藤色の焔 | ナノ


「皐月ッ!!」

杏寿郎の叫び声が聞こえた。その直後に全ての音声が途絶えた。

目の前が真っ白になって何も見えなくなる。体は燃えるように熱いのに、自分の身に何が起きているのかすらわからなかった。

次第に白く塗り潰されていた視界がすぅっと周りから暗くなっていく。何もかもが闇の色で覆われて、その内何も考えられなくなった。



◆◆◆



「皐月」

土砂降りの雨が降っている。
雨水を吸った着物が冷たくて重い。目の前で倒れている人の手も、それと同じくらい冷たくなっていた。

「皐月。よく聞きなさい」

嗚咽が止まらない。泣いていた。僕はその人を前に泣いていた。
近くにもう一人誰か倒れている。血だらけで、どこもかしこもぐちゃぐちゃになっていた。長い黒髪が、濡れた地面に広がっている。

「今夜のことは、すべて忘れなさい。お前は何も知らなくていい。怖くて嫌なものは全部忘れなさい」

いやだ、と口が勝手に動く。何度も何度も駄々をこねて、泣き続けている。
倒れている人が、僕の小さな手を握りしめて微笑んだ。

「皐月。大丈夫だ。心配しなくても、爺様がお前を守ってくれるよ。忘れることは身を守る術の一つだ。だからもう、忘れなさい。大事なお前に辛い思い出を残したまま、私も逝きたくはない」

雷の音が聞こえる。雨はずっと、何もかもを洗い流すように降り続いていていた。僕の涙も、倒れている人の血も、全部等しく流してしまう。

「お前は強い子だ。父や、私よりもずっと強い。お前の母様は、お前のことを最期まで愛していた。だから、自分を責めてはいけないよ。全て忘れて、穏やかに生きてくれ」

冷たくなった頬に赤い手が伸びた。濡れた感触が頬を撫でて、涙の跡を拭った。

「皐月。皐月、私の可愛い息子よ。こっちを向いておくれ。……ああ、可愛い子だ。お前は本当に、母様に、よく似て……」

ゆっくりと、少しずつ、僕を見つめていた紫暗の瞳が閉じていった。頬に当てられていた手が、ずるりと落ちた。

倒れている人は、そのまま何も話さなくなった。



◆◆◆



痛い。

目が覚めて最初に感じたのは、叫び出したくなるような全身を襲う激痛だった。

そして肌に感じる固い感触から自分が地面に倒れているのだと気付く。耳鳴りが聞こえてきて、視界が少しずつ明瞭になってきた。

……!!…………ッ!!

ぼんやりとした声が聞こえる。傾いた視界に誰かの脚が見えた。こっちに走ってきている。じっと見つめていると、頭から目に何かが垂れてきて思わず片目を閉じた。

……皐月……、皐月……ッ!!

頭の中に響き渡るような大声がすぐ側で聞こえる。さっきから頭が痛くて、その原因はこの大声のせいなのかとすら思った。

倒れていたままだった体を持ち上げられる感覚がした。全身に痛みが走って、お腹の奥底から気持ち悪いものが一気に喉元まで込み上げてくる。堪らず口から吐き出すと、ぼやけた視界に映る誰かが大口を開けてさらに叫んだのが見えた。

さっきからキンキンと耳鳴りがひどい。それ以上もう叫ばないでほしい。体の節々が痛くて堪らないのに、痛みに声すら上げられない。

その内寒気が襲ってきて、急激に眠くなってきた。そっと瞼を閉じると、またあのうるさい声が聞こえた。

皐月……!皐月、頼む……!目を……ッ!

詰まっているような声だ。目を瞑っていても頭がぐらぐらする。起こされてからずっと気分が悪くてまた吐き出しそうだった。

一体誰が僕を起こしているんだ。今はもうゆっくりと寝かせていてほしいのに、しつこく大声で話しかけてきてうるさくて眠ることができない。

「皐月!!」

今度のは一際大きくはっきりと聞こえた。仕方なく重たい瞼をゆっくりと開けると、銅を磨いたような朝日を背後に誰かの顔が間近に見えた。

傷だらけの顔だった。片目の方は潰れているのか、ずっと閉じたままだ。赤黒くまだらに付着しているのは血だろうか。頭からも口からも血が流れていた。

「皐月!皐月、俺の声は聞こえるか!!言葉はわかるか!!」
「…………」
「傷が痛むのか!痛むのであれば無理に話さなくていい!今俺が蝶屋敷まで……いや、一番近い医者の元へ運んでやる!!だから耐えろ!耐えてくれ!死ぬんじゃない!」

さっきからこの人は何を言っているんだ。どうして僕の名前を知っているんだろう。わからないことだらけで頭が混乱する。何か、とても大事なことを忘れているような気がするけど、もう今は眠くて、全てがどうでもよく思えた。

