藤色の焔 | ナノ


杏寿郎達が八雲の居場所について初めて手掛かりを得たのは『土筆屋』という店であった。

片目を失っていても尚男前な杏寿郎に一目惚れした女将が、問われるがまま八雲の情報についてつらつらと話したのだ。

「八雲先生は吉原に欠かせないお人よぉ。ウチの店の子も随分お世話になってきたからねぇ」
「その八雲という人物の居場所を教えてもらえないだろうか!」
「八雲先生なら切見世にある診療所にいると思うよ」
「切見世?」
「最下級の女郎達がいるところさ。臭くて狭くていつも不衛生な場所だから、持ち金の少ない客しか寄り付かないよ」

そんな場所に女性を住まわせるのか──杏寿郎は女将の言葉とこの遊郭の闇に隠し切れない不快感を覚えた。
しかし女将はそんな杏寿郎の様子に気づくことなく話を続ける。

「あの辺が一番病気持ちの遊女が集まってるからね。八雲先生はそこでいつも遊女達の面倒をみてやってるのさ」
「なるほど!それでその切見世とやらはどこにあるのだろうか!」
「切見世はね……」

女将の話を聞きながら、杏寿郎は八雲という人物について想像してみた。

女将の話を聞いた限りでは悪い奴には思えないが、式神は八雲が嫌いだと言っていたし琴乃葉家とも仲が悪いと言っていた。実際に会ってみないことには何もわからないが、ひょっとすると予想外に話のわかる人間なのかもしれない。

「途中で道に迷っても人に聞けば誰でも教えてくれるよ。大体の男はみんな安上がりで済む切見世へ行くからね」
「教えて頂き感謝する!迷った時はそうさせていただくとしよう!」

余計な一言を付け足さなくては気が済まないのか──杏寿郎は悪気なく話す女将に挨拶ばかりの笑顔を見せて、颯爽とその場を立ち去った。



◆◆◆



その後杏寿郎達が切見世に辿り着くまでそう時間は掛からなかった。
しかし辿り着いてから診療所に向かうまでの道筋が、彼らにとってかなり厄介であった。


「あら、いい男が二人もいるわ」
「そこのお兄さん達、遊んでいっておくれよ」
「ウチの方が安いよ」
「今日は私まだしてないから具合がいいわよ」
「あの子も男かしら」
「三人まとめてでも構わないわよ」

杏寿郎達が狭い細路地を通るたびに、着物をだらしなく着崩した遊女達が艶かしく手招いて誘ってくる。
杏寿郎と式神はその誘いに一切乗らず、目も合わせず、前を見据えたまま歩き続けているが、二人の後をついて歩いている皐月はいつまでも怯えた様子であった。

「あの人達、すごく痩せてる……ここには食べ物がないのかな」
「皐月、あまりジロジロと見るものではない」
「あ、うん……」

杏寿郎のすぐ後ろを歩く式神が諭すように叱ると、皐月も反省したように顔を俯かせた。

なるべく周りを見ないようにしても、辺りから聞こえてくる誘いの言葉は嫌でも耳に入ってくる。皐月は居心地の悪い思いをしながら、前を歩く二人の後を追いかけた。

「道が入り組んでいる上に道幅も狭くて仕方ないな。これだけ建物がひしめき合っていると八雲の診療所を探し出すのは困難だぞ」
「うーむ……」

どこへ行っても似たような建物しか見えず、このままでは辿り着けないと考えた杏寿郎が式神に話しかけた。式神はしばし考え込むと、すぐそばにあった建物の壁へ己の手を近づけた。

「!」

途端、バチンッと電気が流れるような音が響き式神の手が弾かれた。弾かれた手を押さえた式神は眉間に皺を寄せながら笑みを浮かべた。

「うむ!やはりそうか!」
「どうかしたのか?」
「どうやら術を使われているようだ!」
「術?」

訝しげな顔で杏寿郎と皐月は式神を見つめた。

「ああ、結界のようなものだな!おそらく診療所自体はすぐ近くにあるのだろう!だがこの結界は……ある一定内の領域に“人間以外”が入り込めないように張られている!人ではない俺がいるといつまで経っても診療所には辿り着けない!」
「待て!八雲も皐月と同じ陰陽師とかいう類の人間なのか!」
「一応な!だが案ずるな!この結界内には人間であれば誰でも入れるようだ!杏寿郎と皐月だけこの先へ向かうといい!」
「お前はどうするんだ!」
「俺はここで待つとしよう!」

