藤色の焔 | ナノ


目ん玉が痛い。いや、真蓋が痛いのか。
きっと泣き過ぎたせいだ。僕を泣かせた杏寿郎が悪い。

「すまん、皐月」

喉が痛い。話すのも苦痛だ。杏寿郎が普段から馬鹿でかい声で話しかけてくるからこっちまで声を張り上げなくちゃならない。これも杏寿郎が悪い。

「悪かった、皐月」

心臓が痛い。杏寿郎の顔を見ているといつも胸がむかむかする。なのに杏寿郎は僕の顔を見ないとなかなか帰ろうとしない。しつこい杏寿郎が明らかに悪い。

「申し訳ない、皐月」

後は──そう、アレ。えっと、何だったっけ。

「……もうお終いか?」

違う。今思い出しているんだ。そんなに急かすなよ。そういうところが杏寿郎の悪いところだ。

「では、皐月は俺を許す気はないということだな?」




──別れ際、杏寿郎は穏やかな表情で僕にそう尋ねた。僕は杏寿郎の悪いところを作っては言葉にして羅列して、まるで必死に杏寿郎をこの場に引き留めようとしているみたいだった。

「許さなくてもいい」

僕が一生懸命他の悪い点を考えている時、杏寿郎は突然そんなことを言い出した。

意味がわからなかった。だって杏寿郎は僕に許して欲しくて今まで謝り続けてきて、あの鬼除けだって十年掛けて見つけて来たのに。許さなくてもいい、なんて言う杏寿郎の考えが全くわからなかった。

真相を聞けないまま杏寿郎は去ってしまい、僕はまた一人屋敷に取り残された。複雑な感情が胸の内をずっと占めている。それが気持ち悪くて、吐き気がした。布団に横になって何度も寝返りを打つが、ちっとも眠くならない。

「……会いたいなぁ……」

気付いたらまたそんな独り言を呟いていた。取り残された寂しさをとにかく紛らわしたかった。昔のように、多少強引にでも僕のことをこの屋敷から連れ出して欲しかった。

「……杏寿郎……」

楽になりたい。いっそのこと許してしまった方がこんな苦しい思いをせずに済むのかもしれないし。たった一言「許す」と言えばいいのだから。簡単なことだ。杏寿郎はもう充分償ってくれたんだ。

「ごめん、杏寿郎……」

そして今度は僕が謝る番だ──



◆◆◆



「許すよ」


翌日──朝餉の準備をしている最中にまた屋敷へ訪れた杏寿郎へ、僕はなるべく感情を表さないようにして淡々とそう述べた。裏口に立つ杏寿郎の顔を見ないように背中を向けて釜戸の前で屈んでいたから、今の杏寿郎の表情を窺い知ることはできない。杏寿郎は何も話そうとはしなかった。

「……わざわざ鬼除け探して持って来てくれたし、もういい」

我ながら酷い言い方だ。もっと言葉を選べばいいのに。どうして杏寿郎相手だとこんなにも素っ気なくなってしまうんだろう。意地が邪魔して素直に仲直りがしたいと言えなくなってしまう。

「……もう来なくていい」

思ってもないことすら簡単に口走ってしまう。相手を怒らせるような失礼なことしか言えない。この十年間、僕が杏寿郎に対して冷たくし続けたからなのか。話す相手が杏寿郎くらいしかいなかったから、まるで癖のように憎まれ口を叩いてしまう。

「皐月」

杏寿郎に名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がじわりと暖かくなった。いつもならこの感覚が不快で杏寿郎に対して怒鳴り声を上げていたのに、許すと言った後は不思議とそんな気が起きない。無視しようとした訳じゃないけど、僕は言葉がうまく出てこなくて杏寿郎の呼びかけにだんまりを決め込んだ。

