藤色の焔 | ナノ


ここ最近、杏寿郎さんは記憶を失う前の僕の話をあまりしなくなってきた。話題を避けているのか、それとももう話すことがなくなったのか──いずれにせよ、そのことに僕は少しだけホッとしていた。

杏寿郎さんが以前の僕の話を口にするたびに、早く思い出さなくちゃっていう焦燥感に駆られていたから。申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまって、彼のまともに顔も見られなかった。

でももしかしたら、そういう僕の反応に気付いて彼は敢えて何も話さないようになったのかもしれない。優しい彼のことだから充分に考えられる。

そうだとすると余計に申し訳ない気持ちになる。きっと本当は彼だって僕に早く思い出してほしいだろうに。急かすこともせず、僕の気持ちを汲み取って待ってくれている。

どうすれば思い出せるんだろう。
少しでもいいから何か思い出してあげたい。


「よう、邪魔するぜ」
「!」

こちらの返事も待たずに突然部屋の戸が開けられると、以前一度だけ見た派手な男が現れた。名前はたしか──苗字は忘れてしまったけど、天元とか言っていた気がする。

彼は前に僕の体に乱暴してきたので少し苦手だ。どうしてここに来たんだろう。部屋に来たのが杏寿郎さんじゃなかったことに若干落ち込んでしまった。

「そんな派手に嫌そうな顔すんなよ。傷つくだろ」

天元さんは僕の元まで歩み寄ると、全然傷ついてなんかいないような顰めっ面で僕を上から見下ろした。

「……何か御用ですか……」
「……お前よう、もうちょっと愛想良くできねぇのか?」
「……用がないのなら帰ってくれませんか?」
「だから何でそうムッとした顔するんだよ。可愛くねーな。見舞いに来たのが煉獄じゃなかったのがそんなに気に食わなかったのか?」
「ちっ、違います!変なこと言わないでください!」

あながち間違いでないことを指摘されてつい反応してしまった。おそらく彼にはバレてしまっているだろう。しかしこのまま認めてしまうのもなんだか癪なので、僕は口先だけで彼に「違う」と強く否定した。

「おーおー顔真っ赤にしちゃって。記憶失っても恋人のことは変わらず愛してますってか?」
「え? 恋人?」
「あっやべ……」

まるでうっかり口を滑らせたかのように口元を手で覆い隠した天元さんに、まさか──と疑惑が確信へと変わっていく。

もし、そうだとして、と考えたら──急に顔が熱くなって、何も言えなくなってしまった。毛布を握りしめて顔を俯かせると、天元さんの方から「あー……」と決まりの悪い声が聞こえた。

「いや、俺もまだハッキリとしたことは知らねーし、雰囲気的にな? 恋人だろって感じがしたから言っただけで、別に実際そうだって決まった訳じゃねぇからな?」
「……そう、なんですか……」

あれ──何で今、胸が痛んだんだろう。
何で僕、さっきまで天元さんの言葉に舞い上がっていたんだろう。杏寿郎さんが恋人かもしれないって想像して、何で喜んでいたんだろう。

──そんなこと、男同士で絶対にありえないことなのに。

「……つーか今日ここに来たのはこんなこと話しに来た訳じゃなくてだな……」

若干申し訳なさそうにしながらも彼は話を続けた。

「最近、とある任務先でお前の名を口にした鬼と出会った」
「僕の名前を……?」
「ああ。だが俺もちょいと訳ありで派手な動きができねぇから、情報吐かせる前に手っ取り早く殺しちまったんだけどよ……。向こうはどうやらお前のことを探し回ってるみたいでな。何か知ってないかお前に直接聞きに来たんだが……その様子じゃ心当たりなさそうだな」

そりゃあ、そうだろう。
いきなり鬼なんて言われても僕の知り合いに鬼なんかいないし、そもそも知っていたとしても記憶を失っているのだから覚えているわけがない。

「すみません……。ちょっと覚えがないです……」
「気にすんな。そうだろうとは思ってた。ただ場所が場所なだけにどうしても気になっちまってな……」
「……場所が、何か関係あるんですか?」
「あー……まあ、お前は絶対無関係だとは思うんだがよ……」

妙に言いにくそうにしている彼の様子に不審感を抱く。そこまで言いにくい場所ってどんな所なんだ。
怪訝な顔でじぃっと見つめていると、彼は僕の視線に気付いて苦笑して見せた。

