藤色の焔 | ナノ


皐月と八雲が診療所の奥へと姿を消してから、杏寿郎は落ち着かない気分で皐月の帰りを待っていた。

治療が終わるのにどれだけの時間が掛かるのかわからない。信じて待つと決めたからには待つつもりだったが、あまりにも時間が掛かるようであれば杏寿郎は皐月に咎められる覚悟で乗り込むつもりですらあった。

たとえ、皐月の記憶が取り戻せなかったとしても──

──……ッやめろ!離せ!降ろせ!
「!!」

皐月の怒鳴り声が聞こえた。その瞬間に、勝手に体が動いていた。

杏寿郎は皐月の声が聞こえた奥の方へ駆け出し、閉じ切られた戸を蹴り破る勢いで開いた。

「皐月!!」

戸を開けた途端、ふわりと甘い香りが杏寿郎の鼻腔を掠めたが、それが何の匂いなのかと考える余裕はなかった。部屋の奥にある診察台らしき寝台の上に、皐月が横たわっているのが見えたからだ。

「皐月!」
「ぅ……」
「大丈夫か!」

杏寿郎は横たわる皐月の元まで駆け付け、細い肩にそっと手を添えた。何故か着崩れてしまっていた皐月の着物がずるりと手に落ちて色白の肌が覗く。

ここに来た時はきちんと着物を着ていたはずなのに、何故こんなにも着崩れてしまっているのか──疑問を感じつつも杏寿郎は皐月の着崩れた着物を手早く直してやった。

「何があった!八雲はどうしたんだ!」
「きょうじゅ、ろう……さ……」
「!!」

微かに震えながら、皐月は俯けさせていた顔を上げた。いつもの白い顔は熱に浮かされたように赤く染まり、呼吸も荒く目は涙に潤んでいる。苦しそうなその姿を一目見て杏寿郎の顔から血の気が引いた。

「何をされたんだ!」
「はぁ……あいつが、僕に、変な薬を……」
「奴はどこへ行った!何故こんな真似を──」
「杏寿郎さん……!」
「っ……」

甘く、艶のある声が鼓膜を打った。全身を強張らせた杏寿郎を、皐月は熱っぽい瞳で見上げた。

「苦しい……体が、変なんだ……」
「皐月……」
「熱くて……くらくらする……」

荒く息を吐きながら皐月は杏寿郎の着物を掴んだ。そのまま縋るようにもたれ掛かると、杏寿郎は少し焦ったようにその肩を掴んで支えた。

「っ、苦しいのだな!わかった!俺に掴まれ!今すぐ蝶屋敷に──」
「杏寿郎さん……」

杏寿郎の言葉を塞ぐように、細い指先が唇に当てがわれる。思わず口を噤ませた彼に、皐月は艶めいた吐息を漏らすと突然身に纏っていた着物を脱ぎ始めた。

「皐月……!?」

目の前で起きていることに杏寿郎は目を丸くさせ困惑していたが、上半身を裸にさせた皐月は止まる気配を見せない。そのまま杏寿郎の胸に己の身を寄り添わせ、まるで鼓動を聞くようにして頬を擦り付けた。

「お願い……助けて……」

助けを求めるその声は苦しそうでありながらも、どこか甘く、慈悲を乞うようにして囁かれた。
しかし杏寿郎は動揺に揺らしていた瞳を一度閉じると、眉根を寄せながらも落ち着いた様子でその瞼をゆっくりと開いた。

「……君は誰だ」
「!」

一瞬の間の後に聞こえてきた杏寿郎の冷静な声に、今まで胸に頭を預けていた皐月の顔が弾かれたように上がった。信じられないものを見る目で見つめてくる皐月の顔を見ても、杏寿郎は動揺を匂わせずに、むしろ微かな怒りを滲ませた作り笑顔をして見せている。

「何、言ってるんですか……」
「皐月はどこにいる」
「どうしてそんな事を──ッ」

視線を泳がせながらも身を引こうとした皐月の細い腕を杏寿郎は咄嗟に掴んだ。驚いて抵抗をしようとするその華奢な体を、彼はあっという間に取り押さえ診察台の上に固定させた。

うつ伏せに倒され上に乗り上げられた皐月は痛みに呻き声を上げながら、自分の上に乗る男を涙目で睨め上げた。

「杏寿郎さん……ッ何で、こんな……」
「まだシラを切るつもりか!君は人間のようだが、嘘を吐き続けるつもりなら容赦はしないぞ!」
「ぐ、ぅ……!痛い!痛いッ杏寿郎さん!やめて!」

