藤色の焔 | ナノ


暗い部屋の中に、明るい光が平たい板のような形に射し込んできている。雨戸の隙間から射す朝の光だ。肺の中に取り込まれる澄んだ空気が心地よく、今朝は気持ちよく目覚めることができた。

寝かせていた体を起こし、軽く腕を伸ばして曲がっていた背筋を正す。名残惜しくも、まだ温もりの残る布団の中から潔く出て行きすぐに身支度を整える。朝からやることは沢山あるのだ。

この屋敷の家事一切は僕がやっているので、料理や掃除や洗濯等は手際良く進めていかないと一日があっという間に終わってしまう。無駄に広い屋敷が恨めしい。これで鬼殺隊の隊士が来ようものなら更におもてなしの準備が追加される。

「覡!いるか!」

ああまったくもう畜生。玄関の方から聞こえるあの声は間違いなく杏寿郎のものだろう。今日は朝餉の準備を進めている最中に来やがりましたよ。何で毎回こう忙しい時に来るのやら。嫌がらせにしか思えない。

「覡!」

呼ばれても無視していたらその声の主はあっという間に台所へやって来た。裏口からひょっこりと顔を覗かせて笑顔を浮かべている。相変わらず太陽のように眩しい笑顔だ。

「……朝っぱらからうるさい」

杏寿郎の腹立たしいくらい整った顔立ちを目を細ませてじっとりと睨みつけると、僕は持っていた薪を放り捨てるように釜戸の中へくべた。

「今朝は懐かしい夢を見たから覡に伝えようと思って来た!」
「うるさいってもう!お前の夢の話なんかどうでもいいよ!」
「俺と覡がまだ出会って間もない頃の夢なんだ!」
「聞けって!なに強引に語り出そうとしてんだよ!」

杏寿郎は裏口から中へと入ろうとしないので目一杯の大声で語りかけてくる。それがうるさくて仕方なくて、ついこちらまで大声で返してしまう。下手をすればご近所迷惑だ。いや、近所には誰も住んでないんだけれども。

「覡が俺のことを嫁にもらいたいと言い出した頃の話なんだが……」
「うわあああああぁーッ!!」

突然とんでもない話を語り出そうとした杏寿郎の言葉を、僕は悲鳴に近い叫び声で遮った。その話は僕の人生で最大の汚点とも言える恥話じゃないか。

「おおおお前!やめろその話はッ!」

僕は握っていた包丁を慌てて杏寿郎に向けた。刃物を向けられても尚、杏寿郎はけろっとした顔で首を傾げている。

「何故だ? 懐かしいと思わないか?」
「思うわけないだろ!」
「そうか!俺は懐かしかったぞ!覡がまだ俺のことを“杏ちゃん”と呼ん……」
「やめろってこの馬鹿ーッ!」

話を続けようとする杏寿郎を止めるべく、僕は足元にあった薪を拾って勢いよくぶん投げた。緩やかなカーブを描いて飛んだ薪は杏寿郎の方へと向かったが、杏寿郎は飛んできたその薪をいとも簡単に避けてしまった。行き場を失った薪はそのまま庭の方へと転がっていった。

「うむ!なかなかいい投擲だ!だが足に力が入ってないように思える!今度はもっと地面を踏み締めて……」
「そういう話じゃないだろ!馬鹿!」
「ん? ああ、そうだったな!」
「帰れよもう!朝から大声出させるな!」
「だが今日はまだ覡に詫びを……」
「はいはい、毎日毎日作業みたいにお詫びに来て大変ですね!」

相手にするのも嫌になって杏寿郎に背を向けたら、突然後ろから手首を掴まれた。一瞬何が起きたのかわからなかった。だって杏寿郎は裏口の方に立っていて、僕は奥まった方に立っていたから──背を向けた瞬間に杏寿郎が僕の真後ろにまで近寄っていたことに驚いていて、思考が追いつかなかった。

「皐月、俺はお前に詫びることを作業だなんて思っていない」
「……っ」
「皐月ともう一度あの頃のように戻りたいだけだ。その為なら俺は這いつくばってでもお前の元へ詫びに向かう」

