藤色の焔 | ナノ


異様な雰囲気に呑まれた車両の通路を一人の男が走る。視界に映るあちこちから膨れ上がるように肉塊が湧き出て来ていた。

「うーん!」

悪夢──その光景を表すにはまさにその一言に尽きるが、この現状が夢ではないことを男は嫌というほど理解していた。若干の苛立ちと困惑が混じる唸り声が男の口から漏れる。

通路に明かりはついているものの、列車を包む絶対的な闇の前にはあまりにも心許ない光だった。車両の窓の外からは月の光すら入らない。次第にその窓すら肉塊が呑み込んでしまった。すかさず男は湧いてくる肉塊に刀を振るう。

その絶え間なく与えられた細やかな攻撃に肉塊の増殖が止まった。一度辺りの状況を確認した男が眉間に小さな皺をつくった。

「うたた寝している間にこんな事態になっていようとは!!よもやよもやだ!」

男、煉獄杏寿郎にとってこの状況は大失態と呼べるものだった。

「柱として不甲斐なし!!穴があったら入りたい!!」

鬼の血鬼術により夢に囚われ続けた結果、気が付けばこんな目も当てられない有様になっていたのだから。

目が覚めた直後から、杏寿郎達がいた車両は鬼による浸食が進み始めていた。この汽車がすでに乗っ取られているのは一目瞭然。一刻も早く対処せねば死人が出てしまう。今この列車では的確な判断と行動が重要視される。

杏寿郎は禰豆子の血鬼術により目を覚ました伊之助に、この列車での最善の行動につながる指示を与えた。鬼の所在を突き止めた暁には炭治郎と共に鬼を討つために動くように。

そして杏寿郎は後輩たちの動きだけでは庇いきれない箇所を動く。広い範囲で素早く行動できる杏寿郎は、鬼を直接討ちに行くより今危機に晒されている人間を守ることを優先させた。

皐月は無事に抜け出せただろうか──杏寿郎は手を休めることなく肉塊に斬撃を与えながら、別れる直前に気絶させた皐月を思った。

とにかく侵食を食い止めることに意識が向いてしまい、ろくに見送ることもできなかった。式神と名乗った男が肉塊に覆われた車両の扉を蹴破り、皐月を抱えて出て行ったのを最後に見たくらいだ。

もし、車両の外で鬼に捕らわれてしまっていたら──

「む!いかん!」

考え事をしているうちに更に肉塊が増えていた。杏寿郎は刀を素早く振り払い、膨れ上がったそれらを細かく斬り刻んでいく。やはり攻撃を加えると僅かにだが動きが鈍くなる。しかしそれも、すでに湧いていた肉塊に限った話だ。新しく湧いたものは容赦なく人を襲おうとした。

「やはりただの鬼ではなさそうだ!気を抜くことは命取りだな!」

言い聞かせるようにして己を奮わせた。皐月が気掛かりなのは確かだが、そちらばかりに気を取られていては思うように動けない。

杏寿郎はこの時のみ、常に思い続けていた大切な幼馴染みのことを忘れるように努めた。



◆◆◆



無限列車の最後尾──最も鬼の侵食が遅い車両まで移動した式神は、気絶している皐月を腕に抱いた状態で最後の扉を蹴破って列車の外にまで出た。

外は夜の濃い闇に包まれ、心許ない月明かりだけが妖しく辺りを照らし出している。
降りるならここからしかない──式神が流れるレールの上を見下ろしたとき、冷たい夜風が皐月の頬を撫でた。

「ぅ……」

微かな呻き声を上げ、皐月は式神の腕の中で目を覚ました。皐月の長い睫毛が震えながら上がったことに気付いた式神は彼を抱く腕に力を込めた──直後、皐月の瞳が大きく見開かれ四肢が暴れ出した。

「離せ!!」
「じっとしていろ」

見越した上での行動だった。皐月は自分を腕に抱いた状態で運んでいる式神の顔を手のひらで引っ叩いた。しかし式神の頭は微動だにしない。表情すら変わらなかった。

「嫌だ!杏寿郎のところに戻せ!」
「いい加減にしろ。あの男は手加減したようだが私はそうはいかないぞ」

こんなにも早く目を覚ますのはきっと、あの男──煉獄杏寿郎が皐月を気絶させる際に手加減をしたからに違いない。

式神は未だに暴れ続ける皐月を睨め下ろして強い口調でそう言い放った。
しかし皐月はその脅しに大人しくなるどころか余計に抵抗するようになった。

「お前……また気絶させられたいのか……!」
「うるさい!お前なんか僕に手出し出来ないくせに!」
「……何故そう言い切れる」
「知るかそんなの!」

呆れた奴だ──これでは自覚があるのかないのか判断がつかん。

式神は一度、暴れる皐月を地に下ろしてやった。その途端列車の中へ戻ろうとする皐月の手首を式神は素早く掴み取った。腕を振ってなんとか振り解こうとする皐月に冷静な視線を向ける。

