藤色の焔 | ナノ


式神は、倒れ伏した皐月の隣にしゃがみ込んでいた。欠けた片腕の傷穴から黒い体液がじくじくと流れ出ている。

一度今の状態を確認するためにうつぶせに倒れている皐月の体を起こす。
こめかみから流血はしていたが、頭部近くの傷の為多少出血は派手だったが、傷口自体はそんなに大きくもなく、命に別状はないように思える。されど重傷であることには違いない。

蒼白な顔色のまま意識の戻らない青年を見ていると、先ほど感じていた自分の中の確信がどこかに消えていくのを式神は感じた。

琴乃葉家の先祖──琴乃葉睦月の生写し。確かにこの男からその気配を感じていたというのに、今死にかけている体からは、死にかけた動物の気配しかしない。

力無い、死体のような体を抱き起こし、その首筋の匂いを嗅いでみた。汗の匂い。かすかな鬼の匂い。人間の匂い。埃臭い土の匂い。金臭くも芳醇な稀血の匂い。本質的な血の匂いだけは人間皆、同じなのだと思った。

「……睦月……」

彼に会いたいだけなのに。
あの綺麗な藤色が、自分だけを見ればいいのに。

生まれてからの永い間、好きなものも嫌いなものも片手で事足りるつまらない時間の中で一番大好きだと思った。藤の花のような綺麗な紫暗の瞳をしていた彼だけあればいいのにと。

こんなことなら、自分が彼を全て食べてしまえばよかった。けれど食い尽くしたらもう会えない。ずっと遊んでいたかった。他の奴らより丈夫な体をしていたとして、きっといつかはいなくなるのだ。

嫌なものだな。
式神は、皐月の体を抱きしめたまま思った。

目の前では、煉獄杏寿郎といけすかないあの鬼が対峙している。
あの鬼は杏寿郎よりも強いだろうか。あいつは、琴乃葉家を知ってるのだろうか。あいつを生み出した鬼舞辻無惨は覚えているだろうか。まだ、睦月のことを大事に思っているのだろうか。
そんなのは腹立たしい。

裏切ったのは、鬼舞辻無惨だ。奴が睦月を喰い殺した。私の主──私の愛しい人間を。
許さない。絶対に許しはしない。もう二度と、睦月の子孫を死なせてなるものか。


「皐月……起きなさい」

お前だけはどうか、鬼の目も届かぬところで穏やかに生きてくれ。お前を守ってくれる存在と、一生を添い遂げてくれ。

「皐月、思い出しなさい。あの日の夜──お前の父にかけた術を思い出しなさい。今のお前にならできる」
「…………」

一向に目を覚さない。深いところにまで落ちてしまっている。記憶の海に溺れているのかもしれない。

──ならば、好都合だ。意識を取り戻す為に、強い結びつきを残す記憶に呼びかければいい。

「皐月……早くしなければ、煉獄杏寿郎が死んでしまうぞ」
「!!」

瞼が開いた。ようやく目を覚ましたのか。
──否、意識だけ取り残して体が反応しているだけのようだ。これでは呪術がまともに使えないかもしれない。

そもそも先祖返りと言えどこの子は未熟過ぎる。以前の時のようにそう簡単にはいかないだろう。しかしあの男を助けるには今やるしかない。おそらく皐月にも私にも犠牲が伴うだろうが──致し方あるまい。

「皐月……お前のその忌まわしい記憶を力に、そしてこの形を器にして、煉獄杏寿郎の命を守るぞ」
「…………」
「思い出しなさい。お前の父が息絶えた時に行ったあの術を」