そう言うなり式神は目の前の建物から離れると、別の建物の壁に背中を預けて寄りかかった。式神が距離をとったせいか、ついさっきまで同じようにしか見えなかった目の前の建物の並びが少しだけ変化したように見えた。

まるで新たな道を作るようにして広がった狭い細道の先に、明らかに他とは違う雰囲気の建物が見える。

「見えるか?」
「!」

離れた位置にいた式神が、杏寿郎達が見つめていた先を向いたまま尋ねてきた。

「俺には同じ建物がいくつも並んでいるようにしか見えない。もし他とは違う建物があるのなら、それは君達人間にしか入ることができないものだ。そこが八雲の診療所ということになる」

式神には見ることも近付くこともできない──つまりは、ここから先は杏寿郎と皐月にしか進むことができないということだ。

「たしかに、他とは違う建物が見えるが……」

杏寿郎はその怪しげな建物へ向かうことになんとなく嫌な予感を感じたが──この場にいる誰もが結界に対処できない今は頼れる式神を置いて行くしか進む方法がない。

気乗りしないが、杏寿郎は自分以上に不安を感じているだろう皐月の手をおもむろに取ってゆっくりと歩み出した。

手を握られた皐月は前を歩く杏寿郎と離れていく式神を交互に見て更に不安そうな表情を浮かべた。

「皐月、大丈夫だ」
「……!」

『俺が守る』

皐月の中で、言われてもいない筈の言葉が聞こえた気がした。杏寿郎は口を噤んだまま前を歩いているはずなのに、皐月の耳にはハッキリとそう聞こえたのだ。

──まただ。また、聞いたことのある言葉が聞こえた。でも杏寿郎さんはさっきの言葉は言っていない。

僕の記憶の中に留まっている言葉なのか──?

「……皐月」
「えっ」

声を掛けらると同時に足が止まって、皐月は慌てて杏寿郎の顔を見上げた。その後ろには、さっきまで遠くに見えた建物がある。皐月が少し考え事をしている間にもう辿り着いたらしい。

「中に入っても俺から離れるんじゃないぞ」
「あ……は、い」

真剣な表情で言われたので皐月も緊張に身を硬くさせながら頷いた。皐月の返事に微笑みを浮かべた杏寿郎だったが、その表情は再び引き締められて前に向いた。

目の前には古ぼけた木製の扉がある。看板も掲げられていない診療所など初めて見たが、杏寿郎はこの建物から香る微かな消毒薬の匂いに覚えがあった。

長らく蝶屋敷で療養していた杏寿郎には馴染み深く感じる匂いだ。しかしここは蝶屋敷とは似ても似つかぬほどの暗い印象を感じた。

患者を迎え入れるにはあまりにも不気味で小汚い──そこまで考えて杏寿郎は己の首を振った。外観だけで判断するのは良くないと思ったからだ。

「入るぞ」
「はい」

杏寿郎は言葉を掛けるとともに目の前にある扉を開いた。

「……!」

中を見て、杏寿郎はまず「ここは本当に診療所なのか」と己の目を疑った。

中は見ているだけで気分がふさいでくるような薄暗さに包まれていた。閉められたカーテンの隙間から差し込む光だけが光源の内部は、一瞬立ち止まるほど薄暗いく陰鬱だ。天井はくすみ、壁は汚れ、床の上には乾燥した草のようなものが所々に散らばっている。