「離せこの馬鹿!」
「戻ったところでどうするつもりだ。喰われて死ぬぞ」
「構うもんか!杏寿郎を助けるんだ!」
「命知らずめ……。守られ続けてきたばかりのお前に何ができる」
「うるさいっ!!お前なんかッ……僕のこと何も知らないくせ!!知ったような口きくな!!」

大声で怒鳴り上げると、皐月はついに式神の手を振り解いた。手が離れたと同時に駆け出した皐月は列車の中へと戻り、増殖し続ける鬼の肉塊の中を突き進んだ。

「杏寿郎……ッ!」

──怖くないわけがない。死ぬのは嫌だし、本当は逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。だけど、杏寿郎を置いて一人だけ助かるだなんてそんなの考えられなかった。

「あっ」

次の車両に入ろうとした時、突如目の前に肉塊が現れた。通路を塞がれた皐月は肉壁を前に困惑しながら後退った。
武器も何も持たない自分がどうやってこの先を進めば良いのか。

「ッゔ!」

もたもたと考えているうちに、目の前にあった肉塊が突然皐月の方にまで飛んだ。顔面にへばりついた肉塊が呼吸口を塞ぎ、その一部が皐月の中へと入り込もうとしている。

「ん゙ーッ!!」

恐怖と焦燥感に取り乱した皐月は自分の顔半分を覆う肉塊を手で掴みながらなんとか外そうともがいた。しかしいくら爪を立てても引っ張っても、肉塊は増殖を繰り返し一向に剥がれる気配を見せない。
もがいているうちに皐月の身体半分はほぼ鬼の肉塊に覆われていた。

「んん゙ーッ!!」

ダメだ──死ぬ。

ついに顔面全てを肉塊に覆われ、皐月は息苦しさと暗闇の中で自分の死を感じ取った。

「皐月」

呼ぶ声が聞こえる──あの式神の声だ。

薄れゆく意識の中で聞こえてきた声に、皐月は不思議と懐かしさを感じた。そして何故か、その声を聞いて悲しい気持ちになった。

「ッ!!」

瞬間──皐月の身体を覆っていた肉塊が吹き飛んでいた。飛び散った肉塊は細かすぎて車両の壁に当たると形も残らず潰れて落ちた。

「グェッ……ゲホッ!ゴホッゴホッ!」

皐月はその場に崩れ落ちると必死に空気を貪り、口の中に僅かに残っていた肉塊を吐き捨てた。
その最中、背後に何かの気配を感じた。振り返ると、冷たい表情で自分を見下ろす式神がいた。

忠告されたのにこの有様だ。何を言いたいのか嫌でもわかる。皐月はバツが悪そうに式神から視線を逸らした。

「何故言うことを聞こうとしない。ろくな策もないくせに何故危険に挑もうとする。死にたいのか」
「……策ならある」
「見え透いた嘘をつくな。すぐに鬼に捕らわれるような軟弱者のお前に何ができる」
「お前は僕を生きたまま屋敷へ連れ帰らなくちゃならないんだろ」
「……!」

今まで視線を逸らしていた皐月が不意に式神の方を見た。意図を持った強い視線に思わず息を詰まらせる。

「その命令が絶対なら、お前は僕の盾にでも剣にでもなって嫌でも僕を助けなくちゃならない。なら僕はお前にさえ捕まらないようにすればいいだけで、鬼を恐れる必要なんかない」
「……私に捕まらない自信でもあるのか」
「言っただろ」

お前は僕に手出し出来ないって。

「!!」

式神は慄いた。
この皐月は、少し前まで駄々を捏ね続けていたあの皐月とは明らかに違う。

馬鹿な──まさかもう覚醒したのか?

「僕を死なせたくないなら全力で僕を守ってみせろ!」
「な……」

考えに囚われているうちに皐月はその場から駆け出していた。式神の方を振り返りながら走る彼のその必死な表情には、先程まで見せていた気迫も緊張感も何も感じられない。むしろ、してやったりと言い表すような余裕の笑みさえ見てとれた。

「……まったく」

今度の主はとことん手を焼かせるつもりらしい──式神は遠くなっていく皐月の背中を見つめながら小さなため息をついた。



◆◆◆



車両の中はどこもかしこも謎の肉塊に覆われていた。辺りには生臭い空気が立ち込め、呼吸するのだけで息苦しさを感じる。隣へと続く車両の扉が吹き飛んで外れていたのがせめてもの救いだ。まだ外の新鮮な空気が僅かに入り込んでくる。

