。一応小さな声で「おやすみなさい」を告げてから僕は自分の部屋に戻った。

明日は早起きしなくちゃいけないな──竈門ベーカリーに行く予定を考えながらベッドに入って眠ろうとすると、不意に炭治郎くんの顔を思い出した。途端に熱くなる顔を自覚して慌てて毛布を頭から被る。

どうしよう。行きたい気持ちは変わらないのに、すごく行きにくく感じる。明日もし炭治郎くんと会ったらどう挨拶すればいいんだろう。お礼を言うのも恥ずかしいし、かと言って黙ったままなのも変だし。

「……もう、いいや」

明日のことは明日考えよう。とにかく今日はもう疲れた。
考えることを諦めると、僕は大人しく瞼を閉じて沈んでいく意識に身を委ねた。



◆◆◆



次の日──予定通りの早起きでマンションを出ることができた。獪岳先輩はまだ眠っていたので、とりあえず今度は怒られないように「お先に行ってきます」とメモを残して出た。何かあっても、先輩も僕と同じ学園に通っているから後で会うことはできるはずだ。

コンビニに寄ってATMからお金を出すと、真っ直ぐに竈門ベーカリーへ向かった。だけどいつもならすぐに入れるはずのお店の中に今日はなかなか入れずにいる。さっきからずっとお店の近くでうろうろとしているばかりだ。

「はぁ……」


別に、お店が閉まっているわけではない。単に僕が緊張して入れないだけだ。この時間ならもう炭治郎くんも出ていってるはずだけど、もし鉢合わせたらと思うと足が動かなくなる。

「あら、あなた……」
「ひぇっ」

しばらくうろうろとしていたら、突如後ろの方から扉の開く音と共に女の人の声が聞こえた。慌てて振り返ると、炭治郎くんのお母さんが僕の方を見て微笑んでいた。今日もお美しい。

「いつも買いに来てくれてる子よね?」
「あっ、ぁっあの……」
「おはよう。今日も早いのね」
「ぁっお、おはよう、ございます……」
「いつもの餡パン、用意してあるわよ」
「ぇっ、あっ、はっはい、あの……ありがとう、ございます……」
「でも残念ね、今日も息子は先に行っちゃったのよ。息子にはいつも買いに来てくれるあなたのことも話しているんだけど──」
「えっ!?」
「他の兄弟を送るのに時間が掛かっちゃうから、どうしてもあなたが来るより早く家を出ちゃうのよ」

お母様、なんてことを──強い目眩がして思わず頭を抱えた。

だとすると炭治郎くんはすでに僕のことをある程度知っているという話になってくる。もし炭治郎くんに僕が炭治郎くんに会いたくて毎朝パン屋さんに来ているということが知られたら──絶対気味悪がられる。

「ところで、今日も餡パンを買っていくのかしら」
「……っあ、はっはい!」
「わかったわ。待っててね、今持ってきてあげる」
「あっそんな、大丈夫です!僕、自分で、あのっ」
「あら、大丈夫なの? なんだか入りにくそうにしていたからてっきり何か困っているのかと──」
「ち、違うんです!大丈夫です!っていうか、あの、お店の周りうろうろしてすみません!すぐ買って退散しますから!」
「ふふふ、慌てなくても大丈夫よ」


──その後、炭治郎くんの優しいお母さんのおかげで今日も無事に餡パンを買うことができた。でも僕の心臓はさっきからうるさいくらい鳴り続けていて、僕はその音を抑え込むようにして餡パンの入った袋を胸に抱いて走った。

学園の校門が見えてくると、たくさんの生徒に混じってある一人の生徒の姿が目に留まった。

「あっ……」

善逸くんだ。一際目立つ金髪が見えて思わず口角が緩んだ。校門前で突っ立って何しているんだろう。手に何か持っているけど──

あれ? そう言えば今日って、確か──

「だから前ボタンとめろってお前!」
「うるせぇッ!指図すんじゃねぇッ!!」
「ギャーッ!!」

そうだ。今日は、服装チェックの日だ。昨日あれだけ善逸くんに忠告されていたのにすっかり忘れていた。

どうしよう。昨日は色々ありすぎて髪を切る暇もなかったから全く手付かずのままだ。もし冨岡先生に見つかったらしばかれる。

「……ん? あ」
「あっ……」

その場から動けずに恐怖に震えていたら、服装チェックをしていた善逸くんと目が合った。善逸くんは僕の姿を見て一瞬目を見開かせると、辺りをキョロキョロ見渡してから僕に向かって手招きしだした。