「皐月、無理をしてまで俺を許さなくてもいい」

──何だよ、それ。

「……ッお前なあ!!」

僕は手元にあった薪を掴んで、振り返り様に杏寿郎に向けて投げ付けた。いつもなら簡単に避けきるくせに杏寿郎は薪を避けようとせず、目一杯の力を込めて投げ付けた薪は杏寿郎の肩に当たった。

当たったことに投げた自分が一瞬怯んだけど、もう止まらなかった。僕はあるだけの薪を脇に抱えて杏寿郎に一つずつ投げ付けた。

「僕がッ……どんな思いで!お前を!許したと!思ってんだ!このっ……!」
「すまない、皐月」

投げた薪が杏寿郎の体に当たって、痛そうな嫌な音がここまで聞こえてくる。杏寿郎はそれでも顔色一つ変えず、いつもの貼り付けたような笑みを浮かべて僕に謝った。

「馬鹿!馬鹿!バーカ!杏寿郎の阿呆!さっさと帰れ!」
「皐月」
「なんだよ!お前忙しいんだろ!僕の元まで謝り来る暇あるなら、鬼でも何でも退治して真っ直ぐ家に帰れよ!!」
「皐月、泣かないでくれ」
「……ッ!」

杏寿郎の言葉に薪を投げる手が止まった。動きが止まったと同時に息が苦しくなった。目頭が熱い。知らないうちに息が切れていて、僕は必死に肩で呼吸しながら涙を流していた。

「お、お……お前がさっさと帰らないから……ッ!」

耐え切れなかったじゃないか。
さっさと帰って目の前から消えてくれたなら、ずっと堪えていた涙も思う存分出せていたのに。せっかく別れる覚悟を決めたのに。

「皐月、すまなかった。お前の負担にならないよう配慮したつもりが、却ってお前を苦しめてしまうことになるとは思わなかった」
「……何言ってんだ、お前……」
「言葉を変えよう」

何度か頷くと、杏寿郎は突然僕の元まで歩み寄って来た。いきなり近寄って来るから俺は動揺してしまって、脇に抱えていた薪を全部足元に落としてしまった。ガラガラとうるさい音が足元から聞こえる。だけど、視線は近付いてくる杏寿郎から一切外せなかった。

「な、なに……」

緩やかに上がった杏寿郎の口角、真っ直ぐで綺麗な瞳──近寄った分、杏寿郎の顔が鮮明に見えてしまう。僕はこの顔に弱い。だからすぐに顔を俯けてしまった。

「皐月」
「……っ」

俯けた途端、顎下から指で掬われ顔を上げさせられた。しっかりと目が合うようにされて、瞳の中を覗き込むように顔を寄せてくる杏寿郎に心臓が止まるかと思った。

「俺を許さないでくれ」

体が震えた。言葉の意味を理解するのにこの状況は最悪過ぎた。今は乱れた呼吸を整えるのに必死で、杏寿郎に対して何も言葉を返すことができない。

「お前に許されると俺はお前に会うための口実がなくなってしまう。俺が柱になってから、他の柱にお前とはもう会うなと言われている。時間を無駄に使うなと」

悲しい目だ。杏寿郎が悲しい時に見せる目が、今はハッキリと見える。

「俺は鍛錬を積んで柱となった。怪我を負うこともほとんどなくなり、皐月の元へ……藤の花の家紋の家へ向かう機会も極端に減った。だから柱になってからも、無傷で藤の花の家紋を背負うお前の家へ向かえば他の柱に不審がられた。事情を話しても、あまり理解を得ることはできなかった」

杏寿郎は僕の頬に伝っていた涙の跡を指で拭った。肌に触れた杏寿郎の熱に意識が持っていかれそうになる。

「お前に許されると、今よりももっとお前に会えなくなってしまう。鬼殺隊の柱としては職務怠慢であり不健全ではあると思うが、俺はお前に毎日でも会いたい。だから俺からお前に会うための口実を奪わないでくれ、皐月」