どれだけ悲鳴を上げようが杏寿郎は力を抜かなかった。骨の軋む音が聞こえるまでキツく押さえ付け、決して離すまいという強い意思さえ感じさせた。

「なんで……ッ何で僕が皐月じゃないなんて言い切れるんだよ!」
「皐月の背中には鬼に付けられた傷跡がある!」
「!!」
「君にはそれがない!声も姿もよく似せたようだが君は偽者だ!」

組み伏せた体から舌打ちが聞こえた。やがてうつ伏せで見えなかった顔が僅かにこちらを向いて、挑発的な目が杏寿郎を見上げた。

「凄いね。ほくろの位置が違うとか言われたらちょっと引いたけど……傷跡なら確かに一目で偽者だってわかるね」
「無駄なお喋りはいい!皐月はどこにいるのか教えてもらおう!」
「知らないよ。先生がどこかに連れて行っちゃったんだから」
「先生とは八雲のことだな!何故皐月を攫った!」
「さぁ……好みの子だったからじゃない?」
「ッ!!」

怒りに一瞬我を忘れて拳を振るいそうになったが、皐月に似た顔を持つ彼が少しでも怯えの色を見せると杏寿郎の拳から自然と力が抜けた。杏寿郎は歯を食いしばり、青年を押さえ付ける手に一層力を込める。

「はぐらかさないでもらいたいな!なるべくなら人間である君を傷つけたくはない!」
「人間? ははっ、理由は本当にそれだけ? 先生が連れて行ったあの子と僕が似てるから殴りたくないだけなんでしょ?」
「……ッ」
「一発で見破れなかったクセに。いいカッコしてバッカみたい!あはははっ!」

自分の立場をわかっていないのか、それとも何もかも諦めてしまっているのか、己を拘束する男を可笑しそうに嘲笑う青年に杏寿郎は不快感を表すように眉根を寄せ、その細い手首を捻り上げた。

「ッぐ……!!」
「痛いか」
「このッ……」
「もう一度言うが、俺は悪戯に人間を痛めつけたくはない。だが痛めつける方法なら数え切れないほど知っていることは覚えておくといい」
「何、する気だよ……」
「これから君に拷問する」
「!!」

青年は目を見開いた。痛めつけたくはないと言っておきながら、それとは正反対の行為をすると言っているのだから。

「これから君の指を一本ずつへし折る。耐えられなくなったらすぐに言うように。ただしその時は皐月と八雲の居場所を話してもらうぞ」
「はぁ? 何それ……まさか僕を脅してるの?」

小馬鹿にするように鼻で笑った青年だったが、見上げた杏寿郎の顔が恐ろしいほどに真顔で何の感情も感じさせなかったので思わず口を閉ざした。怒りこそ見えないが、彼は本気だと青年は己の本能だけで感じ取った。

「……始めるぞ」
「……ッ」

一瞬の間を後に杏寿郎が指を掴んだのがわかって、そこで青年はようやく「待って!!」と声を荒げた。

「やめて!痛いことしないで……!お願い……!」
「皐月はどこだ」
「わからない……ッ」
「嘘は──」
「嘘じゃない!本当にわからないんだよ!先生は、気に入った子が見つかるとみんなどこかへ連れて行くから……ッ!」
「気に入った子……?」

杏寿郎の問い掛けに青年は涙を流しながらこくこくと頷いた。

「体付きが細くて、色白で……ちょうど、僕みたいな容姿をした男はみんな先生に買い取られて、顔は……みんな同じように作り替えられた……」
「……!その顔は君の本当の顔ではないのか……!?」
「違う……僕の顔は、コレじゃない。手術されて、全然違うものにされた……」

何故皐月と似た顔にする必要があったんだ──杏寿郎の中で疑問が浮かぶが、宇髄が以前言っていた容姿が皐月に似た青年や少年達が遊郭に増えてきたということを思い出した。

皐月に似た青年達を集めているわけではない。背丈や体付きが皐月に似ている人間を、わざわざ皐月と同じ顔に作り替えて遊郭に放っている。

だが何の為にそんなことを──もしかすると八雲の本当の狙いは、皐月自身にあるのかもしれない。

「何故八雲が皐月を狙う!」
「わからないよ!先生はいつも僕たちを同じ顔に作り替えたら……目隠しをして、どこかへ連れて行って……」

青年はそこで怯えた顔つきで息を呑んだ。

「そこで、怖い人に会わせるんだ」

何かを思い出したのか、掠れて出た言葉は恐怖に震えていた。

八雲が皐月に似せた青年を皆その“怖い人”とやらに会わせているのだとしたら、今皐月はその者の元へ連れて行かれている可能性が高い。

「誰だ」
「わからない……名前は、聞かせてもらえなくて……わからない。ただ、目隠しを外されて、見えたのは……覚えているのは、あの……あの眼……」
「眼?」
「そう、眼だ……紅梅色の……猫みたいに、縦長な瞳孔で──」

──鬼か……!

