藤色の焔 | ナノ


「こっちだよ」

杏寿郎さんが部屋から出て行くのを見ると八雲はすぐに場所を移そうとした。

「ここで診るんじゃないのか……?」
「ここじゃ落ち着かないだろう」

たしかにここは薄気味悪くて落ち着かないけど、わざわざ部屋を移す必要があるのだろうか。あんまり奥まで行きたくないので、このまま八雲の後を追うのも気が進まない。

「記憶を失くしたとか言ったね」

渋々後をついて行くと、途中で足を止めた八雲が突然話しかけて来た。

「まず最初に言うと、君の記憶は戻すことができる」
「えっ」
「ただし条件がある」

付け加えられた言葉に「やっぱりか」と口に出さずとも密かに眉根を潜ませる。
こんなに怪しくて不躾な男だ。どうせタダでは治してもらえないだろうとは思っていた。

「……条件って?」

尋ねると八雲はこちらに振り返った。感情のない目が僕をじっと見つめた。

「君に、会ってもらいたい人がいる。……会うのは記憶を取り戻した後でも構わない」
「会ってもらいたい人って……」
「一晩その人と過ごすことを約束するのなら、君の記憶を戻してあげるよ」

相手は会ったばかりで見た目も発言も全てにおいて怪し過ぎる存在だ。信用できない。だけど、手っ取り早く記憶を取り戻すのならこの男に頼るしか方法はなさそうだ。

「……どうする?」

僕が記憶を取り戻して、杏寿郎さんが喜んでくれるのなら──

「わかった」

たった一晩の我慢なんて、耐え切ることができる。



◆◆◆



その後八雲に連れられてさっきとはまた別の部屋へと移動した。

最初に入った部屋よりもそこは随分綺麗に物が整頓されていて、中央にはしのぶさんの屋敷で見た診察台のようなものがあった。

八雲は「そこに寝て」と一言だけ告げると近くにあった椅子を引っ張り寄せて腰掛けた。
そこ、というのはおそらくあの診察台のことなんだろう。僕は恐る恐るその診察台へと上がって体を横たえた。天井の眩しい灯りについ目が細まる。

「よし、じゃあ始めよう」

眩しい視界に八雲の顔が映り込んで、彼は無表情で僕を見下ろしながらそう述べた。

「君のその呪いを解くには情報が必要だ」
「情報……?」
「何の記憶を失ったのか……何故その記憶を失ったのか、君に尋ねなくちゃいけない」
「そんなこと……覚えていたら記憶喪失とは言わないんじゃないのか」
「だからこれから治療を行うんだ」

視界から八雲が消えた。顔を横に向けると、彼は再び椅子に腰掛けていた。

「目を閉じて」

何故、と思わず問いたくなったけど、そこは素直に言うことを聞いておいた。静かに瞼を閉じて、顔を真正面に向けた。

「じゃあまずは……何の記憶を失ったのか聞くとしようか。君は何を忘れてしまったんだい?」

僕が忘れてしまったもの──しのぶさんが言ってたのは、鬼殺隊に関わるもの全てだったはずだ。

「……鬼殺隊に関わるものを全部忘れている」
「そう……」

八雲の相槌の後、不意に甘い香りがした。その甘い香りはパッと例えられるものが思い浮かばなかったけど、人工的なものだとはすぐにわかった。

「……何の匂い?」
「お香だよ。気分が良くなる薬を使ってる」

彼が言った通り、その香りを嗅いでいると段々と透明な、自分が空っぽになったような澄んだ気分になった。診察台に寝ているはずなのに、ふわふわと宙に浮いているような感覚すらした。

「それで……どうして鬼殺隊に関わることを忘れてしまったんだい?」

どうして? ──どうしてだろう。
どうして僕は鬼殺隊について忘れてしまったんだろうか。

「鬼が怖くて、鬼殺隊ごと忘れたかったのか?」

違う。鬼はたしかに怖いけど、忘れてしまいたくなるほどものじゃない。それに、鬼殺隊を忘れたかった理由は、そんな単純なものじゃない。

「何故君が記憶を失ったのかも知りたいな」
「……嫌なこと、だから」
「嫌なこと?」
「そう……嫌なことは、全部忘れるから……」

怖くて嫌なものは全部忘れる──それが、僕の身を守る術だと言われたから。

「じゃあ君は鬼殺隊が嫌いだったんだね」

鬼殺隊が嫌い? そうなのか?
でもどうして? 僕は、鬼殺隊の何が嫌いなんだ?