頼む──最後にそう杏寿郎は言った。
杏寿郎から言われたことを理解するのに少し時間は掛かったが、杏寿郎は答えを急かしたりせず口を閉じたまま静かに待ち続けた。そして意味を理解してから、僕は自分の顔が一気に熱を持ったのを自覚した。

「なッ……な、なん、なにっ……なにを、馬鹿、みたいな……ッ」
「落ち着け皐月」
「落ち着けるわけないだろ!あんなっ……こと、言われて!あのッ……恥ずかしい台詞!」
「……恥ずかしいことか?」
「恥ずかしいだろ!」
「そうか!しかし俺はそうは思わない!」
「馬鹿ッ!!」
「ハハハハハッ!」
「笑うな!」

何でそんな、僕が十年間悩み続けていた気持ちを、杏寿郎はそんな堂々と言い切れるんだ。

杏寿郎が柱だから?
心身共に鍛えているから?

「僕はお前みたいに強くないんだよ!簡単にそんなこと言うな!なんて答えたらいいかわからないだろ!」
「すまん!」
「謝るくらいなら最初から言うな!馬鹿!」
「しかし皐月!会いたいという気持ちを伝えることの何が恥ずかしいのか俺にはわからん!皐月は俺と会いたくないのか?」
「あっ、あいッ……ぅ……」
「……皐月?」

会いたいに決まってるだろうがこの馬鹿!
僕が即答してない時点で察しろよこの阿呆!

「……ッいつまで掴んでんだよ!離せ!」
「む、すまん」

いつまでも顎にあった杏寿郎の手を叩き落として僕はすぐに背中を向けた。これ以上熱くなった顔を杏寿郎に見せたくなかった。

「とにかく!僕はお前を許したんだからもうそれで終わり!お前のッ……会いたい、とか……そういうのは知らん!」
「皐月、そんな意地の悪いことを言わないでくれ」
「ぅヒィッ……!?」

突然耳元で話しかけれて背筋が震えた。いつの間にそんな距離を詰めていたんだお前。毎度毎度、目を話した隙に一気に距離を縮めてくるのやめろ。心臓に悪いんだよ。

「急に耳元で話しかけるな馬鹿!ビックリするだろ!」
「すまない!」
「大体、会いたかったら勝手に会いに来ればいいだろ!お前は僕と違って何処にでも行けるんだから!」
「そういえば皐月は屋敷から出るのを禁止されていたな」
「そうだよ!爺様が帰ってくるまで待ってないと駄目だから、外にすら出られな──」
「ならば俺と一緒に出掛けてみないか」
「はっ!?」

予想外の台詞に言いかけていた言葉も出なくなった。あまりにも突発的過ぎてなんて返したらいいのかわからない。

昔の記憶が蘇る。
僕が屋敷から出られないと杏寿郎に告げた時──僕の手をとって、杏寿郎はこの屋敷から僕を連れ出してくれた。

とても楽しかった。嬉しかった。

だけど──


「えっ、ぁ……でも……」
「皐月。大丈夫だ」
「お……鬼が……」
「今は朝だ。鬼も日の光を恐れて活動を控えている頃だ。それに──」

手をとられた。あの日のように、優しく手を握られた。

「今度は俺が必ずお前を守る。俺がお前の“鬼除け”になる」

温かい。僕の手とは全然違う。皮膚も厚くて大きくて、幼かったあの頃は比べものにならないくらいに成長した手。

「俺にお詫びをさせてくれ、皐月」

真剣な表情で頼み込まれ、詰めら寄られた。
外に出ることはすごく怖いことだ。祖父もいない。外に出る許しだって得ていない。でも杏寿郎の言葉には嘘偽りがなくて、それだけで僕は安心していた。今の杏寿郎になら、身を任せても大丈夫だと確信していた。

「……わかった」

小さな声で返した僕の言葉に、杏寿郎は昔と変わらない晴れやかな笑顔を浮かべた。




  



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