まさか僕を呼んでるのだろうか──念のために後ろを振り返るが誰もいない。もう一度善逸くんの方を振り向くと彼は怒った顔で力強く手招きしていた。僕は恐る恐る自分の顔を指差して首を傾げた。善逸くんはそれに何度も頷く。どうやら僕を呼んでたみたいだ。慌てて小走りで彼の元まで向かった。

「お、おはよう善逸くん……」
「お前……ッ髪切って来いって言ったじゃん!」
「ご、ごめん……。あの後色々あって……切る暇がなくて……」
「そう言ってもお前、今度こそ絶対冨岡先生に捕まるぞ。今下駄箱の前で俺が通したやつ再チェックしてるから」
「えぇっ!どうしよう……!」
「ったく……しょうがないなぁ」

善逸くんは呆れ顔で僕を見ると、持っていたペン先を下駄箱から外れた方向に向けた。

「向こうに教員用の出入り口があるからそこから入って下駄箱に行けよ」
「えっ」
「内側から行ったらたぶん冨岡先生にバレないから」
「あっありがとう善逸くん!ほんとに、本当にありがとう!」

前回は見逃してくれたけど、今回はそれだけじゃなく僕を先生の目から逃してくれようとしてくれている。ここまで親切にしてくれるなんて、善逸くんは本当にいい人だ。僕は彼の手を握って何度も礼を述べた。

「あのっ、今度お礼させて!善逸くんには二度も助けてもらって──」
「いいから早く行けって」
「ぁっ、う、うん!ありがとう!」

先生の目が気になるのか、善逸くんは僕から目を逸らして気まずそうに言った。
違反者の僕がこれ以上善逸くんの側にいたら善逸くんに迷惑をかけてしまう。僕は後ろ髪引かれる思いで、彼の言った教員用の出入り口まで走った。


そうしてしばらく走っていると、善逸くんが言った通り下駄箱から離れた位置に別の出入り口が見えた。生徒は僕以外誰もいない。幸いにも他の先生の姿も見当たらなかった。行くなら今しかない。

僕は出入り口から入ってすぐに靴を脱いで靴下のまま下駄箱まで走った。もし先生に見つかったら「廊下を走るな」と叱られそうだけど今はもうとにかく急ぐしかなかった。

急いでいたおかげかなんとか先生とはすれ違わずに済んで、僕は下駄箱に辿り着くとができた。靴を持ったまま自分の上靴がある場所まで行ってそっと上靴と履き替える。

ミッションコンプリート。
僕は額に浮かんだ汗を拭ってホッと一息ついた。

あとは今日一日冨岡先生と会わずに過ごすしかないのだが──幸い今日の授業に体育はないのでそこだけ気を付けていればなんとかなるはずだ。

ちょうどチャイムが鳴って、外にいた生徒達が一斉に中へと入ってくる。それと一緒に外にいた冨岡先生まで中に入って来るのが見えて僕は慌てて教室まで走った。



◆◆◆



教室に入ると、自分の席に座った不死川くんの後頭部が見えた。机に頬杖をつきながら窓の外をじっと眺めている。

何を見ているんだろう。気になりながらも僕は不死川くんの席の近くにある自分の席まで向かった。

「おはよう、不死川くん」
「……あぁ」

あれ──なんだか、少し機嫌が悪そうな声だ。いつもなら僕を一瞥しつつも返事をしてくれるのに、今日は見向きもしてくれない。

そんなに気になるものが外に見えるのかな──僕も不死川くんが見ている方向へ顔を向けてみたけど、窓の向こうには大きな校門と広い校庭しか見えなくて特に何か変わったものは見当たらない。

不思議に思いつつ僕はそっと自分の席に着いた。その時もう一度不死川くんの方を見てみたけど、やっぱりじっと外を眺めている。

考え事をしているのかもしれない。そうでなくてもジロジロ見るのは良くないことだ。僕は彼から目を逸らしてそっとしておくことにした。


いつまでも窓の外を眺めている不死川くんをチラチラと見ながら、今日はずっとこのままなのかな──なんて思っていたけど、授業が始まれば不死川くんはいつも通りに戻っていた。

数学の授業でも不死川先生に指名されるといつも通り慌てていたし、煉獄先生の授業の盛り上がりにもいつも通りあまり乗り気な様子は見せなかったし、午前中の授業を通して彼を様子を観察してみてもあまり普段と変わっていないように見えた。

