藤色の焔 | ナノ


頭を硬い包帯で幾重にも巻かれた杏寿郎は、病室のベッドの上で一人窓の外を眺めていた。

見える景色が以前と比べて狭まっている──杏寿郎は己の左目を手で覆った。すでに包帯で覆われていたそこは、上弦の鬼によって失明するまでに潰されてしまっていた。

己の不甲斐なさに苛立ちが募りつい外してしまいたくなるが、傷が治るまではこのままの状態だと胡蝶しのぶにキツく言われていたので、今は大人しく治療に専念している。

しかし杏寿郎は己の身体の状態よりも、今はここにいない幼馴染みの容態を心配していた。別室に運ばれて治療を受けているらしいその幼馴染み──琴乃葉皐月は、杏寿郎の記憶の中ではかなりの重傷を負っていた。



◆◆◆



あの日の夜──無限列車が脱線した場所に現れた上弦の鬼に、皐月は運悪く目をつけられた。なんとか皐月を守らねばならないと躍起になったことが裏目に出て、余計に狙われるようになってしまった。

その際、今まで鬼の攻撃を全て避けきっていたはずの皐月の式神が、急接近されて時に初めて攻撃をまともに食らった。

皐月は式神に庇われ直接的な攻撃を受けることはなかったが、猗窩座の攻撃による衝撃波は皐月にも大きな打撃を与えた。式神の片腕と皐月の身体が吹き飛び、煙に巻かれて地面に落ちた。

「皐月ッ!!」
「ん? この血の匂いは……」

すぐに皐月の元まで駆け寄ろうとしたが、猗窩座は俺の行動を見越していたかのように突如進行方向へ現れて行方を阻んだ。

「退け!!」
「鬼になる気になったか杏寿郎!」
「ッ俺は鬼にならない!!」
「そうか!ではあの稀血の人間をお前の前で喰い殺してやる!」
「!!」
「そうすれば少しは気が変わるだろう!」

皐月が、稀血の人間であることを知られてしまった。

おそらく先程の攻撃で出血した皐月の血の匂いで気付いたのだろう。だとすれば皐月は今出血するほどの傷を負っていることになる。そうであるのなら、一刻も早く皐月を助けなければならない。

「そこを退けッ!!」
「退かない!」
「ならば、斬る!!」

炎の呼吸──壱ノ型 不知火!

「いい動きだ杏寿郎!」

間合いを詰めながら相手を斬り伏せようとするが、猗窩座は一筋縄でいくような鬼ではなかった。当然のように避けられたが、その分皐月までの距離は詰めることができた。幾分か近くなって見えた皐月は気を失っているのか、瞼を閉じたまま地面に横たわっている。露出した肌には多くの擦り傷が見えた。

「よそ見をする暇はないぞ!」
「っ!!」

皐月へ向けていた視線をすぐに横へ逸らした。目前に迫っていた拳が視界に入り、反射的に刀を振り上げる。当たった拳は弾かれるように引いたが再び次の一撃が飛んでくる。その度に剣技を繰り出し攻撃の衝撃波を相殺させた。

なるべく押されないように──皐月がいる方へ衝撃波がいかないように、攻めつつも防ぎ、猗窩座から皐月との距離を離そうとした。

「式神!近くにいるのだろう!動けるのなら皐月を出来るだけ遠くへ連れて行ってくれ!」

戦いながらも、今は視界に映っていない式神に声を上げた。俺の記憶がたしかなら、彼は片腕は失ったがまだ死んではいないはずだ。

「煉獄杏寿郎!」
「!」

式神の声が聞こえた。やはりまだ生きていたようだ。視線だけ声が聞こえた方へ向けた。

「聞け!私はもうじき消える!」

予想だにしていなかった言葉に一瞬気を取られるも、目の前に迫る猗窩座の攻撃にすぐに気が付き刀で防いだ。

「消えるとは一体どういうことだ!!」
「列車の中にある鬼除けが人間から流れ出た血で汚れた!あの中には当主が入れた呪符がある!それに書かれた字が全て滲み消えれば私も消えて無くなる!」
「そんな話聞いていないぞ!」
「いいから聞け!今すぐその鬼除けを見つけて私の元まで持って来い!」
「この状況で何を──」
「皐月が覚醒する!器がなければ皐月は皐月でなくなるぞ!」
「!!」
「それでもいいのか!!」

何のことを言われているのかさっぱりわからなかったが──その声には鬼気迫るものが感じられた。この状況下で、更に今の俺にそのようなことを頼むということは、本当に皐月の身に危険が迫っているということだと理解できた。