「鬼殺隊が嫌で嫌で堪らなくなった君は鬼殺隊を忘れた。これが君が鬼殺隊を忘れた原因だ」
「それは──」
「それじゃあ、何故鬼殺隊が嫌になったのか。今度はそれを解き明かそうか」

八雲の少し楽しげな声が横から聞こえる。僕の方は思い出すことに必死で息が詰まりそうなのに。

「鬼殺隊の何が嫌なのか……心当たりは?」
「わからない……」
「わからないはずはない。君は理由を知っているはずだ。忘れてしまって思い出せないだけなんだよ」
「だけど、本当に……わからないんだ」
「仕方ないな……薬の量を増やしてみよう」

またあの甘い香りがした。焚きなおされたようなお香の強い匂いに頭がくらくらしてきた。何かを考えることが億劫に感じてしまう。なんだか酷く眠い。

「さあ答えるんだ。君が何故、鬼殺隊が嫌になってしまったのか」

鬼殺隊が嫌になった理由?

どうしてだ? どうしてだっけ?

──……ああ、そうだ。

「……杏寿郎が」
「ん?」
「杏寿郎が、いるから」

杏寿郎が柱なんかになるから──鬼殺隊なんかに捉われているから嫌だったんだ。鬼や鬼殺隊絡みでいつも置いていかれる僕は、それが嫌で嫌で堪らなかった。

だから鬼と鬼殺隊も、全部嫌になったんだ。

「……そうか。君は、鬼殺隊の杏寿郎という人間が嫌になったのか」
「違う!」

反射的に出た自分の言葉の勢いで思わず瞼を開けてしまった。

「!!」

そこで目に映った光景に、体が硬直してしまった。

「ああ……目を閉じてろって言ったのに」

僕は思わず叫びかけた。けれどもその声はまだ声にならない次の瞬間に咽喉の奥へ引返してしまった。

八雲の声で喋っている目の前の男は、人間とは明らかに容姿の違う異形の者へと変わっていた。

──あれは、鬼だ。

「あ……」

一目見た瞬間に、頭の中であらゆる情景が勢いよく流れてきた。

幼い頃に藤襲山で見た杏寿郎の姿。
満身創痍で屋敷に来た杏寿郎の姿。
千寿郎くんを連れて遊びに来た杏寿郎の姿。

二人で月蝕山に登って、柿の種を植えて、鬼に襲われた後──僕を守ると誓った杏寿郎の姿。

喧嘩して、仲直りして、最後は想いを寄せ合った、僕の大事な幼馴染み。



僕の幼馴染みの、煉獄杏寿郎──



「杏寿郎……!」


思わず口に出していた杏寿郎の名前にハッとなった。

──逃げなくちゃ。早く、杏寿郎の元まで逃げなくちゃいけない。

気怠い体を無理に起こして診察台から降りようとした。

「どこへ行く気だい?」
「あっ……!」

背後から聞こえた八雲の声の後に視界がぐるりと回った。強い目眩に襲われ思わず頭を抱えると、またあの強いお香の匂いがした。

「ぐっ……」
「記憶を取り戻したようだな」

診察台の上で動けずに倒れ伏せていると、いつの間にか近くにまで寄って来ていた八雲が僕を見下ろしていた。何度見ても、その姿は人間のそれとは違う──明らかに鬼の姿だった。