そしてお昼時になって──僕が餡パンを持って席から立とうとすると、不死川くんは一昨日と同じように僕の机に自分の机をぶつけるようにして勢いよくくっつけてきた。

向かい合う形で目の前からじっと睨まれて、僕はまた一緒に昼食を食べるのかな、と推測して大人しく自分の席に着いた。その推測が正しかったのか、不死川くんも黙ったまま目の前にある席に着いた。

「……足はもう大丈夫なのか」
「えっ? あ、あぁうん。もう走ってもあまり違和感ないし……大丈夫だよ。ありがとう」
「……お前」
「え?」

どことなく気まずい気持ちのまま餡パンを食べようとしたら、不意に不死川くんが話しかけてきた。お弁当も出さずに自分の机の上をじっと見つめている。

「あいつと……仲良いのか」
「えっ……と、あいつって……?」
「筍組の、我妻」
「……っあ、善逸くん?」
「ッ!」

善逸くんの名前を出したら不死川くんの眉間にグッと皺が寄った。めちゃくちゃ不機嫌そうな顔になってる。不死川くんから名前出してきたのにどうしてそんな顔するんだろう。

「あの……そんなに、すごく仲がいいとかじゃないけど……」
「……校門前で随分楽しそうに話してたな」
「え? ……あっ、ちがっ……別にあれはそういうのじゃなくて、えーっと……なんて言うのかな……」

口籠る僕を不死川くんは睨むようにじっと見つめてくる。そんなに見つめられると妙に緊張してしまって言葉がうまく出てこない。

「……あの、あまり大きな声で言えないんだけど……」
「…………」
「えっと……今日ほら、服装チェックの日だったでしょ? だから、ほら……僕の髪、冨岡先生に見つかったら叱られるから……善逸くんが見逃してくれたんだ。それでお礼を言ってただけで……」
「それだけであんな顔見せんのか」
「えっ」
「優しくされて良かったな」
「えっ、えっ……」

ガタッと音を立てて突然席を立った不死川くんが、机を元の位置に戻して教室から出て行ってしまった。残された僕は餡パンを持ったまま呆然としてしまって、しばらく何が起きたのか理解できないまま一人で過ごした。



◆◆◆



不死川くんはあれから昼休みが終わって教室に戻っても、出て行った時と同じように不機嫌そうな顔のままだった。午後の授業はずっと一緒だったのに僕の方に見向きもしてくれなかった。

結局放課後になっても不死川くんは僕と目線を合わせようとはしてくれなくて、何も言わずにさっさと一人で出て行ってしまった。僕はもう訳が分からなくて、泣きそうになりながらも荷物をまとめて教室を出た。

どうしてあんなに怒ってるんだろう。僕が何か不死川くんに悪いことでもしてしまったのかな。身に覚えが全くなくて罪悪感すら感じた。

「継国」
「!」

俯きながら他の生徒に混じって校門を抜けると、突然後ろから声をかけられた。振り返ると、無表情の不死川くんがすぐ後ろに立っていた。

もうとっくに帰ってるか部活に行ってるのかと思ってたのに。もしかして、教室を出てからずっと校門の側に待ち伏せていたのかな。

「不死川くん……帰ったんじゃ──」
「名前」
「え?」
「名前で呼べよ」
「えっ……名前って……不死川くんの?」

尋ねると不死川くんは小さく頷いた。
今までそんなこと言ってこなかったのに急にどうしたんだろう。唐突過ぎてちょっと困惑してしまう。

「えっでも……何で? いいの?」
「呼べって言ってんだからいいに決まってるだろ。その代わり俺も今度からお前のこと名前で呼ぶからな」
「あっ……」

それだけ言うと不死川くんは踵を返して校舎の方へ戻ろうとした。

「ちょ、待って不死川く……っあ」

咄嗟に呼び止めようとしてつい苗字で呼んでしまった。足を止めた不死川くんは鬼みたいな顔をゆっくりと振り向かせて僕を睨んできた。

「……名前呼べって、言っただろ」
「ご、ごめん……!でも、そんな急には難しいよ……」
「じゃあ早く慣れろ」
「そんな……」

不死川くんの名前を呼ぶなんて今までほとんどなかったから、名前呼びに慣れるまで相当時間がかかりそうだ。

不死川くんもそうだけど、黒死牟さんもどうしてそんなに呼び方に強くこだわりを持っているんだろう。呼び方を変えただけで何か変わるとは思えないけど──

「……じゃあ……玄弥、くん」
「…………」
「…………」

──えっ何これ気まずい。
これであってるんだよね。名前呼ぶってこういうことだよね。おかしいなちゃんと呼んだはずなのにめちゃくちゃ睨まれてる気がする。

「……あの、やっぱ変かな……」
「……いや。それでいい」
「えっ……ほんとに?」
「ああ、むしろそっちの方がしっくりくる」
「そ、そっか」
「じゃあ俺もう行くから」
「えっ」