指が動き出した。地面に図形を描いている。やはり意識がなくとも体はあの日のことを覚えていたようだ。

間に合うだろうか──皐月の指の動きを目で追っていると、不意に死の匂いがした。顔を上げると、煉獄杏寿郎が鬼との死闘により腹を腕で貫かれていた。

──ああ、間に合わなかったか。

絶望するわけでもなく、ただ淡々と目の前の現実を受け止めていると──己の口から何かが溢れてきた。それと同時に、彼らの顔が驚愕に歪む。

ふと己の腹を手で撫でてみた。指に当たる筋肉質な硬い腕とぬるついた生暖かな感触に、つい笑みが浮かんだ。

──どうやら、間に合ったらしい。

貫かれた腹からどろどろの液体が流れ出していって、どんどんと崩れていく。己の体はもう崩壊しかかっていた。

いよいよこの形にもお別れをしなければならないようだ。当主が知れば嘆き悲しむだろうか。皐月が記憶を失っていたのがせめてもの救いだ。

──さぁ、迎え入れよう、新たな形を。

己の腹から突き出た腕をへし折り、ザマアミロと嗤った。

この勝負、人間の勝ちだ。



◆◆◆



嫌な夢を見ていた。どんな夢だったかは忘れてしまった。どろりとした底なし沼のような眠りから目が覚める。


薬品の匂いとお日様の匂いに包まれたこの部屋は僕以外誰もいない。早く祖父に会いたいのに、ここに来るのは蝶の髪飾りをした綺麗な女の人だけだ。

名前は胡蝶しのぶさんというらしい。しのぶさんは何故か僕のことを知っているが、僕はしのぶさんのことを全然知らない。しのぶさん曰く、僕は記憶喪失というものになっているらしい。

忘れっぽいところがあるのは昔からだけど、あんな綺麗な女の人を忘れてしまうなんて俄には信じられなかった。それでもって僕はしのぶさんだけでなく、他の人のことも鬼殺隊とかいう組織のことも丸々忘れてしまっているらしい。

でもそんなことって普通あり得るのだろうか。だって祖父のことは昔から知っているし、僕は今までずっと祖父と二人きりで過ごしてきたし、他の誰かがそれに介入するなんてことは今までになかった。それこそ、そんな記憶はないというものだ。

だけどそんな限定的な記憶喪失って本当にあるのだろうか。しのぶさんはいつも興味深そうに僕のことを診察するけど、あれは覚えているかだのこれは覚えているかだのと、ただ質問しているだけだ。

「皐月さん」

戸を叩く音の後に聞こえてきたのはしのぶさんの声。また今日もやって来た。

「こんにちは。具合はどうですか?」
「……大丈夫、です」

ニコリと微笑んだしのぶさんが手に何か書くものを持って僕の元まで近寄ってくる。予め置いてあった椅子の上に腰を下ろして、いつもの質問体制に移る。

「それでは今日も記憶の照らし合わせを行いますね」
「……はい」

そう言う彼女の顔はどこかウキウキとしている。絶対楽しんでいるような気がするのだが、そんなこと言ったってどうせ止める気はないんだろう思う。

「藤襲山のことはご存知ですか?」
「……知りません」
「では、最終選抜のことも?」
「そんなの、聞いたことないです」
「なるほど……。じゃあ皐月さんは、煉獄さんと出会ったことすら覚えていないのですね」
「……? 煉獄さんって、あの……前に話してた僕の幼馴染みとかいう人のことですか?」
「はい。あ、何か思い出しました?」
「いえ……」

時々、彼女は“煉獄さん”という人の名前を出してくる。その人はどうやら僕の幼馴染みらしい。まだ会ったことはないけど、聞くところによるとかなりの熱血漢らしい。つまり僕とは正反対の人だってことだ。

そんな人と昔から一緒だったなんて言われても全然しっくりこないけど、もし会ったときに僕が覚えていないと告げたら──その人は何て思うだろう。

「……うん。これでだいぶ絞られてきましたね。皐月さん、あなたは鬼殺隊に関わるもの全てを忘れてしまっているようです」
「……え?」

また、鬼殺隊とかいう訳の分からない言葉を使われた。そんな急に言われてもなんのことかわからないんだから、専門用語は勘弁してほしい。

「どうしてそれだけに限定して記憶が抜け落ちてしまっているのか分かりませんが……あなたが目を覚ましてからもう一ヶ月が経とうとしています」
「あ、そんなに経ってたんですか……」
「はい。なので煉獄さんがうるさいんですよ」
「え?」
「やれ『皐月に会わせろ』だの『皐月は無事なのか』だの、何回同じこと言わせるつもりなんですかね、あの人」
「は、はぁ……」

なんだかよく知らないがめちゃくちゃイライラしてる。最近この人の笑顔が純粋な笑顔に見えなくなってきた。感情が全く読めないのだ。ある種の恐怖さえ感じる。

「一ヶ月経っても記憶が戻る気配はありませんし、この際あなたと煉獄さんを一度面会させてみようかと考えているんです」
「えっ」
「いかがでしょう?」

ニコリと微笑んで小首を傾げるしのぶさんに狼狽えた。
いかがでしょう、とか言われても。僕は煉獄さんなんて知らないし、会っても話すことなんか何もない。むしろ、僕と会えば彼を傷つけてしまうかもしれない。全然知らない人だけど、それは少し気が引けた。

