藤色の焔 | ナノ


杏寿郎がいくらか斬り伏せたにも関わらず、辺り一帯の肉塊は未だに再生と増殖を繰り返している。このまま放っておくわけにはいかない。

「皐月!待て!」

走っていると背後から杏寿郎の声が聞こえた。もう追い付いて来ている。悔しいが足の速さではアイツには到底敵わない。

「おい式神!いるんだろ!」

この場にいない式神を呼ぶと、向かい風と共に突如目の前に彼は現れた。相変わらずの無表情で僕を見ている。

「ようやく帰る気になったのか」
「違う!お前は今から僕を“あらゆるもの”から守れ!」
「また戯けた命令を……」
「言うこと聞かないと肉塊に突っ込んでやるぞ!」
「式神を脅すとはいい度胸だな」

馬鹿言うな。度胸なんてあるわけないだろう。今だって死ぬかもしれない状況で怖くて仕方ないのに。本当の僕は虚勢を張っているだけの無力な存在だ。

「皐月!」
「……っ!」

すぐ後ろから杏寿郎の声が聞こえた。振り返ろうとすると突然謎の浮遊感に襲われた。思わず目を瞑る。

「なっ……」

杏寿郎の驚く声が遠のいて聞こえた。一体何が──目を開けて見て、その光景に驚愕する。

「えっ……!」

僕は、式神に抱えられていた。肉塊に襲われたわけでもないのに、僕は杏寿郎から随分と離れた位置にまで運ばれていた。

「何の真似だ!」
「命令に従って守っただけだ」
「俺は皐月の敵ではない!」
「“あらゆるもの”から守れと命令されている」
「!!」

これだけ離れていても杏寿郎が怒っているのがわかる。でもたしかに、杏寿郎に捕まりたくないから僕はあの時“そういう意味”も含めて式神に命令した。杏寿郎には悪いと思いつつも、訂正しようとは思わなかった。

「皐月!今すぐそのふざけた命令を撤回しろ!」
「っ、嫌だ!どうせ杏寿郎だって僕を追い返す気でいるんだろ!お前の方こそ僕に引き返せって言ったことを撤回しろ!」
「……そうか。わかった」

やけに聞き分けがいいな──すぐに断られると思っていただけに、あっさりと承諾した杏寿郎が珍しくて逆に不気味に思えた。視線を向けると、杏寿郎は刀を手に俯いていた。

「皐月」
「な、んだよ……」
「……生きて戻った暁には──」
「えっ」

次の瞬間にはもう、杏寿郎はその場から消えていた。

「お前に仕置きする」
「ッ……!」

瞬きの間──ほんの一瞬の出来事だった。
耳元で杏寿郎の低い声が聞こえたかと思えば、辺りにあった肉塊が全て細かく斬り刻まれていた。

「えっ……えっ」

僕は囁かれた耳を両手で押さえて、杏寿郎が走って行った方向を見た。だけどもう杏寿郎の姿はどこにも見えなくなっていて、後には斬り刻まれた肉塊しか残っていなかった。

──どうしよう。何かめちゃくちゃ怒ってる声だった。

僕は青ざめながら杏寿郎が消えた方向をじっと見つめた。ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない。仕置きって何だ。何する気なんだ。まさか殴られるのか僕は。あの杏寿郎に。

「……どうするんだ」
「……決まってるだろ」

僕を抱きながら尋ねてくる式神に、震える声で答えた。

「このまま僕を守り続けろ」



◆◆◆



肉塊は絶えず湧いている。僕を抱えた状態で式神はひたすらその肉塊を踏み潰していた。

別れてから杏寿郎とは一度もすれ違えていないけど大丈夫なのか──時折車両の向こう側から声のようなものは聞こえてくるけど。

「……なぁ、おい」
「何だ」

グチャッと肉塊を潰した式神に声をかけると、冷淡な目がこっちに向いた。

「お前、何でそんなに僕の言うこと聞いてくれるんだ? 当主じゃないと無理みたいなこと言ってたじゃないか」
「たしかにお前は次期当主であり、正式な契りも交わしていないので私がお前の命令を聞く義理はない」
「じゃあ……」
「だが私はもうお前に逆らえない。少しずつではあるが、お前は今確実に覚醒に近付いている」
「何だそれ……覚醒?」