「ッ……竈門少年!猪頭少年!」
「! はい!」
「何だ!」
「満身創痍の今の君達に頼むのは気が引けるが頼めるのは君達しかいない!列車の中のどこかに鬼除けがあると思う!それを見つけ出して来て欲しい!」
「はい!わかりました!」
「はぁ゙ー!? 何で俺様がッ──」
「いいから行くぞ伊之助!」
「だあぁクソッ!」

俺が夢に溺れている間に鬼との戦いで既に傷付いていたあの子達に頼むべきではないとは分かっているが──

「さっきから気を逸らしてばかりで攻撃を防ぎ切れていないぞ杏寿郎!」
「ぐッ……!」

今はこの上弦の鬼を相手にするのに手がいっぱいで俺は自由に動くことができない。

「弱者に構うな杏寿郎!!全力を出せ!俺に集中しろ!!」
「炎の呼吸!伍ノ型──炎虎!!」
「破壊殺・乱式!!」

無数の拳打の乱れ打ちに避け切ることはできないと判断し、咄嗟に炎の呼吸を使った。攻撃を攻撃で防ぎなんとか相殺できたものの、轟音とともに凄まじい衝撃波が辺り一帯に土煙を立てた。

「ッ……!」

しかし煙が消える頃には猗窩座の姿はそこから消えていた。どこに行ったのか──神経を集中させて辺りを見渡したが、そこで不意に行き着いた嫌な予想に視線が一気に真後ろへ回った。

「!!」

そこに、猗窩座はいた。皐月が倒れている場所に。嫌な笑みを浮かべながら、身動ぎもしない皐月の頭の上に足を乗せた。

「やめろッ!!」

腹の底から声を張り上げ飛び掛かった。せめて奴の動きを止められるのであれば頸を斬れずとも良いとさえ思った。

「俺の首はここだぞ!その目は節穴か!」
「っ!!」

胴体を狙った斬撃は片手で防がれ、左目に打撃を受けた。痛みよりも先に感じた激しい衝撃につい怯んでしまったが、無事な右目に皐月の青白い顔が一瞬だけ映り、身体に熱が走った。

もう一度刀を振る。奴の二の腕を斬った刀に血が付着し辺りに飛沫を上げた。その血が皐月の上に降り注ぐのでさえ不快に思えた。

「いい表情だ!今の一太刀に強い怒りを感じたぞ杏寿郎!その怒りは確かな力になる!お前は煽れば煽るほど力を増すようだ!」
「黙れ!今すぐその薄汚い足を外して皐月から離れろ!」
「そんなにこの人間が大事か!お前が鬼になると言うのなら命だけは助けてやってもいいが──」

言い終えぬうちに猗窩座の腿に目掛けて刀を振った。しかし刀が当たる前に奴はまた姿を消した──ついさっきまで足元にいた筈の、皐月と一緒に。

「ッ……皐月!」

下に向けていた顔を上げると、離れた先に猗窩座の姿が見えた。その腕には、ぐったりとして動かない皐月を抱えている。

我慢のならない憤怒と憎悪が目の前を覆い尽くした。拳が怒りに震え、正常な判断が出来なくなる。

「皐月を、離せ」

呼吸が乱れて、止めていた出血も思い出したかのように流れ出始めた。刀を構えるも、あまりの怒りに一歩も動けずにいる。

「その前に鬼なると誓え、杏寿郎」
「黙れ。俺は鬼にはならない。そしてお前の身勝手な気持ちとその人間は無関係だ。俺とお前との戦いに無関係な人間を巻き込むな」
「そうだな。こいつがもし本当に無関係なただの人間であるなら、俺もここまで執着しないだろうな」
「!!」

不意に猗窩座の目線が皐月に向いた。持ち上がる腕と一緒に皐月の項垂れた顔が奴の手によって掬い上げられ、額から流れ出ている血を赤い舌が舐めとった。

「この稀血……かなり甘い味がするぞ、杏寿郎」
「ッ!!」

憤怒と憎悪──今まで己を支配していた感情に、その瞬間新たな感情が加わった。

心の地底にあった嫉妬が噴火し、何もかもを飲み込んで焼き尽くすどろどろとした熱い液体が一気に溢れ出た。

「皐月に触れるなァッ!!」

怒りに頭が沸き立ちそうになって声が裏返った。己の血で視界が滲んではいたが、刀を振る相手はしっかりと見えていた。

「炎の呼吸!壱ノ型──不知火!!」

一撃に力を集中させ、皐月を抱く猗窩座の腕を即座に確実に斬り落とした。倒れかかった皐月の身体を片腕に抱き留め、相手の懐から首に向けて刀を一気に振り上げる。

しかし、あと僅かな距離でこれも避けられた。後方へ回転跳びした猗窩座はまだ余裕のある笑みを浮かべていた。その視線は真っ直ぐに俺へ向けられている。その愉しげな表情に、奴の気を皐月から逸らすには俺が全力で相手するほかないと判断した。