「なんて顔したんだよ。せっかく可愛い面してんのに勿体ないぜ?」
「可愛くなんかないですよ。話をはぐらかさないでください」
「いやいや、お世辞で言ってるわけじゃねーよ。お前にもう少し可愛げがあって煉獄がいなけりゃ俺が嫁にもらいてぇって考えるくらいには別嬪だぜ?」
「は? 何言ってんですか? 僕男ですよ?」
「は?」
「え?」

目を点にさせて僕を見下ろす天元さんの顔は明らかに今僕が男だと知った顔で、彼が今まで僕のことを女だと勘違いしていたのだとすぐに察することができた。

腹立たしいことこの上ないが、間違いは誰にでもあることだ。ここは怒らないように、大人としての振る舞いを──

「はあ!? お前男!? その顔と体でか!? 全っ……然見えねぇよ!!」
「失礼過ぎるんですけど!?」

そんなに溜めてまで言う必要ないだろう!
確かに体付きは細いし顔が幼いとか人に言われたことはあるけど!見ればわかるだろ普通!こいつの目は節穴だらけなのか!

「は? ちょっと待てよ、じゃあ煉獄はお前と──……」

話している途中で天元さんはハッとすると、咄嗟に口元を手で覆い隠して僕から顔を逸らした。その顔は若干青褪めているようだった。

「……何なんですか」
「いや……いや、あれは……派手に勘違いしてた俺が悪いな……自覚させちまったのも絶対俺だろうし……いやでもそれなら……煉獄は元々こいつのことが……」

ぶつぶつと何か呟いている。僕が男で何か問題でもあるのか。ハッキリとしない彼の態度に余計に苛々が募った。

「っ、僕が男なら杏寿郎さんが何なんですか!? 何か関係があるんですか!?」
「あ? いや、別に……」
「さっきから一人でぶつぶつ呟いて……言いたいことがあるならハッキリ言ってください!」

僕の怒鳴り声に天元さんの眉がピクリと動いた。気に食わないって顔で僕を見ている。

「……なんだよ、どうせ言ったら言ったで派手に怒んだろうがお前」
「勝手に決めないでくださいよ!」
「あーあーったく、本当に可愛くねぇな。煉獄も何でこんな奴なんかに惚れ込んだんだろうな」
「なッ……!き、杏寿郎さんはこの話に関係ないんだろ!惚れ込んだとか……急に変なこと言うな!」
「ほーぅ……」

慌てて否定すると天元さんは急に目を細めてニヤニヤとした嫌な笑みを浮かべた。絶対何かろくでもないことを言い出す気だ。

もうこれ以上絡まれたくない思いで僕は天元さんの嫌な笑みから顔を逸らした。それなのに彼はそのニヤけ面をぐいっと僕の顔の近くにまで寄せてきて、首を傾げながら顔を覗き込もうとしてきた。

「何で顔真っ赤にしてんだ?」
「っし、してないッ!こっち見るな!」
「煉獄に惚れられてるって知って一丁前に照れてんのか? ん?」
「違う!!」
「耳まで派手に真っ赤だぞ」
「ッ、触るな!!」

顔を逸らしていたら急に死角から耳に触れられて反射的にその手を振り払った。からかうような笑い声が聞こえてさらに顔が熱くなる。

「そんなムキになんなよ。逆効果だぜ?」
「なってない!」
「茹でだこじゃねぇか」
「うるさいっ!」
「あ」
「え?──っ」

突然声を上げたから何だと思ってつい振り向くと──右頬にぶっすりと指が突き刺さった。頬を膨らませて笑いを堪えている男のムカつく顔が見えて、僕はその太い首を絞めてしまいたいような激しい怒りに駆られた。

「……っ何すんだこの馬鹿ッ!!」
「馬鹿なのはテメーだ。まんまと引っ掛かりやがって」
「騙すようなことしたお前が悪いんだろ!!謝れ!馬鹿!」
「キャンキャンうるせぇな、子犬かよ」
「誰が──」

「宇髄」

抑えつけていた怒りを吐き出すように叫んでいると、部屋の出入り口の方から会話を切り込むような鋭い呼び声が聞こえた。不機嫌さを凝縮して、すごみさえ感じる低音だった。

先に顔を向けた天元さんの口から「げっ」と声が漏れて、顔の筋肉が強張ったように口角を不自然に上げた引きつった笑みを浮かべた。

それにつられて僕も顔を向けたら、部屋の出入り口の方に火のような怒りの色を顔に漲らせた杏寿郎さんが立っていた。その顔中にどことなく殺気が漂っているのは気のせいだろうか──そう感じずにはいられない程に鋭い彼の視線は真っ直ぐに天元さんに向けられていた。