何度も踏み潰すところを見てきたせいか目が慣れてしまい、もはや僕の意識は式神にしか集中していなかった。

「皐月、お前は先祖返りの人間だ」
「先祖返り……?」
「平安時代の琴乃葉家当主──琴乃葉睦月の血を濃く継いでお前は生まれてきた」
「は? 待って、意味わかんないだけど……」

突然訳の分からない話をされて完全に置いてけぼり状態だ。僕は話を整理させるために待ったをかけた。

「先祖返りとか……何それ。先祖のことなんか僕何も知らないよ」
「琴乃葉睦月は平安時代でも指折りの優秀な陰陽師だった。しかし彼は稀血が故に鬼の始祖に狙われ最期は喰われて死んだ。残された家系の者は皆、鬼狩りが現れるまでの間鬼と戦い続けて──」
「ちょっと!だから全然意味わかんないんだって!何なの陰陽師って!僕も爺様も神社で働くただの神職だよ!」
「しかしお前は紛れもなく睦月の血を色濃く受け継いでいる。だからこそ私はお前に従っている。おそらく当主もお前が特別な血を引く存在であることは知っているだろう」
「嘘だ!だって爺様はそんなこと一言も言ってない!」
「言えば狙われる。お前が先祖返りだと周りに知られれば、すぐに探し出され喰われて死ぬ。鬼の始祖であり、お前の先祖の仇である鬼舞辻無惨に殺される」
「……っ!」

冷静な顔をしてなんて恐ろしいこと言うんだろうこの男は。鬼舞辻無惨は、杏寿郎が過去に言っていた鬼の親玉のことじゃないか。そんな奴が本当に僕の先祖を喰い殺したと言うのか。それで僕も狙われて喰われると言うのか。

「今のお前は徐々に覚醒に近付いている状態だ。もし覚醒すればその血はより強い力を持つようになる。鬼舞辻に狙われるぞ」
「そんなの……僕にどうしろって言うんだよ!この血は生まれつきのものだし、今更どうすることもできないだろ!」
「忘れろ」
「えっ」

グチャッと足元の方で肉塊が派手に潰れる音か聴こえた。それでも視線は式神に向いたまま動かなかった。

「お前は忘れることで己の身を守ってきた。嫌なことや怖いことがあるとお前はすぐに忘れてその血を覚醒させないようにしてきた。だから忘れろ、皐月」
「そんなこと急に言われても無理に決まってるだろ!」

いきなりの無茶振りに僕は当然怒鳴り上げた。しかし式神は眉一つ動かすことなく相変わらず冷静な表情をしている。

「お前ならできる。お前にはそう(まじな)いが掛けられている」
「呪いって何だよ!知るかそんなの!」
「……そうか。お前は……あの時のことすら忘れてしまったのか」
「何言って──ッ」

話している途中、突然列車が大きく揺れた。その直後に辺り一帯に響き渡る大きな悲鳴──鬼の断末魔だとすぐにわかった。

やった!ついに鬼を倒したのか!

──そう喜んだのも束の間、悲鳴の後に列車がぐらりと大きく傾いた。開いたままの車両の扉から見えたのは、次々と横転していく車両の数々。そして僕達がいるこの車両も他の車両と同じように横転した。

「うわッ」
「掴まれ」

言われた通りに式神の首に腕を回してぎゅっと強くしがみついた。激しい揺れと慣れない浮遊感に襲われながら目を瞑ってじっと耐えていると、さっきまでのむせ返るような生暖かい空気が突如新鮮なものに変わった。

揺れも感じなくなり、そっと目を開けると目の前には派手にひっくり返った汽車が転がっていた。中にいた乗客達はみんな生きているのか心配だったけど、目に見えている人達はみんなちゃんと動いていたので少しほっとした。

