藤色の焔 | ナノ


しのぶさんに待っててくださいと言われて待っていたら、突然部屋に知らない人が現れた。

──この人が煉獄さんだろうか。

僕は目の前に立つ体格のいい派手な男をじっと見上げた。彼も僕の顔をじっと真顔で見つめていたが、突然ニカリと歯を見せて笑うとバシンっと力強く僕の背中を叩いた。思わず「ぎゃっ!」と悲鳴を漏らすと、今度は愉快そうに笑って彼は僕の頭をぐしゃぐしゃと撫で始めた。

「なぁんだ思ったよりか元気そうじゃねーか!」
「なっ、くっ、ちょっ……やめっ……!」
「胡蝶が付き添ってやってくれっつーから何事かと思って来たが、なるほどなぁ!お前これから煉獄に会うんだろ?」
「ぐぇっ、やっ、めっ……っく、やめろッ!」
「おっと」

いつまでも頭をぐしゃぐしゃと撫でくりまわす大きな手を叩き払った。叩き払ったのは僕の方なのに僕の手の方がじくじくとして痛い。男の方は叩かれてもけろりとしていた。

「そう興奮すんな。ま、今からもっと興奮して派手に騒ぎ出しそうな奴が来るだろうがな」
「……誰なんですか?」
「は?」
「いや……ですから、あなた誰なんですか?」

男は一瞬何を言われたのかわからないようなキョトンとした顔をして見せたが、何がおかしいのか急にまたニタリと笑い出した。

「お前よぉ、そんな冷たいこと言うなよ。俺だよ俺。もう忘れちまったのか?」
「知りませんけど……」
「いや、冗談だろ?」
「いや、知りませんけど」
「…………」
「あ、ちなみに記憶喪失だそうです。しのぶさんがそう言ってました」

またあのキョトンとした顔になった。表情がコロコロと変わって面白い。しのぶさんはいつもニコニコ笑顔だから、この顔を見ているだけでいい退屈しのぎになる。

「はあ゙ぁ!?」
「っ!」
「お前マジか!? 何だそれ!記憶喪失!? 聞いてねーぞそんなこと!」
「いや……知りませんそんなの……」
「いやそれ俺の台詞だからな!? じゃあ何だ、あー……っそうだ煉獄!煉獄のことも忘れちまったのか!?」

鬼気迫る顔で問い詰めてきた彼に小さく頷いた。その瞬間彼の口から深いため息が漏れて、置いてあった椅子に後ろから倒れ込むようにして座った。派手な額当てに手を当て、まるで頭を抱えているようだった。

「あいつ任務の少し前にすげー幸せそうな様子見せてたからなぁ……アレ絶対結ばれてたんだろうなぁ……」
「……? あの、ちょっと話がよく見えてこないんですけど……えっと、あなたは煉獄さん……じゃないんですよね?」
「あー? 俺は鬼殺隊音柱の宇髄天元様だよ。ったく、ホントに忘れちまったのか……こんな派手な男のことをよォ。あんなに愛し合ってた仲じゃねぇか……」
「すみません。全っ然、覚えてないです」
「…………」
「あと普通に気持ち悪いです。ゾッとするような冗談やめてください。ほら、見てくださいこの鳥肌。たぶん記憶を失う前からあなたのこと嫌いだったんだと思いますよ」



◆◆◆



「ぎにゃあぁーーッ!!」

「!!」

皐月の部屋へと続く扉を開けようとした時、突如部屋の中からけたたましい皐月の悲鳴が響いてきた。

「皐月ッ!!」

蹴破る勢いで扉を開けると、部屋の奥にある白いカーテンに囲まれたベッドの上で、何やら大きな二つの影の塊が激しく蠢いていた。

「テメェ俺より派手に調子に乗ってんじゃねーぞ!今すぐ謝罪しやがれ!」
「わあ゙ぁぁッ!やめぇえっ!」

あの声は──宇髄のものだ!