「皐月!皐月死ぬなッ!目を閉じないでくれ!頼む!もう少しの間だけ辛抱してくれ!できるだけ早く連れて行くからどうか──……」

うるさい。うるさいうるさいうるさい。
僕は眠たいんだ。眠たくて目を閉じているのにこの人はどうして寝かせてくれないんだ。意地悪な人だ。嫌いだ。意地悪な人は大嫌いだ。早く、ここからいなくなればいいのに。

──僕の前から、消えてくれればいいのに。



◆◆◆



「……っ!」

あまりの呼吸のしづらさに目が覚めた。

──ここはどこだ。どうして僕はこんな所にいるんだ。何も思い出せない。体中が痛くて堪らない。腕に何かついている。何だこれは。気持ち悪い。嫌だ。外して。誰かこれ取って。嫌だ。怖い。

「っ、……ッ!」

なんとか手を伸ばして、僕は自分の腕についている管のような細長いものを引き抜いた。それを握ったまま起き上がろうとすると、管の先にあった変なものが倒れて派手な音を鳴り響かせた。

「ぁ……」

目が回る。視界に映るもの全てがぐにゃぐにゃに曲がって見える。手を伸ばして目の前にある白い布に掴みかかるも、力が足りなくて上半身が段差から落ちた。固い床の上に打ちつけた右肩に鈍い痛みが走って思わず呻き声が出た。

「何事ですか!」

痛みに体を丸めて悶えていると、足を向けている方から声が聞こえた。そのまま這いつくばっていると、こっちに向かって足が走ってくるのが見えた。その足が目の前にまで来たとき、頭上でジャッと音が鳴った。

「きゃあっ!ちょっ、何やってんですか!!」

悲鳴の後に怒鳴り声が聞こえた。女の人の声だ。顔を上げようとすると、痛む肩を掴まれて無理矢理体を起こされた。

「傷口が開いたらどうするんですかもう!じっとしていてください!」

痛みに抗議する前に、高さのある柔らかな布団の上に寝かされた。あっという間だった。

「あーっ!点滴がッ……!何してくれてるんですか!高いんですからねコレ!」
「…………」
「あー……貴重な薬なのに……」

──どうしよう。何か、悪いことをしてしまったみたいだ。

女の子は涙目で床の上に落ちたものを片付けている。僕がさっき引き倒したものだった。そんなに大事なものだったのかな。

「……、め……ぃ……」
「え? 何ですか?」
「……っ…め、な……さ……」
「……? よく聞こえませんけど、とりあえず目が覚めたのならそのまま安静にしていてくださいね。今しのぶ様呼んできますから」

謝ろうとしたのに伝わらなかった。声がうまく出てこないのだ。女の子は片付けた物を持ったまま部屋を出て行ってしまうし、これでは目が覚めた時と状況がほとんど変わらない。

もう一度起きようとすると今度は脇腹に鋭い痛みが走って思わず手で押さえた。ゴワゴワした感触に、包帯を巻かれているのだと気付く。恐る恐る着ていたものを捲ると、僕の身体のほとんどが包帯で巻かれていた。

「ぅぁ……」

気持ち悪い。何だこれ。僕の体はどうなってしまったんだ。

自分の体の状態に狼狽えていると、不意に部屋の壁を叩くような音が聞こえた。自分の体から音が聞こえた方へ顔を向けると、離れた先に綺麗な女の人が立っていた。

「失礼しますね」
「ぁ……」

おまけに声も綺麗だった。
見惚れていると女の人はニコニコ笑顔を浮かべながら僕の近くにまで寄って来た。

「さっき目が覚めたばかりのようですが、具合はどうですか?」
「ぁ、……だ、い……う、ぶ……」
「そうですか。でも無茶はいけませんよ? 上弦の鬼の攻撃を受けて打撲と創傷だけで済んだとは言え、あなたが重傷であるある事に変わりないんですから」
「……?」

何の話をしているんだろう。とりあえず僕が重傷なんだということは理解できたけど、この人は一体誰だろう。そしてここはどこなんだろう。

「煉獄さんもかなりの重傷なので今は別室で療養中です。当然彼も貴方も面会禁止なので、会いたいなんて言っても無駄ですからね」
「……だれ?」
「ん?」
「知ら、ない……」
「……!」

いきなり知らない人の名前を出されて更に混乱した。面会禁止だということは、祖父にも会えないということだろうか。それって監禁にならないのか。僕は早く帰って神社の掃除をしなくちゃならないのに。

「……皐月さん、まさかとは思いますけど……煉獄さんのこと、忘れちゃってます?」
「……? 知らない……あなた、も……その、人も……」
「……これは、ちょっと厄介ですね」

突然唸りだした女の人は僕の顔をしばらくじっと見つめた。この人はどうして僕の名前を知っているんだろう──不思議に思っていると、女の人はにこりと微笑んで小首を傾げた。

「皐月さん」
「え……」
「煉獄さんのことを思い出すまで、貴方は治っても彼と面会禁止です」

だから──そのレンゴクさんっていう人は一体誰なんだ。

ニコニコと笑い続ける女の人の顔を訝しげに見つめながら、僕はとりあえず頷いておいた。




  



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