玄関を入ると、消毒薬の匂いの籠もった八畳ほどの広さの空間があり、奥にはすり鉢や大小異なる様々な壺が置いてあった。

見るからに怪しげな雰囲気の中の様子に、皐月は怯えた様子で杏寿郎の背後にそっと身を隠した。杏寿郎も予想外の中の汚なさに驚いていたが、怯んでばかりもいられず彼は玄関から大きく一歩前に踏み込んだ。

「誰か居ないだろうか!!」

その大きな声は間違いなく部屋の奥にまで届いているはずだろう。しばらく待ち続けた杏寿郎達の元に、何やら部屋の奥から物音が近寄って来た。

「……今日は休診だよ」

若い男の声が聞こえた。そのすぐ後に、閉め切られていた薄汚い戸が開けられる。

「あー……看板出してなかったっけ……」

灯りも見えない部屋の向こうから、幸薄そうな雰囲気の男が現れた。

「君が八雲か!」
「そうだけど、なに?」

杏寿郎の問いかけに対し男は面倒くさそうに答えた。薄汚れたよれよれの白衣を身に纏っていなければ、この男が医者だと言っても誰も信じないだろう。

「あんた誰? 急患?」
「俺は患者ではない!診てもらいたいのはこっちの──」
「外に待たせてるの、人じゃないよね?」
「!!」

八雲は杏寿郎達の元へ歩み寄りながら微笑んだ。

扉が開いているとは言え、式神の姿はここからでは見えない筈だ。それでも式神の存在に気付いているかのような八雲の言葉に、杏寿郎は不審感を抱きつつもしらばっくれようとは思わなかった。

「よくわかったな!隠すつもりはなかったのだが──」
「後ろにいるのは誰? ……その子が患者かな?」
「……っ」

まるで杏寿郎の背後を覗き込むようにして首を傾けてきた八雲に、皐月は逃げるようにして後ろで縮こまった。そこに皐月の怯えを感じ取った杏寿郎が彼を隠すように八雲の前に出る。

「うむ!実はある事情で記憶喪失になってしまったのだが、八雲という医者なら治せるかもしれないと聞いてここまでやって来た!」
「ふぅん……。で、名前は?」
「皐月という!」
「皐月……」

杏寿郎はそこで敢えて皐月の苗字を出さなかった。八雲と琴乃葉は仲が悪いと聞いていたのもあったが、根っこではこの男を信頼していなかったのもある。出会ってばかりのこの男に全てを話そうと思わなかった。

「記憶喪失か……そんな患者は初めてだなぁ」
「では診てもらえないのか!」
「そうは言ってないよ。取り敢えず診てみるけど……まずは前に出て来てくれないかな」

貼り付けたような笑みを浮かべて再び首を傾げる八雲の前に、今まで杏寿郎の背中に隠れていた皐月は恐る恐るといった風に姿を表した。

皐月の姿を目にした途端、八雲の顔が驚愕に変わる。そのまま少しずつ近付いてくる彼に皐月は思わず退いだが、彼は離れようとする皐月の元まで一気に詰め寄ってきた。

「どうかしたか!?」
「!!」

後一歩というところで、杏寿郎が間に入った。八雲に向けられているその顔はたしかに笑顔であったが、目にはハッキリと警戒の色が見えた。杏寿郎の中では既に、八雲への不審感が頂点にまで達していた。

皐月との接触を杏寿郎に邪魔をされた八雲は僅かに顔を顰めさせたが、少し距離をとって改めて皐月の方に向き直った。

「別に……ちょっと珍しい眼の色をしていたから気になっただけさ」
「そうか!しかし気になってもっと近くでよく見たくなるのはわかるが、皐月は少し怯えているようなのであまり怖がらせないでもらえないか!」
「杏寿郎さん……!そんなこと別に言わなくても……」

怖がっているなどと言われると事実であっても恥ずかしさの方が勝る。皐月は咎めるように杏寿郎の腕を引くが、杏寿郎の視線は一度も逸らされることなく八雲に向けられている。