「宇髄!!皐月に何をしているッ!!」

皐月がいるであろうベッドまで駆けつけて勢いよくカーテンを引いた。勢い余って取り付けてあったカーテンはブチブチと音を立てながら剥がれ、俺の手に掴まれたままゆっくりと落ちていった。

そして目の前に現れたのは、宇髄に押し倒されて襟首を掴み上げられた皐月の姿──唖然とした顔で、目に若干の涙を浮かべて俺を見上げていた。

「……ッ!!」

腹の底から湧き上がってくる怒りの感情が喉元まででかかった。思わずそのまま叫び出しそうになり、すんでのところでなんとか堪えきった。

しかし、湧いた怒りが収まることは決してなかった。皐月の上にいつまでも乗り上げている宇髄にキツい視線を向けた。

「おい、なんだその目。派手な勘違いすんなよ。こいつが悪いんだからな」
「事情は後でじっくりと聞くとしよう!取り敢えず皐月の上からいい加減退いてくれないか!」
「絶対勘違いしてんなお前……はいはい、退きゃあいいんだろ」

面倒くさそうな顔でのろのろと皐月の上から降りた宇髄は後頭部に腕を回して素知らぬ顔をして見せた。しばらくその顔を睨め上げるが、今は宇髄よりも皐月の方に用があることを思い出して彼の側に歩み寄った。

ベッドの上にあったその白く細い手を掴み取る。皐月の目に困惑の色が走った。

「皐月……」
「あ……えっと……」
「胡蝶から聞いた。……忘れてしまったんだろう」

皐月は気まずそうに俺から視線を逸らすと躊躇いがちに小さく頷いた。突き刺されるような悲しみに思わず眉根が寄るが、記憶を失って困惑しているのは皐月も同じだ。むしろ、俺以上に不安な気持ちに駆られているだろう。それを俺が怖がらせてはダメだ。

「……皐月、俺は煉獄杏寿郎だ」
「ぁ……聞いて、ます。あの、しのぶさんに……」
「そうか。……何も、覚えていないのか」
「……すみません」
「いや。……いや、お前が謝ることではない。気にするな。お前が思い出すまで気長に待てばいい」

──果たして待てるだろうか。
皐月が思い出すまでの間に、俺は耐えきれるのだろうか。

今でさえ、久しぶりに触れた皐月の手の感触に火のような激情が込み上げてくる。出来ることなら、今ここで人目も惜しまず皐月を抱きしめてやりたかった。

しかし、それが叶わないことを俺は知っている。知ってしまったのだ、残酷なことに。

だからこそ、宇髄のあの無遠慮な接触が許せなかった。内臓が震えるほどの激しい怒りを覚えた。不公平だと、幼稚な怒りと不満ばかりが募った。

「皐月。今はただ……お前が無事でいてくれたことが俺は何よりも嬉しい。だからそんな申し訳なさそうな顔をしないでくれ。お前には、俺は……お前に、笑っていて欲しい……」

震えそうになる声を抑えながら、なんとか伝えたいことを一気に伝えきった。
皐月は相変わらず眉をハの字にさせて困惑しているが、俺が精一杯の笑顔をして見せると皐月もつられたようにぎこちなく笑ってくれた。その笑顔に、暗く影を落としていた俺の心が少しだけ救われた気がした。

「あーぁ、ったく。……おい胡蝶、これ俺がいる必要あったのか?」
「はい。宇髄さんは万が一の存在ですから。居ないよりはマシなくらいの」
「結局要らねーんじゃねぇか」

外野が騒がしい。早くどこかへ行ってくれないだろうか。俺はもう皐月と二人きりになりたいのだが。

「……おい、こいつすげー派手に睨んできてんぞ。出て行けって目で訴えかけてきて──……おい、おいお前、何だその目。どこ見てんだ。怖えよ」
「まあ、ちゃんと約束を守って騒がなかったですし、少しの間だけ二人きりにしても大丈夫そうですね」

宇髄も胡蝶も察しがいい人間で助かった。
二人とも俺が何も言わずとも視線だけで気持ちを汲み取ってくれたようだ。宇髄は出て行く最後まで文句を言っていたが、これで皐月と二人きりでゆっくりと話ができる。