──だから、そういうことを簡単に言うなよ。

涙が溢れそうになる。
今すぐにでも振り返って、杏寿郎に「許すよ」と伝えてしまいたい。
でもダメだ。そうしたらもう杏寿郎は来なくなってしまう。心置きなく鬼狩りに励んで、その内僕のことなんか忘れてしまう。僕はこの屋敷から簡単に出ることは出来ないのに。僕から杏寿郎に会いに行くことなんか出来ないのに。

「悪かった、皐月」

またそうして名前を呼ぶ。杏寿郎に名前を呼ばれると、何故だか幸せな気持ちになってしまうから嫌だ。

幼かったあの頃を思い出す。
髪も長くて綺麗な杏寿郎は、ちょっと気の強い男勝りな女の子のようだった。だから僕は杏寿郎のことを“杏ちゃん”と呼んでは芽生えた初恋に毎日胸を焦がした。僕が呼ぶと杏寿郎も嬉しそうに僕を名前で呼ぶから、きっと両思いなんだと思っていた。

『ねぇ杏ちゃん……』
『ん?』
『僕が大きくなったらね……あの……杏ちゃんを……お嫁さんにもらってもいい?』
『ん!?』

顔を真っ赤にさせながらも必死に婚約を申し込んだのに、杏寿郎は貼り付けたような笑顔で僕の顔を覗き込んできた。

『俺は皐月の嫁にはならないぞ!』
『えっ……!?』

そう即答されて絶望したのを覚えている。忍ばせていた一輪の花を後手に隠し、僕は赤い顔を俯かせた。

『……や、やっぱり……僕じゃダメ……?』
『いや──』
『嫌なんだ……』
『いや違う!そういうことではない、皐月!俺は男だ!』
『…………え?』

間を置いて聞き返した。当時の自分の頭の中は真っ白だったと思う。

『ウソだ……杏ちゃんが……お、男だなんて……』
『よもやよもや!皐月に女と間違われるとは!男として不甲斐なし!これはもっと鍛えねばならないな!』
『僕の初恋……』
『だが皐月!嫁というならば皐月がなるものじゃないのか?』
『えぇ……?』

僕は自分の耳を疑った。目を点にさせてる僕に杏寿郎は清々しい笑顔で続けた。

『皐月は女だろう? 皐月が良ければ俺は将来皐月を嫁にもらいたいと思ってるぞ!』
『何言ってるの!? 僕男だよ!?』
『なんと!そうだったのか!色白で細くて小さいから、まったくそんな風には見えなかった!』
『ねぇ杏ちゃんそれちょっと僕のこと馬鹿にしてない?』
『では今のうちに約束を交わさずとも皐月が嫁にもらわれる心配はなさそうだな!』
『杏ちゃん?』



まさかお互いに相手のことを異性だと勘違いしていたなんて──今思い出しただけでも口から火が出そうなくらい恥ずかしい。

ふと、ずっと掴まれていたままだった手に意識が向いた。恥ずかしい過去を思い出したのもあって、僕は急にこの状況が居た堪れなくなった。

「……いい加減、手を離してくれないかな」

そう伝えると杏寿郎は意外にもあっさりと手を離してくれた。気になって半ば後ろを振り向いてみると、杏寿郎は少しだけ寂しそうな顔をして僕を見つめていた。

どうしてお前がそんな顔するんだよ。

「俺に触れられるのは嫌か?」

別にそんなこと一言も言っていない。
否定しようにも意地が邪魔をして返事が返せなくて、僕は何も言えないまま黙って顔を逸らした。杏寿郎の表情はもう見えない。

「……皐月」
「ッ……だから、名前を呼ぶなって──」
「噴きこぼれてるぞ」
「えっ? ……アッ!」

杏寿郎の言葉に思わず顔を上げると、目の前にあった釜戸の鍋から濁った泡が噴きこぼれていた。

「あ゙ぁーッ!!お味噌汁がッ!!噴いてる!!」
「あれは味噌汁か!少々香ばしい匂いがするから何かと思えば……」
「香ばしい……? ……あっ、魚!焼き魚!」

そういえば庭先で魚を焼いていたのを思い出して、僕は道筋に立つ杏寿郎を押しのけて慌てて裏口から飛び出した。
庭に出ると、空に黒い煙を昇らせている焼き魚が見えた。マズい、あれはどう見ても焦げ始めている。