その監視するような目線に八雲は気にした素振りも見せず、杏寿郎と同じように彼は真っ直ぐ皐月の方を見つめていた。

「まあ、まずは問診してみないことにはね……こっちへおいで」
「えっ……」
「君のことだよ、皐月くん」
「あ……は、はい」

呼ばれたのは皐月だけだったが、当然のように杏寿郎も皐月と一緒に奥へと進んだ。開いたままになっていた戸の向こうへ八雲が進んで行ったので、二人も彼の後を追って部屋に入った。

「うわ……」

戸の向こうも随分荒れ果てた様子だった。
机の上には聴診器やピンセットや血圧計が無造作に置いてあり、その細くくねった管や、鈍い銀色の光や、洋梨型のゴム袋は、なまめかしい昆虫のようだった。皐月は言い表せない気持ち悪さに思わず声を漏らしていた。

「あ……そうそう」

奥まで進んで足を止めた八雲が、そこで思い出したかのように話し出した。

「付き添い人はいらないから」
「!」
「出て行って」

この付き添い人というのが杏寿郎のことを指しているのは明らかである。信用の置けない人物に大事な幼馴染みを預けたまま出て行けるわけがなく、杏寿郎は当然その指示に食ってかかった。

「何故出て行かなければならないのか理由が知りたい!」
「必要ないから」
「不必要であるなら居ても問題ないだろう!」
「邪魔。鬱陶しい。声がうるさいし気が散る。お前いらない。わかった?」
「……っ」

言われて気分が良いものではない台詞の数々に、杏寿郎よりも皐月の方が不快感に顔を顰めていた。悔しそうに唇を噛むと、皐月は八雲に背を向けて杏寿郎の元まで戻った。

「行こう」
「皐月……」
「こんな奴に診てもらいたくなんかない。もっと別な方法で記憶を取り戻そう」
「無理だよ」

その言葉は八雲にも聞こえていたようで、彼から放たれた否定的な言葉に皐月と杏寿郎は思わず顔を向けた。

「強力な呪いがかかってる。君のその呪いはそう簡単には解けないよ。封じられた記憶は長い年月をかけて何かのきっかけで思い出すか、術を使って解くかしないと元には戻らない」
「……事情も話していないのにどうしてそんなことがわかる」

杏寿郎は今度こそ警戒心を露わにさせて八雲を睨んだ。

「同じ穴のムジナだからさ。でも鬼狩りの君とは違う」

──やはりこの男は全てを見透かしている。おそらく、皐月が琴乃葉家の人間であることも。

「俺を信頼しろとは言わないけど……君が出て行かないのなら彼は診ないよ。どうする?」

決定権を俺に委ねるのか。
杏寿郎は皐月の方に目線を向けた。皐月は相変わらず八雲の不快感に眉根を寄せている。これだけ警戒しているのに、皐月を預けるわけにはいかない。

「……すまないが、やはり──」
「杏寿郎さん、僕なら大丈夫です」

断ろうとする言葉を被せるようにして皐月が突然話し出した。

「記憶が本当に戻せるって言うのなら、我慢しますから」
「何を言っているんだ皐月!お前が我慢する必要などないんだぞ!」
「いいんです。一度は決めたことですから……」

八雲を睨むその目から、皐月の意思は堅いように見えた。記憶を取り戻すために、その隠しきれない不快感を我慢しようとしている。

「話は決まった?」
「決まった」
「皐月!俺はまだ──」
「杏寿郎さん」

納得ができず皐月の腕を掴む杏寿郎だったが、振り向いた彼の顔を見て杏寿郎は言葉を失った。

「あいつが信用できないのは分かります。だから、僕を信用してください」
「…………」
「必ず杏寿郎さんの元に戻りますから」

そう言って微笑みを浮かべる皐月に、杏寿郎はもう何も言えなかった。他でもない皐月に信用してくれと言われて、杏寿郎が否定できるわけがなかった。

「……わかった。外で待っている」

諦めたように苦笑した杏寿郎が皐月の手を最後に強く握りしめて、やがてその手を離した。

離れていった手の温もりに皐月は名残惜しさを感じたが、黙ったまま背中を向ける彼を呼び止めようとはしない。

ただその二人のやりとりを、八雲が温度のない目でじっと見つめていた。




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