改めて皐月の方へ向き直り、置いてあった椅子の上に腰を下ろした。
ベッドの上でじっと俺のことを見つめている皐月から確かな不安を感じる。

無理もない。忘れてしまった以上、今の皐月にとって俺は他人同然だ。警戒心を持たれても仕方ないことだ。

しかし最後に見た時よりさらに痩せているように見えるのは何故だろうか。蝶屋敷にいるのだからある程度栄養のある食事が摂れていると思うのだが。

「随分痩せているが食事はちゃんととれているのか!」
「っ!」

率直に尋ねると皐月が怯えた顔で肩を跳ね上げさせた。どうやら俺の声の大きさにまだ慣れていないようだ。そういえば皐月と初めて出会った時もこのように怯えられていたな。懐かしいものだ。

「すまない!俺の声は元々大きくてな!驚かせるつもりはなかった!できるなら慣れてもらいたい!」
「……ほんとに、声が大きいんですね……」
「なんだ、知っていたのか?」
「あ、はい。しのぶさんが教えてくれました。煉獄さんは、すごく声が大きな人だって……」
「皐月」
「はっはい」

少し距離を詰めただけで皐月は怯えたように身を引いた。胸元を握るその白く頼りなげな手を掴み取ってやりたかった。

しかしこれ以上怯えさせて警戒心を持たれてしまえば話すことさえままならなくなる。あらゆる欲求を堪えて、俺は上げかけた手を下ろして拳を握った。

「できるのなら、名前で呼んで欲しい」
「……名前、ですか」
「ああ。煉獄さん、ではなく……杏寿郎と」
「…………」

皐月は迷っているようだった。目が泳いで困惑している。記憶にない相手の名を呼ぶことはそんなにも憚られるものだろうか。

「……ダメか?」
「あっ……えっと、慣れるまでは……杏寿郎さん、でもいいですか?」
「ああ!構わない!少しずつ慣れてくれればいいからな!」

そうだ。構わない。これは、小さな一歩だ。
焦らなくてもいい。二人で足並みを揃えてゆっくりと前に進めばいい。皐月はここに居るのだ。何も悩む必要はない。

──だと言うのに、何故だろうか。
何故こんなにも息苦しく思うのだろうか。

皐月のぎこちない笑顔を見るたびに、理由の見つからない荒れた寂しさがつめを立てて胸を引っ掻く。いくら言葉を重ねても言葉にならない焦燥が、頭の中でぎりぎりと軋みまわる。

『杏ちゃん』

意味もなく泣き叫びたくなった。
昔の皐月の姿を、声を、笑顔を思い出して、その場に崩れ落ちて頭を掻きむしりながら勝手に一人でもがき苦しんでいる。

皐月に己の弱い胸の内を気取られぬよう明るく努めて笑顔を見せるが、皐月は俺の顔を見ても困ったように曖昧な笑みを浮かべるだけで、以前のようなハッキリとした感情を表すことはなかった。

他人同然の反応を返されて胸が痛んだが、これしきのことで引き下がるほど俺は打たれ弱くはない。今は辛くとも皐月とならきっと乗り越えていけると俺は信じている。

「……皐月」
「はい?」

もう嘆き悲しむのはやめにしよう。

「生きていてくれて、ありがとう」

皐月が無事に生きているだけで、俺は充分幸せなのだから。



◆◆◆



初めて面会したあの日から、杏寿郎さんは毎日のように僕の元へ訪れるようになった。

記憶を失ってから初めて会った杏寿郎さんは、僕の予想以上に思いやりのある優しい人だった。

最初会った時は彼の声の大きさに驚いて、話していてもどこを見ているのか分からなくて少し怖い印象を受けたけど、毎日顔を合わせて話していればそんな些細なこともすぐに慣れてしまった。


「皐月!入るぞ!」

そして今日もまた杏寿郎さんはやってきた。しのぶさんに程々にしろと言われても全く言うことを聞かない彼は、いつものように僕の元まで走ってきて嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「おはようございます、杏寿郎さん」
「おはよう!外はいい天気だぞ!胡蝶からはまだ外出の許可が降りないのか!」
「これでもだいぶ動けるようになったんですけど……経過観察とかで、まだ僕は外には出られないみたいです」
「そうか……それは残念だ。もし皐月が外に出られるのなら俺が屋根の上にまで連れて行ってやりたかったのだが……」
「やめてください……普通に怖いですから」