「よ、よう……」
「…………」
「おい、変な勘違いすんなよ? 何もしてねーからな?」
「言い訳はよせ。全部見ていたぞ」
「ああ、ならわざわざ弁解する必要ないな」
「開き直るな」

ピリピリと肌を刺すような緊迫した空気が漂っている。天元さんは気にしているようには見えないが、杏寿郎さんはこめかみに青い癇癪筋を走らせて天元さんを睨んでいる。
僕は言葉も出せずに二人の様子を見守りながら息を呑むしかなかった。

「これ以上の話は俺の部屋で聞かせてもらおう」
「おう、俺もちょうどお前に話しときたいことがあったからな。都合がいいぜ」
「ぁ……あの」
「皐月」
「あっはいっ!」

部屋を出ようとする二人に呼びかけようとすると、杏寿郎さんが僕に背を向けたまま名前を呼んだ。それが聞いたこともないような低い声だったので思わず上擦った声で返事をしてしまった。

「お前とは後でゆっくり話す。……しばらく待っていてくれ」
「は、はい……」

怒っているような、そうでないような、明らかな不機嫌な声。その不機嫌の理由がわからず、迂闊に声もかけられない。

──結局、一度も振り返ることなく杏寿郎さんは天元さんを連れて部屋から出て行ってしまった。


◆◆◆


部屋の向こうから聞こえてきた宇髄の楽しそうな声と皐月の怒鳴り声に、訳の分からない憤りが胸の奥に湧いた。

戸の隙間から見えた二人のやりとりが記憶に焼き付き、今でも思い出すたびに神経が張り裂けそうになる。

俺が今どれだけ願っても見せてもらえない皐月の一面を、宇髄に知られてしまったことが腹立たしかった。何よりも、彼が皐月のその一面を受け入れかけていたことが気に食わなかった。

いっそのこと彼が皐月のことを嫌いになってくれればまだ安心できたと言うのに。自分でも最低なことを考えていることはわかっている。だが彼が悪戯に皐月の肌に触れたことはどうしても許せなかった。


「……なあ、お前やっぱり派手に勘違いしてるだろ」
「…………」

部屋へ連れて来たばかりの宇髄が背後から話しかけて来た。若干の呆れが混じった声──余裕のある彼の態度がどうにも癪に触り、益々己の心が掻き乱されていく。

「誤解だからな。俺はあいつにちゃんと用があって病室へ行ったんだ。あれもからかってやっただけで別に他意は──」
「正直に言おう!」
「お、おう」

話している最中であったが構わず彼の方へ振り返った。宇髄は腕を組んだまま少したじろいでいるようだった。

「皐月と楽しげに話していた君が妬ましくて仕方ない!」
「そ、そうか……? 別に楽しげって風でもなかったような……」
「君のことは信頼しているし心配はいらないと思うが、俺は皐月のことになるとどうしても冷静さを欠いた考えに至ってしまう!そうならないように俺も全力で務めるが君も今後は皐月に正当な理由もなく触れるのは控えてもらえないか!?」
「こんな真面目にヤキモチ焼いてる奴見んの初めてだな……」
「宇髄!聞いているのか!?」
「はいはい聞いてる聞いてる」

まるで聞いていないような態度で返事をされたが、彼が聞いていると言っているのだからそれ以上疑うのは良くない。未だ己の胸の奥で蟠っている黒い感情を抑え込み、目の前で困ったように笑う大事な仲間に対し満面の笑みを返した。

「ではこの話はこれでお終いだな!それで、君が俺に話したいこととは何だ?」
「おう、それなんだが……」

話題が変わったことに安心して語り始めた彼の話に相槌も打たずに静かに耳を傾ける。

内容は任務地にて鬼の潜入調査を行った際に皐月の名前を出した鬼がいたというものだった。彼はそれについて先程皐月に心当たりがないか尋ねていたらしい。

記憶を失っている今の皐月に尋ねても無駄だと思うが、彼はどうしてもそこで引き下がれない理由があるようだった。

「お前には無縁の場所だろうが……遊郭くらいは知ってるだろ」
「花街か!」
「おうよ。今そこに俺の嫁が三人潜入調査に入っている。定期的に連絡を取り合っているが、ここ最近足抜けしたという女が多数報告されている」
「宇髄!」
「何だ」
「足抜けとは何だ!」
「そっからかよ」

聞き慣れない単語について尋ねると宇髄から疲れた顔をされた。ことこれに関しては宇髄の補足を受けながら話を聞くしかない。

遊郭の情報など知る由もない俺はその日初めて花街のいろはを頭に叩き込まれた。




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