藤色の焔 | ナノ


煌びやかな朱塗りの柱を、皐月は落ちつかなげに見つめた。

前を歩く杏寿郎のあとを離れずに追いながら、酒精と白粉と、何か分からないが甘くどろりとした香りの漂う建物のあちこちに視線を走らせた。

建物には小さな部屋の入り口がたくさんあり、仲居と思われる男女が忙しそうに行き来している。そして時折すれ違うのは、艶やかでどこかだらしのない着物を身に着けた娼妓と、その娼妓にしな垂れかかられてだらしなく顔を弛緩させている男たちだ。

「皐月、平気か?」
「あ……はい」

いつまでも落ち着かない様子の皐月に振り返った杏寿郎が問いかけた。

結局強引について来てしまったこの幼馴染みは、辺りの異様な雰囲気に些か怯えているようだった。少しでも安心させようと杏寿郎は優しく微笑んだが、あまり効果はなかったようだ。皐月はすぐに目新しいものに目移りしてしまった。


吉原遊郭の評判は聞いていたし、ここがどんな場所か知識としては知っていたが、実際に足を踏み入れるとまた違うものだ。隠しようのないねばついた雰囲気に、杏寿郎は顔をしかめる。

「うーむ……宇髄はよくこんな場所へ足繁く通えるものだな……」

こういう店で行われる行為が浮気なのかどうか杏寿郎は分からないが、嫁にすまないとは思わないのだろうか。己と感性が違う音柱の飄々とした顔が脳裏に浮かんで、杏寿郎は暗澹とした気分になった。

不意に皐月の方へ顔を振り返らせると、彼は見慣れぬものにまだ興奮しているようだった。

本当なら、鬼がいるかいないかに関わらず皐月をこんな場所へ連れて来たくはなかった。客をとるために妖艶な微笑みを浮かべて見せる遊女たちに、皐月は戸惑いながらも律儀に微笑み返している。
その優しさに溢れた純粋な笑みが他の人間に向くのが我慢ならなかった。

「っあ」

杏寿郎は唐突に皐月の手を取った。驚く皐月の手を引いて半ば強引に己の隣にまで近付ける。より縮まった距離に皐月は困惑した顔を杏寿郎に向けた。

「はぐれると大変だからな!嫌だろうが少し我慢してくれ!」
「……やじゃ、ないです……」
「!!」

手を繋ぐなど、皐月のことだからきっと恥ずかしがって嫌がるだろうと思っていたが──顔を赤らめつつも嫌ではないと答えた彼に、杏寿郎は笑顔を固まらせた。

「うむ……それなら、よかった」
「…………」

何が良いと言うのか──杏寿郎は心の中で自問しながら、熱を持った己の顔を俯けさせた。


己は昔からどうにも、皐月の素直な言葉に弱いようだった。

普段の皐月が素っ気なくつれないせいでもあるだろう。たまに見せる彼の甘えた表情と態度に、杏寿郎はいつも狼狽えて動揺を隠せずにいた。

それだけに杏寿郎は、皐月の涙には余計に弱かった。

気が強く我慢癖のある皐月が泣く時はいつも己が傷付けてしまった時ばかりで、彼が涙を流すとまた傷付けてしまったとつい焦ってしまうのだ。

しかし杏寿郎は、皐月のその一挙一動に心を掻き乱されるのが嫌ではなかった。むしろ杏寿郎にとってその感情の乱れは、自分がただの人間であることを思い出させてくれる心地よいものだった。

そしてその自分が鬼殺隊の柱であることを一時の間忘れさせてしまう感情の揺れが、今まさに起きている。何の抵抗もなく皐月が手を繋いでくれたことに、顔には表さずとも杏寿郎は心の中ですっかり舞い上がっていた。

狂おしいほどの皐月の愛おしさに、杏寿郎は今すぐこの場で彼を抱きしめてやりたい気持ちだった。

「遊郭って、凄いところなんですね。何というか……すごく煌びやかで……豪勢な感じがして……」
「そうだな!聞いていた以上に絢爛な場所だ!しかし少々色彩が目に痛い!眩い灯りのせいもあるかもしれないが!」
「そうですか? 僕は鮮やかで綺麗な色合いだと思いますけど……。ほら、あの紅色なんか──」

そこまで言って、皐月は不自然に言葉を切った。目を丸くさせ、紅色の建物を指さしたまま固まっている。

「……皐月?」
「……あ」

杏寿郎が名前を呼んで顔を覗き込むと、皐月はようやくハッとしたように指を下ろして建物から顔を逸らした。

「すみません……今何か……変な感じがして……」
「変な感じとは?」
「……わからないです。でもたぶん……何か、思い出しかけていたんじゃないかと……」
「本当か!?」