僕と比べて杏寿郎さんの身体はもうすっかり良くなりかけている。左目は潰れているらしく、もう治ることはないと以前聞いた。それ以外にも彼の身体にはたくさんの傷跡が残っていて、治っていたとしても見ていて痛ましかった。

「杏寿郎さんはどこかへお出かけしないのですか?」
「うむ!特に予定はない!それに皐月を残して自分だけ外へ出掛けようとは思わない!出掛ける時はお前と一緒だ!」

こういう、彼の優しさに僕は少し惹かれている。 記憶を失う前の僕もきっと彼のことが好きだったんだろう。彼の中には人の気持ちを穏やかにしてくれる温かな光がある。僕はその光が好きだった。近付くとすごく心が和らいだ。

彼は僕だけじゃなく、誰からでも慕われる存在なのだろう。

「何か欲しいものがあれば遠慮なく言ってくれ!俺が取り揃えて持って来よう!」
「え? あははは、ありがとうございます。本当に優しいんですね、杏寿郎さんって」

感じたこと、思ったことをそのまま口に出して伝えただけなのに、何故か杏寿郎さんは笑顔のまま固まってしまった。何か変なことを言ってしまったのかと焦って彼の顔の前で手を振ると、ようやく彼はハッとなって取り繕ったように目を細めて笑った。

「すまない!皐月の笑顔を見るのが久しぶりだったものでな!しばし見惚れていた!」
「えっ……そんな、記憶を失う前の僕っていつも仏頂面だったんですか……?」
「いや、仏頂面などではないぞ!ただ俺と話している時はいつも怒らせてしまっていてな!なかなか笑顔を見ることが叶わなかったんだ!」
「そうなんですか……?」

こんなに優しくて人当たりのいい杏寿郎さんに怒るなんて、記憶を失う前の僕は一体何に対してそんなに怒っていたんだろう。

「だが皐月は根がどうしても優しくて寂しがり屋からな!怒っていてもふとした時に弱いところを見せてくれる!真っ向から突っ撥ねられたのは十年前の──……」

そこまで話して、杏寿郎さんは突如言葉を切った。口を噤ませ、顔を少し俯かせると何か思い悩むような複雑な表情をして見せた。

「……どうかしました?」
「いや……」
「……十年前に、僕と何かあったんですか?」
「…………」

尋ねると杏寿郎さんは苦虫を噛み潰したような顔になって、突然椅子から立ち上がった。

「杏寿郎さん?」
「すまない。今日は少し長居し過ぎたようだな」
「えっ」
「ゆっくり休んでくれ!」
「あっ……」

そう言うと彼は足早に部屋から出て行ってしまった。

いつもならそんな時間なんて気にしたりしないのに──どうして急にあんな逃げるように部屋から出て行ったのだろう。

──そうだ、十年前の話を切り出そうとした時、彼は顔色を変えて不自然に話を切り上げてしまった。まるで、話すことを躊躇うような、怯えているような様子だった。

もしかして、十年前の僕と何か嫌な思い出でもあるのかもしれない。何だろう。彼は何をあんなに怯えていたんだろう。

彼のことがもっと知りたい。僕の知らない彼のことが、もっと、もっと深く知りたい。記憶を失う前の僕のことを語る彼の顔は幸せそうだった。そんな彼の顔を思い出すと胸が苦しくなった。

せめて僕がもっと以前の僕のように振る舞えたなら──彼は、以前の僕に向けていたような笑顔を僕にも向けてくるだろうか。

「……何考えてんだろう」

不意に虚しくなった。
そんなことをしても、それは以前の僕の真似事にしか過ぎなくて杏寿郎さんが求めている本当の僕ではない。

僕はどうしたらいいんだろう。彼に何をしてあげられるだろう。せめて、彼のあの切なそうな笑顔を幸せな笑顔に塗り替えてあげたい。

以前の僕が怒ってばかりで全く笑わないと言うのなら──今度は、たくさん笑って杏寿郎さんを幸せにしてあげよう。




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