「っ、そうだ杏寿郎は……!」

慌てて辺りを見渡して杏寿郎の姿を探したら、汽車の近くで倒れた炭治郎に何か話しかけているのが見えた。炭治郎は見るからに満身創痍だったけど、杏寿郎の後ろ姿は傷一つ負っていないように見えるくらいしっかりとしていた。

良かった、無事だった。

思わず笑みが浮かんで、ホッと胸を撫で下ろした。これでようやく、杏寿郎と一緒に帰ることができる。

すっかり安心しきって、僕は杏寿郎の背中に声を掛けようと大きく口を開いた。

「……!口を閉じろ」
「えっ」

式神に何か言われた瞬間、杏寿郎の近くから突如轟音が聞こえて大きな土煙が上がったのが見えた。

何事だと疑問に思ったのと同時に、まさか鬼が生きていたのかと想像し冷や汗が背中を伝った。

だけど杏寿郎は無事だ。炭治郎はもう動けないかもしれないけど、杏寿郎ならまだ戦える。あの絶叫からして鬼も瀕死だろうし、杏寿郎が鬼にトドメをさせば今度こそ──

「……!」

土煙の向こうから見えた姿が、一瞬で消えたことに僕はすぐに反応できなかった。
だから気が付いた時にはもう、杏寿郎は刀を振っていた。何を斬ったのかすらよく見えなかったが、二つに裂けた何かが血飛沫を上げたのが見えて僕は思わず息を飲んだ。

杏寿郎の攻撃に素早く後ろへと退いだそれは、土煙が晴れてきた頃にようやくその姿を現した。

「あれは……」
「上弦の鬼だ」

式神が言ったとの同時に、鬼が自分の腕を舐めるのが見えて背筋がゾッとした。
上弦の鬼は、杏寿郎が以前「異能の鬼の中でも一際強く厄介な存在」だと言っていた。杏寿郎が柱になる前に一度、下弦の鬼に手酷くやられて僕の屋敷に来たことをまだ鮮明に覚えている。

下弦の鬼ですら、あんなに強い杏寿郎に重傷を負わせたのに──上弦の鬼のなんて、杏寿郎一人で手に負える相手じゃない。

「なぜ手負いの者から狙うのか理解できない」
「話の邪魔になるかと思った。俺とお前の」
「君と俺が何の話をする? 初対面だが俺はすでに君のことが嫌いだ」

鬼はどうやら杏寿郎の方に用があるらしい。なんだか嫌な予感がした。ひどい胸騒ぎがして、このまま杏寿郎をあの鬼と会話させてはいけないような気がした。

「杏寿郎を……あいつから離さないとダメだ」
「おい動くな。目立つ真似をしてお前の存在を知られるのは──」
「そんなこと言ってる場合じゃない!ここにいる鬼狩りはもう杏寿郎以外まともに戦えないんだぞ!上弦はすごく強いって杏寿郎が前に言ってたんだ!早く助けないと杏寿郎が殺される!」
「気の毒だがお前の生死に関わることではない限り私は干渉できない」
「このッ……!」

何でそんなに冷たいことを言うんだ。お前は目の前で僕以外の人間が襲われていてもなんとも思わないのか。杏寿郎が、僕の大事な幼馴染みが、殺されてしまうかもしれないのに、お前は──!

「……!皐月、よせ。それ以上興奮するな」
「離せッ!お前なんかに頼ろうとした僕が馬鹿だった!」
「やめろ、落ち着け。鬼に気取られる」
「うるさいっ!いいからおろせ!」

「さっきから騒々しいぞ、そこのお前達」

冷ややかな声が聞こえた。鬼の声だ。
視線を向けると、杏寿郎と対峙していた上弦の鬼が僕達の方を見て顔を怒りに歪ませていた。

「皐月!今すぐ逃げろ!」
「杏寿郎、あんな弱者相手にす──」
「杏寿郎!戻って来いこの馬鹿!相手にするなそんな奴!」

刀を構えたままこっちに振り返って叫ぶ杏寿郎に僕も大きく叫び返してやった。式神からは絶えず「やめろ」とか「大声を出すな」とか言われるが全く気にしなかった。

「この鬼を放ってはおけない!それはお前もわかっているだろう!」
「うるさい!いいから炭治郎連れてこっちに戻って来い!」
「駄目だ!それでは狙われる相手が他に移るだけだ!状況は何も変わらない!」
「そんなの僕だって一緒だ!お前が狙われてるのに放っておけるわけないだろ!」
「だが皐月──」
「やめろ杏寿郎。それ以上弱者に構うな。虫唾が走る」
「……!!」