「それじゃあ約束は守ってもらおうか、皐月」
「な、んの……」
「もう忘れてしまったのか? 本当に都合のいい頭だな……。記憶を取り戻した暁にはある人に会ってもらうとついさっき約束したばかりだろう」

ケタケタと馬鹿にしたように笑う鬼の顔に怒りが湧いた。だけど僕はなんとか冷静になるよう努めて、荒げ出しそうになった声を抑えてゆっくりと口を開いた。

「……僕を、食べるつもりじゃないのか」
「ん? 食べて欲しいのか?」
「そんなこと言ってないだろ!」

冷静になるようにと努めていても結局ダメだった。抑えきれない怒声をつい飛ばしてしまう。鬼は怒る僕を見て楽しそうに笑っている。

「クク……安心しろ。お前を食べるつもりはない。むしろお前を勝手に食べることはあの方に許されていないからな……」
「……?」
「さぁ、お喋りはもういいだろう。そろそろ約束の時間だ」

何の話だと考えている間に腕を取られた。力強く握られて痛みに顔を顰めるが、なんとか抵抗しようと僕は腕を振った。

「やめろ!」
「抵抗しても無駄だぞ。俺とお前とでは力の差は歴然だ」
「うるさいっ!離せ!」
「よしよし、これでお前のことが大体知ることができたぞ……」

また訳の分からないことを言って笑った鬼が、僕の腕を掴んでいない方の手で何かを招くような仕草を見せた。すると、薄暗闇の向こうから赤色の細い煙が漂って来た。

一体アレは何だと凝視していれば、その赤い煙は僕の近くにまで寄ると体の周りを素早く一周してすぐに離れていった。煙はそのまま、また薄暗闇の向こうにまで消えてしまい、後には何も残らなかった。

「何だよ……あれ……」
「お前が気にする必要はない。さぁ、着替えるぞ」
「なっ……」

呆然としている僕の体を鬼は片手で軽々と持ち上げた。横に抱かれて、そのままどこかへと運ばれている。

「ッやめろ!離せ!降ろせ!」
「喧しいぞ黙ってろ」

逃げようともがいてみるがびくともしない。
せめてこの声が杏寿郎に届けばと大声で叫んでみるが、僕の声は届いていないのか──どれだけ叫んでも杏寿郎が来る気配はない。

「くそッ!やめろ!離せってば!このっ……!」

絶望している暇はない。助けを求めても無駄なんだと早々に判断して、僕は怯む気配すら見せない鬼の肩に咬みついた。

流石の鬼でも痛覚はあるはずだ。何かしらの反応は見せるだろうと、淡く期待を抱きながら鬼の顔を見上げようとしたが──

「ぁ……」

肌に歯を突き立て皮膚を破った途端、強烈な甘い匂いが鼻腔を通り抜けて全身に痺れが走った。あまりにも強い匂いで一瞬怯んでしまったがこの匂いには覚えがあった。

この匂いは、あの時嗅がされたお香の匂い──

「俺の血の匂いを直接嗅ごうなんていい度胸してるなぁ」
「うぁ……」

全身を襲う妙な感覚に戸惑っていると、鬼は僕の血に濡れた唇を親指で撫でつけながら笑いかけてきた。

「全身が痺れるだろう? それは俺の血鬼術の特徴だ。俺の血の匂いを嗅いだり口にした者は皆身体が痺れてくる。神経をじわじわと侵して、自分の意思で抗えなくすることができるんだよ」
「ぐ……ぅ……」
「だから記憶を操作することも簡単だ。……いや、この言い方は少し語弊があるな。敢えて言うなら……」

聞いてもいないことをベラベラと喋り続ける鬼は僕の額を人差し指で突きながら薄笑みを浮かべた。


「脳の神経を操って洗脳することができるというわけだ」


いよいよ口が動かなくなったところで告げられた恐ろしい台詞に、僕は自分の身に迫る絶望で目の前が真っ暗になった。




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