「……皐月、すまない。もう少しだけ耐えていてくれ」

未だ気を失っている皐月をそっと地面に下ろした。両手が重く、さらに血糊でベッタリと濡れている。腕がそろそろ痺れてきて、上がらなくなってきた。

「痛ましい姿だな、杏寿郎……。お前が鬼になると言えば、俺と同じように再生できると言うのに」
「何度も同じことを言わせるな。俺は、鬼にはならない」
「そうか。なら死ね」

潰れた左目から回り込むように、猗窩座が容赦なく飛び込んできた。死角を狙ってきたそいつの一撃をもつれた足で避けたが、その体勢の崩れたところを硬い脚に払われた。

「ぐぅ……ッ!」

鬼の血によって強化された脚はまるで木刀──否、本物の刀のような硬さがあった。

「攻撃を受ければ受けるほどお前は弱くなる!鬼になると言え!杏寿郎!」
「ッ、ならない!」

防刃の役目を果たす隊服だが、わき腹に叩き込まれた物理的衝撃までは消せない。刃が通らないと言っても、鉄の棒で思いっきり殴られたようなものだ。痛みと倒れこむのを堪え、相手の足を払う。その頸に刃を突き立てようとしたところで、腹部を蹴り飛ばされた。

崩れた体勢をすぐに立て直し着地するも、蹴られた腹部から込み上がるものを感じ思わず吐き捨てる。口の中が一気に鉄臭くなり、全身に激痛が走った。

「煉獄さんッ!!」
「!!」

呼吸を整えている最中、大きな声が真後ろから聞こえた。汽車がある方だった。

「ありました!鬼除け!」
「俺が先に見つけた!!」

振り返ると、竈門少年と猪頭少年が倒れた汽車の上に立って手を振っていた。その竈門少年の手にあるのは、間違いなく鬼除けであった。

「ありがとう!恩に着るぞ少年!」

自分も大声で礼を言うが、声を張り上げると更に痛みが激しくなる。朦朧としつつある意識をなんとか保ちながら、式神がいる方へ顔を向けた。

「式神!鬼除けを見つけて来たぞ!後はどうすればいい!」
「私の力はもう、姿形と共に……消えかかっている……」

式神が言う通り、彼の体は薄く透けているように見えた。欠けた片腕も相まってその姿はとても弱々しく目に映った。

「皐月に……鬼除けを……早く……」
「っ竈門少年!その鬼除けを皐月の元へ持って行ってやってくれ!」
「わかりました!」

竈門少年が皐月の元へ行くまでの間──俺が猗窩座の足止めをしなければならない。しかし己の肉体はもう既に限界近くまで傷付き、積極的な攻撃もそう簡単には出せなくなっている。呼吸も乱れ、出血が止まらない。止められるのか、奴を──上弦の鬼を。

「杏寿郎、死ぬな」

哀れむような鬼の声が聞こえた。

「生身を削る思いで戦ったとしても全て無駄なんだよ、杏寿郎。お前が俺に喰らわせた素晴らしい斬撃も既に完治してしまった。……だがお前はどうだ」

心底嘆き悲しんでいるような表情で、鬼は語り続ける。

「潰れた左目、砕けた肋骨、傷ついた内臓……もう取り返しがつかない。鬼であれば瞬きする間に治る。そんなもの、鬼ならばかすり傷だ」

馬鹿にしているわけでもなく、奴はただ哀れんで同情していた。人間である俺を、鬼である自分と比べて。

「どう足掻いても人間では鬼に勝てない」

ああ、俺は──見誤っていた。
鬼を斬る。人を守る。それらを全て天秤にかけようとするから、迷いが生まれるのだ。

今、俺がすべきこと、俺にしか出来ないこと──俺自身の使命が何であるか、あの日のことを思えば、答えは明白であろう。

「俺は俺の責務を全うする!!ここにいる者は誰も死なせない!!」

お前は人が完璧でないと嘯くが、お前もまた完璧ではないことを忘れるな。

もうじき日が昇る。
しかし日の助けを待つほどの猶予はない。
今ここで多くの面積を根こそぎえぐり斬る。

炎の呼吸 奥義──

「素晴らしい闘気だ……!それ程の傷を負いながらその気迫、その精神力……一部の隙もない構え!」

この鬼を討ち滅ぼす。鬼殺隊の柱として──煉獄杏寿郎として。

「やはりお前は鬼になれ杏寿郎!!俺と一緒に戦い続けよう!!」


たとえこの命潰えようとも──皐月は、俺が守る。




  



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