ふいっと顔を逸らした不死川くん──いや、玄弥くんは、僕を置いてまた学園の方へ戻って行ってしまった。帰らないってことはたぶん、あのまま部活に行くんだろう。

玄弥くんは射撃部に入部したらしいから、初めての大会に向けて猛練習してるんだろうと思う。彼が練習している姿を少し見に行ってみたかったけど、僕は部外者だし玄弥くんに迷惑に思われるかもしれないからやめておくことにした。

今日も真っ直ぐ帰ろう──帰った先に待ち受ける獪岳先輩の不機嫌な顔を想像して、僕は一人深いため息を吐いた。



◆◆◆



マンションに着いて玄関のドアを開けると、僕の所有しているスニーカーの他にもう一足別の靴があった。その黒い革靴を見ただけで誰のものなのかすぐにわかって、サーっと顔から血の気が引いていった。

──黒死牟さんだ。もう帰ってたんだ。

まだこんなに明るいのに──この時間に、それも僕より早く黒死牟さんが帰り着いているのは初めてだ。何かあったのかな。

いや、何かあったとかじゃないだろう。昨日迷子になって黒死牟さんに迷惑をかけたことをもう忘れたのか。絶対そのことで何か言われるに決まっている。

どんな小言を言われるのかと怯えながらリビングまで向かうと、案の定リビングのソファーに黒死牟さんが座っているのが見えた。スーツの上着は脱いでいるから、すぐに帰るってことはなさそうだ。

「……帰ったか」
「あっ、は、はい」

じっと後ろ姿を見ていたら黒死牟さんがこちらに振り返った。相変わらず何を考えているのかわからないくらいの無表情だ。僕を見ても全く眉一つ動かさない。僕が帰ってきたことには気付いていたみたいだ。

「…………今日……早いですね」
「……あぁ」
「……えっ……と、何か……ありました?」
「……あぁ」
「…………」
「…………」

もうだめだ。疲れた。この人とこのまま会話が続けられる気がしない。さっきから同じ母音でしか返事してくれないもの。

「……あの、コーヒー……飲みますか?」
「……お前は……コーヒーが好きなのか」
「えっ? え、いや……別に、好きってほどじゃないですけど……」

とりあえず何か話さないといけないって焦りと、何か手を動かして気まずさを誤魔化したいって気持ちで言っただけなんだけど、変に思われたかな。

「……前も同じことを訊いてきたから、好きなのかと思ったが……」
「えっ……あ、違うんです。僕が飲みたいとかじゃななくて、黒死牟さんが──」
「呼び方」
「あっ……」

さっきまで全然表情を変えなかった黒死牟さんが、名前を呼んだ瞬間少しだけ眉間に皺を寄せた気がした。そういえば家の中ではパパって呼ばなきゃいけなかったんだった。

「あ……えっと、パパ……が飲みたいかなって……思って、それで……」
「いらん」
「…………」

何だろう──このやりとり初めてじゃないような気がする。
せめてもう少し柔らかい感じで断ってくれればいいのに、どうしてそんなに突っ撥ねるような言い方しかできないんだろうか。

「じゃあ……僕、部屋に行きますね……」
「待て」
「あっはい」

背を向けようとしたら呼び止められたのですぐに黒死牟さんの方に向き直った。何だろうと思いながら彼を見つめていたら「来い」とまで言われた。大人しく従って僕は恐る恐る彼の前まで回った。

「座れ」
「えっ……」
「ここに座れ」
「は、はい」

黒死牟さんは自分の隣を手で叩いて僕にソファーへ座るように促した。
さっきから犬にするみたいな命令しかされてない気がするけど、僕はそんなもやもやは隠して彼の隣にそっと腰を下ろした。

絶対気まずくなるだろうなって思ってたけど案の定気まずい空気になった。僕は自分の膝の上に拳を乗せて身を硬くさせながら俯いていた。

「……足はもういいのか」
「えっ……あ、はい」

黙っていたら突然横から話しかけられた。しかも話題が僕の足についてだ。いつも忙しい人だし、もう忘れられてるものだと思ってたけどちゃんと覚えていてくれてたんだ。ちょっとだけ感動した。

「……なら、獪岳はもういらないな……」
「えっ……」
「後で私から……連絡しておく……」

いらないって──つまり、もう獪岳先輩はこの部屋には来ないってこと?

