藤色の焔 | ナノ


俺が見舞いに行くといつも穏やかに笑って出迎えてくれる今の皐月を見ていて、俺はふと思う。

記憶を失う前の皐月が恋しいと。

もちろん記憶を失う前も失った後も関係なく、皐月はいつだって愛おしく俺にとって大事な存在だ。それは変わらぬ事実だ。いつも心のどこかで皐月に笑って欲しいと願っていた。

しかし、現実はどうだ。
毎日毎日皐月の笑顔を見ることができているのに、どこか物足りなさを感じている自分がいる。

楽しそうに笑って俺の話を聞いてくれる皐月はこの上なく可愛らしく、一緒に過ごせて幸せを感じているはずなのに、心は満たされないままいつも不完全燃焼のような毎日が続いている。

何故だろうか。
姿形もその声も、存在そのものも皐月は皐月であることに違いないというのに。何故こんなにも以前の皐月を恋しく思うのか。

『杏寿郎ッ!!』

そんなことを考えている時にいつも思い出すのは皐月の怒鳴り声だ。会いに行けば「帰れ!」と追い返され、話しかければ「うるさい!」と怒鳴られ、触れようとすれば「触るな!」と振り払われ──思い返せば今の皐月とは正反対の性格だった。

「…………」

あの頃の皐月を思い出すたび、熱に病んだように体が火照った。
考えようとしていた訳でもないのに、初めて皐月とまぐわった晩の情景が頭に思い浮かび、心臓の音が異様に亢進する。

体を揺するたびに感じ入った甘い嬌声を漏らし、蕩けた顔を赤く染め上げ許しを乞うような目で俺を見上げていた。普段から俺を怒鳴りつけてくる姿からは想像もつかないほど扇情的な姿だった。

『お前ってああいう気の強い奴が好みなんだな』

──皐月が記憶を失う前、皐月と出会って間もない宇髄に言われた言葉を思い出した。

気の強い──言われてみればそうかもしれない。そんなことを思いながら皐月の元に会いに行けばまた怒鳴られてしまった。

そういえば生前の母上も、気の強い芯の真っ直ぐとした方だった。好み、というのはあながち間違いではないのかもしれない。あの気高い心を持つ母上を娶った父上を思えば、息子である俺は皐月のあの気の強い一面にも惹かれていたのかもしれない。

だがそれは、記憶を失う前の皐月の話だ。
今の皐月は違う。

会いに行くと、いつも感じるのだ。皐月が俺を見て申し訳なさそうに笑っているのを。昔から皐月を見ていたのでそういった些細な変化にはどうしても気付いてしまう。

皐月はおそらく勘付いている。俺が、今の皐月に昔の皐月を思い重ねていることに。同一人物だと頭でわかっていても、どうしてもまだ違和感が拭えずにいる。

もしこのまま一生皐月の記憶が戻らなければ──


──コン、コン。

「……ん?」

一人で考え込んでいると、不意に部屋の窓から音が聞こえた。

顔を向けると、窓の外に鎹鴉の要がいた。嘴に何が咥えている。俺は座っていたベッドから腰を上げ窓を開けに行った。

「要!どうした!」

窓を開けると要は咥えていたものを差し出すように首を前に出した。意図を汲んで要の前に手を出すと、要は嘴を開いて咥えていたものを手の上に落とした。

「これは……」

最初は何だと思ったが、よく見てみるとそれが香り袋であることがわかった。嗅いでみると藤の花の匂いがする。

これは、鬼除けだ。
しかし通常なら藤色の布生地で作られるはずのそれは、紅に金を混ぜた強烈な色彩をしている。こんな鬼除けは初めて見た。

「要、これをどこで──」
「琴乃葉家ヨリ!琴乃葉家当主ヨリ杏寿郎ヘ!」
「御当主が?」

皐月の祖父である御当主が何故俺に鬼除けを──?

「要、御当主は何故──ッ!」

理由がわからず要に尋ねようとしたところ、持っていた鬼除けが突然熱を発した。持てない熱さではないが急な発熱に驚いて思わず鬼除けを床の上に落としてしまった。

「カァーッ!カァーッ!」
「っ、待て!要!」

何が起きたのかわからず床の上にある鬼除けを凝視していると、まだ訊きたいことがあるというのに要は何故か飛び立ってしまった。

一体何なんだ、これは──

見えなくなった要を諦めて、再び視線を鬼除けに移す。見た感じでは色彩が派手なこと以外ただの鬼除けにしか見えないが──御当主がわざわざ俺に送ってくるということは、この鬼除けには何かあるのだろう。