「……あの、大丈夫なんですか?」
「はい。私が見張っていますので」
「あ、いえ……その、煉獄さん、って人が……傷ついたりしないか、とか……」
「え? ああ、なるほど」

一瞬驚いた顔をしたしのぶさんだったけど、その顔もすぐに笑顔に戻った。

「優しいんですね、皐月さんって」
「えっ、あっ、いや……!」
「まあ、煉獄さんの事ですから、私の予想だとかなり荒れると思いますよ」
「え……」

──それって、全然大丈夫じゃないんじゃ……。

「そうですねぇ……私だけだと押さえきれない可能性もありますし、面会にはもう一人助っ人を呼ぶことにしましょうか」
「助っ人……?」
「はい。皐月さんも知っている人……あぁ、今は知らない人ですね」
「……?」

誰のことだろう──おそらく僕が忘れてしまっている人だろうから、鬼殺隊の人のことなんだと思うけど。

「では今から呼んできますね」
「えっもう?」
「今いるうちに終わらせておきたいので」

最後にニコリと笑ってしのぶさんは部屋から出て行ってしまった。

残された僕は大きな不安に胸を押し潰されそうになりながら、まだ見ぬ煉獄さんのことを想像した。

熱血漢、声がデカい、さつまいもが好き、優しい、良い人、目線がなかなか合わない、せっかち、めちゃくちゃ明るい、分け隔てない、ハキハキしている──

ダメだ全然想像できない。僕と合わなすぎて仲良くなれそうな気がしない。優しいと言うからちょっとやそっとのことで怒ったりはしないだろうけど、沸点がわからないから余計に怖い。

──出来るだけ彼を傷付けないように、僕も不自然にならないくらいに明るく振る舞おう。それでダメなら、僕と彼は所詮その程度の関係だったということだ。



◆◆◆



体の傷もだいぶ癒えてきた。
包帯もほとんど取れて、今では暇と体力を持て余すくらいに体がよく動く。

しかし胡蝶の目を盗んで部屋の中で鍛えていると、どこで知ったのか後々必ず叱られる。なので今は少し柔軟運動程度に体を動かしている。

「…………」

──皐月は無事だろうか。

目が覚めてから、頭にあるのはいつも皐月のことだ。今からでも皐月に会いたくて仕方がない。
胡蝶に尋ねても『今は会えません』だの『ちゃんと生きてます』だのと答えられるばかりで一向に会わせてもらえない。

一度部屋を抜け出して皐月を探しに行ったことがあったが、廊下で胡蝶の継子にうっかり見つかりそのまま部屋に押し込められた。

その際告げ口されたらしく、翌日からさらに監視の目が厳しくなった。これはもう許可が降りるまで待つしかないようだと諦め、脱走もせず大人しくして機会を待つ。

「煉獄さん」
「ん?」

部屋の戸を打つ音の後に胡蝶が入ってきた。次の食事の時間にしてはまだ随分早いようだが、何か用だろうか。

「どうかしたか!」
「はい。実は煉獄さんがよければ皐月さんとの面会を──」
「それは本当かッ!!」
「まだ全部言ってないですよ」

言わずともわかる。
胡蝶は毎日のように皐月と会っているのだ。彼の容態を一番よく知っている彼女が面会の話を切り出してきたということは、つまりそういうことだろう。

「面会は許可しますが、絶対に、皐月さんに詰め寄ったり大声を出したりして怖がらせないと約束してください」
「大丈夫だ!皐月はうるさいと怒鳴るだろうがそんなことで──」
「聞いてください、煉獄さん」
「なんだ!」

不意に、胡蝶の瞳に真剣味が宿った。最後まで話を聞け、と目で訴えかけている。俺は口を噤ませた。

「……この先、どんな現実が待ち受けようとも冷静に受け止めてください。そして、決して騒がないでください」
「……どういう意味だ」
「……皐月さんは──」

──続けて出た胡蝶の言葉に、今まで感じたことのない喪失感を覚えた。先の見えない途方もない闇だけが、目の前に広がっていた。

記憶の中にあった皐月の笑顔に、大きな亀裂が走った。




  



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