杏寿郎は青年の言葉に強い確信を得た。やはりこの遊郭には鬼の手が及んでいる。そうなると今連れ攫われてしまっている皐月の身が危険に晒されていることになる。

「先生は、僕のことを“最高傑作”だと言って……あの怖い人に差し出したんだ。まるで、献上品でも贈るみたいに……。でも、怖い人は…『全然違う』って……突然、ぼ、僕の顔を、拳で、打って……」

あまりの恐怖に耐えきれなくなったのが、青年は嗚咽を上げながら泣き出し始めた。

「ひっく……僕は、ただ……先生の言われた通りに……演じただけなのに……!」
「……!」
「琴乃葉睦月を演じただけなのに……!!」

琴乃葉睦月──皐月の先祖にあたるその人物の名前を青年が口に出した瞬間、杏寿郎達の背後から暴風が入り込んできた。

「話は聞かせてもらったぞ!」

何事かと杏寿郎が振り返るよりも早く、その顔の横には既に自分と同じ顔が並んでいた。

「式神……!? 結界で入れないのではなかったのか!?」
「結界なら俺が少し移動している間に解けていたぞ!それより杏寿郎!今はその人間に構っている暇はないぞ!放っておけ!」
「しかし──」
「皐月を探し出すのが先だ!彼の言うことが本当なら鬼舞辻無惨が近くにいる可能性が高い!」
「何!?」

全ての鬼の始祖である鬼舞辻無惨が、まさかこんな所にいるとは思わなかった杏寿郎は式神の言葉に一瞬自分の耳を疑った。

「皐月が危険だ!気配を感じなくなったから戻って来たが、八雲の結界で皐月の元まで行けなくなっている!今の俺にはどうすることもできん!」
「どうすればいいんだ!」
「決まっているだろう!」

式神は杏寿郎に顔を詰め寄らせ、力強い眼差しを向けた。

「死ぬ気で探せ!煉獄杏寿郎!!」



◆◆◆



誰かが髪を撫でている。

大きな手が髪を弄ぶようにすき、指先が頬を滑る。うっすらと意識が浮上し始め、でもまだ体が動かなくて、開けようとした瞼は閉じたまま感覚だけが研ぎ澄まされる。

「睦月……」

誰だ。誰の声なんだ。
聞いたこともない声のはずなのに、ひどく懐かしく感じる。

頬を撫でていた手がゆっくりと顎に降りて、喉仏をなぞるように指先が伝う。少しひんやりとしたその冷たい手が、首筋を伝って胸の上にまで這ってきたのがわかった。

直に肌に触れられて気づく。今自分は、着物の合わせをはだけさせられているのだと。少しずつ下腹部の方へ滑り降りていく手の感触が腰元で止まったのに、帯までは外されていないのだと悟った。