そういえばまだ先輩は帰って来ていない。たぶん今学園から帰ってる途中だと思うけど、こっちに向かってる時に「もう来なくていい」なんて言われたら、先輩どう思うだろう。

あの先輩のことだから寂しがったりはしないだろうけど、来なくなっても事あるごとにお金をせびってきそうでなんかヤダな。昨日の件で脅しもされてるし──黒死牟さんにはとてもじゃないけど相談できない。

「……何か不都合があるのか」
「え……?」

俯いて悩んでいたらそう問い掛けられた。僕は顔を上げて黒死牟さんの顔を見た。相変わらずの無表情だけど、いつもよりは怖く感じない。むしろ、彼から僕に向ける眼差しがほんの少しだけ柔らかく感じられた。

もしかして、心配してくれてるのかな──

「あ……いえっ、特に不都合とかはないです!全然大丈夫です!」
「……また少し、痩せたな」
「えっ……」

不意に引っ張られた。引き寄せられて、黒死牟さんの胸に頬があたった。腕が背中に回り、強く抱きしめてくる。白い綿シャツを通して僕の頬に彼の体温と鼓動が伝わる。

いつも冷たい印象しか受けていなかった彼から、こんなにも人間らしいぬくもりを感じたのは、これが初めてだった。

「ちょっ……!」
「昨日の晩は……何を食べた」
「まっ待ってください!あのっ、何で抱き──」
「あまりに……貧弱過ぎる」
「ひゃっ」

背中に回っていた黒死牟さんの手がするりとシャツの下に手が入り込んで、僕の腰から背中にかけて体のラインをなぞるように指を滑らせた。

「やっ……あっ、ちょっと……っ黒死牟さん!」
「呼び方」
「そんなっ、んッ……!わ、わかったからッ……!パパ!わかったからぁ!」

肋骨の部分にかかった指先がコリコリと肌の上から骨のある箇所を掻いてくすぐったくて堪らない。逃れるために腰を引こうとすると、僕の顔の側に黒死牟さんの顔が降ってくるようにして寄ってきた。

「昨日の晩は……何を食べた」
「ひっ……ぁ、昨日、は……」

大混乱の中で必死に思い出そうとして視線を泳がせた。しばらく言葉を詰まらせてからようやく、僕は昨日獪岳先輩とピザを食べたことを思い出した。

だけど以前に黒死牟さんから栄養のある食事を摂れと言われていたことも思い出して、僕は言いかけた答えを咄嗟に唇を噛んで抑えた。黒死牟さんがそれに気付いて、そっと眉根を寄せた。

「……何を食べたのか……正直に言え」
「んっ……」

耳元で話されて思わず首が竦んだ。そのいつもより低い声には怒りが混じっているようだった。

「っぁ……き、のう、は……せ、先輩と……あの……」
「……何だ」
「……っ、ピザ、を……」
「ピザだと……?」
「あっ」

シャツの中から手が抜かれたかと思えば今度はソファーの上に押し倒された。またあの時のように上から覆い被さられてじっと見下ろされた。

「何故言うことを……聞かない」
「……っ、すみません……」
「……私が、お前の父親でないからか」
「えっ……」

額の上にかかっていた前髪をそっと手で払われた。視界がひらけて、黒死牟さんの顔が下からでもハッキリとよく見えるようになった。

黒死牟さんは、一見では感情を特定できないような複雑な表情をしていた。ただ、込み上がる何かを表に出さないようにと必死に耐えているように見えた。

「黒死牟さん……っあ」
「もういい」
「えっ」
「思ってもいないことを……もう無理に言わなくていい」

言い間違えたことに焦っていると、黒死牟さんはそっと僕から身を離した。そのままソファーから降りて、玄関の方へ真っ直ぐ向かって行く。

「あ、あの……」

呼び止めなくちゃいけない──そう思っても、僕の口からは黒死牟さんを呼び止める言葉は何一つ出てこなかった。

そして彼はそのまま一度も振り返ることなく、部屋から静かに出て行った。

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