突如、風圧が襲ってきた。鬼が消えたのがわかって、僕の方へ襲い掛かってきたのだと気付いた。だけどその姿を目に捉えるよりも早く、式神は僕を抱いたまま後ろへと飛び退き鬼の攻撃が僕に届くことはなかった。
それに──

「この人間に手を出すな」
「……また、弱者を庇うのか……杏寿郎」

目の前で、杏寿郎が鬼の片腕を斬り飛ばしていた。だけど杏寿郎の斬撃により失ったはずの鬼の腕はすぐに再生して元の腕に戻ってしまった。鬼は再生した腕を下ろして杏寿郎と僕を一度見比べた。

「お前はあんな存在価値のない人間の何に惹かれているんだ。最初に庇った人間の時よりも斬りにかかる速さが増していたぞ。あいつはお前の何だ」
「お前が知る必要はない!」
「そうか。そうかわかったぞ杏寿郎。誰よりも大事なんだな、あの男が」
「……!」

杏寿郎が再び刀を振った。だけど鬼は後ろへと下がって攻撃をかわした。

「よし、殺そう!」

自分の胸に手を当てて、鬼はその発言には似つかわしくない笑顔を浮かべて見せた。

「あの弱者を殺せばお前は怒りに囚われ仇を討とうと奮闘するはずだ!だが敵わない!人間であるお前はどう足掻いても鬼の俺には絶対に敵わない!絶望し、己の不甲斐なさに悶え苦しむ!そうすれば少しは考えが変わるはずだ!」
「……何を言われているのか、さっぱり理解できないな」
「やはりお前は鬼になるべきだ杏寿郎!!」

鬼の大声が、離れた位置から一気にこちらの方にまで飛んできた。また飛び掛かりの攻撃がきた。さっきと同様に式神は僕を抱いたまま退き、杏寿郎も間に入って鬼の攻撃を刀で防いだ。

「あの人間に手を出すなと言っているッ!!」
「ははは!まるで他の人間はどうなっても構わないと言っているように聞こえるぞ!」
「勘違いも甚だしいな!単にお前が都合のいいように解釈しているだけだ!」
「いいや!それだけじゃないはずだ!お前はたしかにあの人間に他とは違う特別な感情を寄せている!俺にはわかる!」

杏寿郎と鬼との戦闘はとても僕の目では追えなくて、二人が今どう攻防しているのかまるで分からなかった。

それでも今の杏寿郎が不利であることは僕にも理解できた。いくら杏寿郎が斬り伏せても鬼の傷はすぐに再生してしまう。きっとこの間にも杏寿郎は鬼の首を斬ろうとしているだろうと思う。

「鬼になれば俺と永遠に戦うことができるぞ杏寿郎!永遠に敵討ちができる!俺があの人間を殺せば、きっとお前も鬼に──」
「ふざけたことを抜かすな!俺は鬼にはならない!そして皐月にも手出しさせない!!」

空気を割るような怒声が辺りに響いた。肉を断ち、血が飛沫を上げ、二人の激しい動きに土煙が舞う。このまま戦い続けて、限界が先に訪れるのは──間違いなく人間の杏寿郎の方だ。僕は式神の腕から逃れようと必死に暴れた。

「杏寿郎!もうやめろ!戻って来い!」
「皐月は下がっていろ!」
「嫌だ!」
「こんな時に我が儘を言うな皐月!!」
「やはりどうにもうるさくて敵わないな、あの人間は」

もういい、面倒だ。殺そう。

「あ……」

すぐ目の前で聞こえた声は、凍えそうなくらい冷たかった。




  



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