戸惑いながら語る皐月に杏寿郎は食い気味に体を寄せた。真剣みを帯びた目で皐月の不安そうな顔を見つめる。

「あの建物に何を感じた? 何か見覚えでもあったのか?」
「いえ、あの……違うんです、たぶん。建物が、とかじゃなくて……あの、色彩が……」
「色彩?」
「はい。何か……あの紅色が……」
「あの色がどうかしたのか?」
「…………」

そこまで問い詰めると、皐月は何故かみるみるうちに顔を赤くさせて口を噤ませてしまった。不思議に思って杏寿郎が首を傾げるが、皐月はそこから先を語ろうとしない。

「……皐月、どうかしたのか?」
「いえっ……なんでもないです」
「顔が赤いが……」
「気のせいです!あの、灯りのせいですから……!」
「そうか……?」

口を割ろうとしない皐月に杏寿郎もそれ以上聞き出すことを諦めた。無理に問い詰めたところで皐月を困らせてしまうだけだ。大事な幼馴染みを傷付けたくない一心で、杏寿郎はあっさりとその話題から身を引いた。

「さて……八雲を探そうにも、情報は何もないからな。式神、大凡の居場所はわからないのか?」

杏寿郎は己の首から下げた鬼除けに向けて問いかけた。式神が宿るその鬼除けは杏寿郎の胸の上で彼の言葉に呼応するように微かな熱を持った。

『簡単に見つかる場所には居ないだろうな!しかし遊女達を普段診ているというのなら、住処は表道から見える位置ではなく裏道に沿った場所にあるかもしないぞ!』
「より複雑な道を選ばねばならないということか……」
「……あの、杏寿郎さん」
「ん?」

隣から声を掛けられて、杏寿郎は皐月の方へと顔を向けた。

「誰と話してるんですか……? 声しか聞こえないですけど、杏寿郎さんの声と同じなような……」
「皐月にも聞こえるのか!」
「え?」
『当然だろう!皐月は琴乃葉家の人間だ!記憶を失おうともその力までは失ってはいないのだからな!』
「えっ、だ、誰……?」

姿が見えないのに杏寿郎と同じ声がすぐ近くで聞こえるので、皐月は怯えた様子で辺りをキョロキョロと見渡した。

八雲を円滑に捜索するためにも、一緒に行動する皐月には式神の存在を知ってもらう必要がある。杏寿郎は不安がる皐月の手を優しく引いて薄暗い細道へと誘い込んだ。

「杏寿郎さん……?」
「式神、ここなら人目につかないので出て来てくれないか?」
『わかった』
「!」

胸元から取り出した鬼除けに向かって杏寿郎が語りかけると、暗闇に覆われた彼の後ろから突然人影が現れた。彼の後ろには壁しかないはずなのに、目の前で起こったそのありえない現象に皐月は目を見張る。

しかし皐月がそれよりも驚いたのは──

「え……うそ……」

その人影の正体が、自分の見知った人間と瓜二つの姿であることだった。

「杏寿郎、さん……?」
「いや!俺は琴乃葉家の式神だ!本物の煉獄杏寿郎はお前の目の前にいる片目の方だな!」
「え? えっ……でも……」
「皐月、落ち着け!俺が煉獄杏寿郎だ!こっちはお前が記憶を失うから存在していた式神だ!俺の姿を借りているからこのような見た目をしているだけなんだ!中身は全く違うぞ!」
「うむ!その通りだ!中身は全くの別物だ!なので最初は混乱するだろうが彼と俺は別人として扱ってくれ!」

双子と言っても過言ではないその酷似っぷりに、皐月は驚きのあまりそのまま卒倒しそうだった。

混乱状態で頭がまだ回らないのに、二人の杏寿郎が矢継ぎ早に説明を付け足してくる。

陰陽師の家系であるとか、式神と杏寿郎の命が繋がっているとか、記憶にない出来事を交えながら語られ続け、整理も何もつかないまま話が終わってしまって二人は「理解してくれたか?」などと同じ顔で同じ台詞を言う。

また同じ説明を同じ顔でされるのが嫌というのもあってか、皐月は半分以上理解できていないにも関わらず「はい……」と力なく返事をしてしまった。

その頼りない返事を素直に受け止めた二人が同じような笑みを浮かべて「それなら良かった!」と喜んだ。皐月はその二人の笑顔に対して、誤魔化す様に苦笑いを浮かべるしかできなかった。



◆◆◆



杏寿郎達はその後しばらく遊郭の中を歩き回り、八雲の居場所について聞き取り調査も始めてみた。

しかし尋ねた相手は皆遊郭に訪れていた客達ばかりで、長く遊郭で関わりを持たない彼らが八雲の所在など知る由もない。かと言って遊郭の事情に詳しそうな店の女に訊こうにも、ひやかしはお断りだとばかりに追い返されてしまう。