「……皐月に渡せということか……?」

一人で推測しながら、床に落とした鬼除けを拾うために屈んだ。まだ熱を持ってるいのかどうか確かめるべく指で突くと、鬼除けからふわりと藤の花の香りがした。指先に伝わる温もりから、まだ鬼除けに熱があるのだとわかった。

「これは、一体……」

特に害はなさそうだと判断しそっと手で掬って持ち上げてみた。何故熱を発しているのか仕組みがわからず、興味本位で中を覗こうとした時──

背後に、妙な気配を感じた。

「……ッ!!」

反射的に振り返ると、己のすぐ後ろに人がいた。視界に映った服装は見慣れたものだった。

これは、隊服──鬼殺隊員か?

音もなくどうやって現れたのかと、思わず顔を上げると──

「……お前は……」

己の顔が一気に強張ったのを感じた。
見慣れた隊服、見慣れた羽織、見慣れた髪と顔立ち──見慣れた、己の姿。

「煉獄杏寿郎だな!」
「…………」

己と全く同じ顔、同じ声で話しかけられ、夢を見ているのかとさえ思った。唯一違うものと言えば、左目が潰れていないままだということくらいだ。

今見ているものが夢か現在かわからず呆然としたまま動けずにいると、目の前に立つ“もう一人の俺”が大きな目を瞬かせて腕を組んだまま前屈みになった。

「久しぶりだな!元気そうで安心したぞ!」
「…………」
「しかし君には本当に驚かされた!あれだけの重傷を負っておきながら短期間でよくぞここまで回復できたものだな!その類稀なる肉体と精神力、人間であるにも関わらず実に見事なものだ!あの日もし君が万が一にでも鬼にされていれば大変なことになっていたな!」
「…………」

言葉が出てこないとはこのことを言うのだろう。相手の話し方も声の大きさも全て俺そのものだ。とてもそっくりさんでは済まされないほどに酷似している。

こんなこと──現実では絶対にあり得ないことだ。

「誰だ君は!!」
「うん!?」

以前皐月の紛い者を生み出した鬼がいたことを思い出し、この者もその類かと警戒心を露わに声を荒げるが、相手は俺の反応を見て心外だとでもいうような顔で驚いていた。

「何だ!覚えていないのか!俺は皐月の式神だぞ!」

皐月の式神──?
そんなはずはない。彼はあの日、不思議な現象によって猗窩座の腕に腹を貫かれ、完全に消えて無くなった。もし仮に復活できたとしても──

「嘘を言うな!まるっきり別人ではないか!君は姿も声も驚くほど俺そのものだ!」
「うむ!それについてはこれから説明しようと思っていたところだ!なのでとりあえず落ち着いてくれないだろうか!」

皐月の式神だと名乗った男は俺と同じ顔で俺に落ち着くように促した。言動も含め何から何まで自分の同じであるので、違うと分かっていても妙な気分になる。

「君の記憶にある式神の姿は琴乃葉柚月という皐月の父親の姿だ!」
「皐月の父親……?」

その言葉に、あの日見た式神の紫暗の瞳を思い出した。皐月とよく似た、藤の花を思わせる瞳の色だった。

「うむ!俺もその前はもっと違う形をしていたのだが、柚月が亡くなる直前に皐月が術を使って俺の形を自分の父親の形に変えた!だからあの時まで俺の形は琴乃葉柚月の形だったというわけだ!」
「言っていることはなんとなくわかるが意味がわからない!術とは何の話だ!皐月はただの人間だぞ!」
「いいや!皐月は平安時代より続く由緒ある陰陽師の家系の子だ!それも琴乃葉家の初代当主である琴乃葉睦月の血を濃く継いで生まれた先祖返りだぞ!ただの人間で済まされるような人間ではない!」
「すまないが全く意味がわからない!」

皐月の家系が陰陽師などという話は初耳であるし、いくら説明されても俄かに信じがたい。式神という存在がいることからして御当主は何かしら関わりがあるとは思うが、皐月自身は無関係としか思えない。

「話せば長くなるので掻い摘んで言うと、あの日覚醒しかけた皐月が術を使って柚月の形を君の形に変えたというわけだ!」
「形だけが変わったのなら口調まで変える必要はないだろう!俺ですらこんがらがるぞ!」
「この姿も口調も全て皐月の記憶によって形成されている!君は皐月の記憶の中でやたら声の大きい男として存在していたようだな!」
「ああ!返す言葉もないな!」