「あーもう最悪だよもう!塩漬けして味染み込ませた魚だったのに!」

涙目で網の上にある魚をひっくり返す。すると見事に真っ黒焦げになった側面が現れた。黒い煙が目にしみる。零れ落ちたこの涙はきっと煙のせいだけではないだろう。

「……はっ!お味噌汁!!」

ほったらかしにしていたお味噌汁のことを思い出して、息つく暇もなく急いで釜戸の方へと戻った。

「お味噌汁ーッ!!」

叫びながら滑り込むようにして中へと入った。早く釜戸から外さねばと思いつつ鍋の方へ顔を向けると、そこにはお味噌汁の鍋を持った杏寿郎が立っていた。釜戸に目を配らせても、派手に噴きこぼれた形跡は見当たらなかった。

「皐月、魚の方は──」
「あ〜良かったぁ〜!お味噌汁は無事だ〜!ありがとう杏寿郎〜!」
「……!」

杏寿郎の元まで駆け寄り、僕は鍋を受け取ろうとして両手を伸ばした。そして掴みに手をかざしたところで、自分の指先が杏寿郎の手に触れそうになっていることに気付いた。

「あっ……いや違う!」

間一髪のところで手を引かせ、胸に抱くようにして隠した。

「そ、そもそもッ……杏寿郎が朝餉の準備の邪魔しなかったらこんな事にはならなかったんだからな!?」
「…………」
「どうしてくれるんだよ、魚!半分焦げちゃったじゃんか!」

僕の言葉に杏寿郎は少し驚いたような表情を見せた。でもそのすぐ後にいつもの穏やかな笑顔を溢れさせて小首を傾げた。

「そうか。それはすまなかった。では今度来る時は詫びの品としてさつま芋を持って来るとしよう」
「何でだよ!」
「焼き芋やお味噌汁で使うといい」
「それ単にお前が食べたいだけだろ!」
「俺の好物を覚えておいてくれたのか!」
「いや違っ……それは前にお前がわっしょいわっしょい派手にはしゃいでたから──」
「ああ、千寿郎を交えて焼き芋を作った時の話だな!懐かしいな!」
「あーもう!お前と昔話に花咲かせてる暇ないんだよ!僕は忙しいの!早く帰れ!」

ニッコニコと笑う杏寿郎から鍋を奪い取ると、僕は彼の広い背中を肩で押しやった。今まさに追い出されているというのに杏寿郎は楽しそうに笑っている。何でそんなに上機嫌なんだか全然わからない。

「あっ!杏寿郎!」
「ん?」

そのまま自然な流れで帰ろうとする杏寿郎の背中に僕は慌てて声を投げかけた。

「お前!今度来るとき絶対さつま芋持って来いよ!約束したんだから絶対守れよ!」
「……!」

杏寿郎のせいでおかずが一品台無しになったんだ。だから台無しにされた分の代償をもらうのは当然だと言える。あれは冗談だった、なんて言い返してこようものなら一週間くらい僕は杏寿郎と口をきかないつもりでいる。

厳しい目でそう訴えかけると、離れた位置に立っていた杏寿郎はこちらに顔を振り向かせたまま目を細ませて笑った。

「ああ!次来る時は必ず持って来よう!約束だ!」

だから何でそんな嬉しそうに笑うんだ。普通なら仕方ないなって顔をしそうものなのに。杏寿郎の考えていることはよくわからない。

──でも、あの笑顔を見ると不思議と僕も嬉しくなる。そしてひとつ確かなのは、次に杏寿郎が来るのを僕は今楽しみにしているということだ。




  



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