「このままだと少し厳しいな!」

再び客の男から「知らない」と言われてしまった杏寿郎は固い笑顔でそう叫んだ。

「素性もわからぬ人間にいきなり八雲の所在について尋ねられれば、遊郭の人間なら当然警戒するだろうな!」
「ということはやはり遊女達なら八雲について何か知っているということか!」
「そりゃあそうだろう!八雲が診る人間は遊女達ばかりだぞ!」
「ならば彼女達に訊くしかないではないか!」
「うむ!しかし尋ねたところで門前払いを食らっているようではそう簡単にはいきそうにないな!」
「いっそ金を払った方が早いのではないか!?」
「!!」

今まで黙って二人の会話を聞いていた皐月が、そこで初めて杏寿郎の着物を掴んだ。掴まれた杏寿郎は当然驚いた顔をして見せたが、ほぼ咄嗟に取ってしまった己の行動に皐月自身も驚いていた。

「皐月? どうかしたか?」
「……っあの、お金払うってことは……」
「うむ」
「その……あの女の人達と……一晩過ごすってことですか?」
「!」

言いにくそうにしながらも顔を赤らめて尋ねる皐月に、杏寿郎は雷でも当たったような衝撃を受けて固まってしまった。

よもや──皐月は、ヤキモチを焼いてくれているのか?

込み上がるむず痒い感情に杏寿郎は咄嗟に顔を逸らした。早く違うと答えなければならないのに、嬉しさが勝ってこのまま言葉を出したら声が上擦ってしまいそうだった。

「あの……記憶にある限り、そういうのには全く経験がない僕が言うのも何ですけど……」
「…………」
「……そういうのは、ちゃんと……好きな人とするべきだと、思います……」

なんと……尊く、愛い存在か──!

杏寿郎は思わず己の口元を手で覆って天を仰いだ。いっそのこと今この場で、俺にはお前だけだ安心しろ、と一途な想いを叫んでやりたかった。

しかし皐月は記憶を失っているので、すでに杏寿郎と“そういうの”を経験済みだという事実を知らない。この想いを伝えた時の皐月の反応を想像すると、杏寿郎は拒絶されるのが怖くてとても事実を伝えきれなかった。

「……うむ、そうだな!それは間違いない!だが皐月、金を払うと言っても俺は別に彼女達と一晩を共にするためではなく情報を聞くために払うつもりなのでお前が案ずる必要はないぞ!」
「あ……す、すみません……!」
「いや!心配させてしまった俺が悪い!気にしないでくれ!むしろ気遣ってくれてありがとう、皐月!」

自分の勘違いに気付いた皐月が更に顔を赤くさせて俯いたのを見て、杏寿郎はすぐに横から彼を励まして礼を述べた。
以前までと全く違う反応を見せてくれる皐月は杏寿郎にとって新鮮で、とても可愛らしく見えた。

「すみません……なんだか僕、杏寿郎さんの邪魔になってますよね……」
「そんなことはない!心配なのは事実だが、邪魔だということは一切ないぞ!」
「嘘言わないでください……!」
「嘘ではない!何故そんなに疑う!」
「だって足手まといじゃないですか!杏寿郎さんは隠そうとしてますけど……あなたが僕に気を遣ってるの、全部わかるんですよ!」
「それは──」
「邪魔なら邪魔ってハッキリそう言ってください!」
「っ、お前が邪魔だとはこの口が裂けても言わないぞ!」
「!!」

腕を掴まれたと同時にそう力強く言われて、皐月の目が見開かれた。
皐月の中で、これまで見たこともない光景が眼前に展開され、彼は記憶の中を駆け巡る何かに息を呑んだまま唖然となった。

僕は──どこかで、この言葉を、聞いたことがある。

「……皐月?」
「……!」

声を掛けられて、皐月はようやく正気を取り戻したように杏寿郎の顔を見上げた。

「顔色が悪いぞ。具合でも悪いのか?」
「あ……すみません、違うんです」

頬に触れてくる杏寿郎の手の感触とその温度に、またも皐月の記憶の中で何かがざわめいた。その未知の感覚が恐ろしく、皐月は怖気付いたように彼の手から咄嗟に顔を逸らした。

「皐月……」
「ホントに、何でもないです……。変なこと言ってすみません……」

──記憶を失っている今は、俺から触れられることすら憚られるのか。

杏寿郎は己の手から明らかに逃れる仕草を見せた皐月に物悲しげな表情を見せた。

「……気にするな!」
「あっ」

一度は離した手を再び取って握ってみたが、皐月は抵抗せずに杏寿郎の手を緩く握り返してくる。

──手を繋ぐことは、こんなにも容易く叶ったというのに。

「根気よく聞き取りを続けよう!思わぬところで何か情報が掴めるかもしれないからな!」

安心して、頼ってくれている。
今はそれだけで充分ではないか。

「時間はかかるかもしれないがもう少し頑張ってくれ、皐月!」
「はい!」

杏寿郎の朗らかな微笑みに、皐月もつられたように笑った。




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