「睦月……」

またあの知らない声が名前を呼んでいる。僕の名前ではないのに、愛おしそうに、大切そうに、その名を上から囁いている。

その時、下腹部の上で止まっていた手が突然ぐっとお腹を押した。その瞬間、今まで開かなかった瞼が突然嘘のようにパチリと開いた。

「っあ……」

瞼を開いて最初に視界に飛び込んできたのは、見たこともない顔。その背後には、豪華絢爛に彩られた広い天井。気を失う前に見た景色とはまるで違っていた。

誰だ、こいつ──

唯一動かせる視線を向けると、僕を見下ろしていた男はうっそりと微笑んだ。細められたその瞳に、僕は息を詰めた。

こいつ、鬼だ──

今まで見てきた異形の鬼とは明らかに違う。姿形は人間そっくりだったが、その異様な雰囲気だけで相手が鬼だと気付いた。

「お前なら私を裏切らない。……そうだろう?」
「……っ」

何を言っているのかさっぱり意味がわからない。わかりたくもない。わかるのは、この鬼がヤバいやつだということ。そして、簡単には逃げられないということだ。

「血を引いているだけあってよく似ている。お前は睦月の完璧な生き写しだ」
「んっ……」

鬼の手が顎を掴んだ。まるで品定めでもするように、僕の顔の向きを何度も変えてあらゆる角度で眺めている。

「ふむ……先代よりも知能は低そうだが……まあ、そこは躾けていけば問題ないだろう」
「な、に……」
「八雲」
「はい、こちらに」
「……!」

見えない位置から別の声が聞こえた。あの声は間違いなく八雲のものだ。近くにいるのか。

顔を向けようとしたが首が動かない。首どころか指一本ですら動かせない。拘束されているわけでもないのに、僕の身に一体何が起きているんだ。

「褒美として私の血をお前に分け与えてやろう」
「それは……なんと有り難きこと……」
「だがそれはこの男を完璧に睦月へと作り替えてからだ。その血で記憶を操作できるお前なら造作もないことだろう」
「はい。勿論で御座います」
「私の記憶から無事にこの男を睦月へと作り替えることができた暁には……そうだな、お前を上弦の鬼として加えてやってもいい」

何の話をしているんだ。視線だけで鬼の顔を見上げるが状況が全くわからない。情報が少な過ぎる。

動けない体に気持ちだけが焦って戸惑っていると、よそを向いていた鬼が突然こちらへ顔を向けた。目が合った途端優しく微笑まれて、相手が鬼だということもあって奇妙な気分になる。

「お前が私の手にようやく堕ちる日がくるとは……」
「……っ」
「待ち続けた甲斐があった」
「!!」

頭の下から枕を引き抜かれて、代わりに腕を差し込まれた。固定されていた頭が不安定に浮かび、柔らかな感触が硬い感触に変わる。
奴は腰に手を回して、身体ごと引き寄せてきた。

「あぁ……昔のままだ」

僕の身体を腕に抱いて、首筋に顔を埋めてくる。肌の温度を確かめるみたいに唇が触れた。ゾッと背筋に悪寒が走って、咄嗟に抵抗しようとしたが腕が動かない。

「ぃ、やだ……!」
「拒むのか? 私を、またあの時のように」
「ッぅあ゙!」

首筋に突然鋭い痛みが襲った。じわりと熱が溢れて、そこから濡れた感触が肌を伝って降りてくる。鬼に噛み付かれたのだとすぐに気付いたが、体が動かない以上相手を突っ撥ねることも殴ることもできない。今は痛みに苦しみ、堪えるしかできなかった。

「血の味も睦月とよく似ている。奴の子孫達の中で稀血として生まれてきたのはお前と……先代くらいか」
「……!!」
「名は確か……柚月とか言ったな。奴も私を拒み、あろうことか睦月と同じように女を作り、子を成して家庭を持った」

私を置いて、私から離れていった。
忌々しそうに鬼が話すのを、僕は呆然と聞いていた。

柚月は、その名は、僕の父様のものだ。
じゃあ、父様を殺したのは──


この鬼なのか──?


「──うぁあ゙ーーッ!!」

頭に血が昇るのがハッキリとわかる。あまりの怒りに目の前が眩んでしまっていた。声を張り上げてなんとか鬼に噛みつこうとするが首が動かない。なのに涙だけは無駄に溢れ出て、そんな無力な自分にさらに怒りを感じた。

「知能は先代と比べると劣っているようだが……攻撃性は申し分無いな。後はその反抗的な態度をどう躾けてやるかだが──」
「うるさいっ!人殺しめ!よくも父様を……ッ」
「何か勘違いしているようだな。お前の父親を殺したのは私ではないぞ」

僕の血で濡れた自分の唇を親指で拭い取って、鬼はつい先程噛み付いた箇所に顔を寄せ付けてきた。また噛み付かれるのかと一瞬怯えを見せてしまったが、鬼は僕の首筋には口をつけず耳元へ唇を寄せてきた。


「お前の父親を喰い殺したのは、他でもないお前の母親だ」


言われた台詞に、頭の中が真っ白になった。

「覚えていないと言うのなら、思い出させてやろう」

薄笑みを含ませたその言葉の後に、嗅いだ覚えのある甘い香りがした。

ダメだ──思い出しちゃ、ダメだ。

キツく瞼を閉ざして抗おうとするが──

『皐月』


雨音に混じって聞こえた優しくて懐かしいその声に、僕は記憶の蓋をついに開けてしまった。




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