段々とこの状況に慣れてきて、最早彼の言動に一々驚くこともなくなってきた。むしろ鏡に向かって話しかけているような気分だ。

「しかしわからない事が多過ぎる!君が本当にあの時の式神だと言うのなら何故今俺の元まで来た!君はあの時死んだのではなかったのか!」
「あれは形を失っただけで死んだわけではない!現に煉獄杏寿郎という君の形で俺は今存在できている!器があれば俺は何度でも蘇ることができるからな!」
「器? 器とは何だ!」
「今君が持っているものがその器だ!」

言われて、己が持っていたものに視線を向けた。手の内にあるのは、要が持ってきた御当主からの鬼除け。

この鬼除けが、その器というものなのか。

「当主はその鬼除けを君に託すそうだ!」
「御当主が……?」
「うむ!君と俺はその鬼除けを通じて命が繋がっている!当主は君に、君の命を返したというわけだ!」
「どういう意味だ?」

言われている意味が分からず眉間に皺を寄せながら尋ねると、式神は口角を緩やかに上げたまま手を伸ばし、俺の胸にその手の指先を一本突きつけた。

「君はあの日死んだ」
「!!」
「──筈だった」

式神は口元に笑みを浮かべながら続けた。

「君が死ぬ直前に皐月が身固めという術を使って君を守った!君が受けるはずの致命傷は無事に俺の体に移り、俺は形ごとその場で崩れ去った!その際に俺の形が新たに君の形に変わったというわけだ!」
「……!だからあの時俺の腹を貫いたはずの腕が傷ごと消えて無くなったのか!」
「そうだ!」

少しずつ話の流れが掴めてきた。
確かにあの日、俺は己の死を察するほどの致命傷を受けた。猗窩座の腕は間違いなく俺の腹を貫通していた。

しかしその瞬間に、猗窩座の腕が突如俺の腹の傷と共に消えてなくなった。
猗窩座も俺も最初は自分の身に何が起きたのかわからず驚愕していたが、先に気を取り戻した俺が攻撃に出たため二人とも腕のことも忘れてすぐに戦いを再開させた。

それも結局、最後は日の出の直前に逃げられてしまったが──

「では俺はあの時皐月が術を使ったことで助かったということなのか!?」
「うむ!思ったより早く理解できてもらえて何よりだ!」
「何故そんな……皐月は今までそんな術を使ったことなどなかったぞ!それに皐月はあの時意識を失っていたはずだ!それなのに何故急に使えた!」
「それについてはもう言ったはずだぞ!皐月は先祖返りの子だ!覚醒に近い状態だったということもあり、意識を失っていても咄嗟にでもあのような術が使えとしか言いようがない!」
「そんな馬鹿なことが──」
「とにかくまずは話を戻そう!!」

俺よりも大きな声で話を遮られた。耳が若干痛いくらいの大声だ。
記憶を失う前の皐月が聞けば間違いなく「うるさい!」と怒鳴られるだろう。実に皮肉な形で自分の声の大きさに気付かされた。

「君の命はその鬼除けに繋げられている!」
「俺の命が……?」

式神に指差され、手のひらにある鬼除けを見下ろした。
こんな小さな香り袋に俺の命が繋がっているとは思えないが──

「皐月が咄嗟に術を使って繋いだ命だ!父親に使った時は間に合わずに形だけ残ってしまったが、今度は間に合った!大事にしてやってくれ!」
「待ってくれ!君はこの鬼除けが俺の命だと言うのか!?」
「そうだ!なので失くさないようにくれぐれも気をつけてくれ!俺の命にも関わるからな!」
「冗談だろう!!」
「残念ながら冗談ではない!!」

突きつけあったお互いの必死な形相からして、この鬼除けがどれだけお互いにとって重要なものかがわかった。

式神自身も己の命を俺の手に握られているようなものだ。正直堪ったものじゃないだろう。本当ならば自分で管理しておきたいものを、御当主の意思によって俺の手に預けられてしまったのだから。

「……わかった。君の命も含めて預かった以上、俺も責任を持ってこの鬼除けを守り通すと誓おう」
「そうしてもらえると助かる!」
「しかしそうなると君はどうするんだ。ずっとそのままなのか?」
「ん? そのままというのはどう意味だ?」
「帰る場所はどこになるのかと気になってな」
「ああ、それなら心配無用だ!その鬼除けを通じて俺は自由に現れることができるからな!」
「…………」

──要するに、この鬼除けが彼の住処だということか?

「……よもやよもやだ……」
「よもやよもやだな!」


どうやら俺は、彼と命尽きるまで永遠と共に過ごさねばならないらしい。




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