「ぐっ……ゴホッ!……杏寿郎!」

むせ返りそうな生暖かい空気の中で杏寿郎の名を呼んだ。奥から騒がしい音が聞こえてくる。何かが近付いてきているのがわかる。

目を凝らすと、肉に埋もれた車両の繋ぎ部分が突如吹き飛んだ。凄まじい速さで飛び込んできたのは杏寿郎だった。

「杏寿郎!」
「皐月……!?」

刀を振ろうと構えていた杏寿郎が僕の姿を見て一瞬目を見開いた。だけど止まるかと思った杏寿郎は見開かせた目を鋭くさせると、すれ違い様に僕を肩に抱えてそのまま車両を駆け抜けた。

驚いている間に車両の中を占めていた肉塊が次々と細切れにされていくのを、僕は杏寿郎に抱えられながら流れる視界に捉えた。杏寿郎は一度も止まることなく、かつ僕を抱えた状態で多くの肉塊を斬り伏せていた。

「杏寿郎……っ!」
「皐月!式神はどうしたんだ!一緒に抜け出したのではなかったのか!」
「あいつは生きてる!でもここに残るのを決めたのは僕だ!たぶん今頃後ろの──」
「何故戻って来た!!」
「ッ!」

また、あの時のように強い口調で怒鳴られた。僕が杏寿郎を追ってこの列車にまで来た時のように。

「俺がどんな思いでお前を逃したと思っている!」
「そ……そんな怒んなくったっていいだろ!」
「今がどれだけ危険な状況か分かっていないのか!」
「分かってるよ!」
「なら何故戻って来た!俺はお前だけでなく他の乗客も守らねばならないのだぞ!」
「…………」

──足手まといだって言いたいのか。

そりゃそうだろうな。僕なんかが戻ったって何の役にも立たないんだから。

「……すまない」

突然口を噤ませた僕に杏寿郎がいち早く謝った。
お前はいつもそうだ。僕の機嫌ばかり窺って、少しでも僕が機嫌を損ねるとすぐに勘づいて謝ろうとする。そんなことばかりされたら、僕がまるで聞き分けの悪い子供みたいじゃないか。

「……お前のことが、心配だったんだよ」

杏寿郎の肩の上で、僕は消え入りそうな小さな声で戻って来た理由を話した。杏寿郎はそれに何も言わなかったけど、お腹の方できゅっと締め付けられる感覚がした。

一度立ち止まった杏寿郎は僕を肩に抱き直すと、片手に構えた刀を再び振るった。いつも両手で構えることが多い杏寿郎にとって、片腕を塞がれてしまう僕の存在は邪魔でしかないだろう。僕は杏寿郎の背中から羽織を引っ張った。

「どうした!」
「下ろして」
「無茶を言うな!」
「だって邪魔だろ」
「邪魔など一言も言ってないだろう!」
「言ったようなもんだろ!僕がいたら他の乗客を守りきれないじゃないか!」
「みくびってくれるな!俺は鬼殺隊炎柱の煉獄杏寿郎だぞ!!」
「違う!!」
「!」

大声で否定すると杏寿郎が動きを止めた。表情を見ることはできないが、たぶん、驚いているんだろうと思う。こいつは誰かに言われるまで気付かないから仕方ない。

「何が違うと言うんだ!どこも間違ってなどいないはずだが──」
「お前なんにも分かってない!」

杏寿郎が無理をしていることはすぐに分かった。昔からそうやって我慢するのが多かったからきっと癖になっていてるんだ。

怪我を負っても遠いところからわざわざ僕の屋敷まで来て他の藤の花の屋敷には行かなかったし、どんなに怪我が痛くても僕の前では平気そうな素振りを見せたし──そういうのもう全部分かってるんだから、今更強がって隠そうとしないで欲しい。

「鬼殺隊が何だ!柱だから死なないって言い切れるのか!思い上がりも大概にしろよ!」
「皐月……」
「僕の前で強がんな!お前はあくまでも人間なんだよ!僕の幼馴染みの煉獄杏寿郎なんだよ!!」

羽織を握り締めたまま大声で叫ぶと、杏寿郎は僕を肩の上からゆっくりと下ろしてくれた。その場に立ち尽くす僕の前に跪いた杏寿郎が、俯いている僕の顔を下から覗き込んだ。綺麗な瞳が僕をじっと見つめていた。

「皐月……俺のことを心配してくれたんだな」
「そう、だけど……」
「うむ!気持ちは有り難く受け取ろう!ならば皐月には正直に話すとする!実は今かなり切羽詰まった状況だ!」
「ほらそうじゃんか!僕が邪魔なんだろ!ハッキリそう言えよ!」
「お前が邪魔だとはこの口が裂けても言わないぞ!安心しろ!」
「何の心配してんだよ馬鹿!」
「しかしお前を守りながらこの汽車を駆け回るのは危険が多く伴う!皐月は今一度式神と共にこの汽車から脱出しろ!」
「聞けって!っていうかそれやったら僕がここまで戻った意味がないだろ!」
「意味ならあった!お前が俺のために危険を顧みずに戻って来てくれたことは俺の中で大きな意味を成した!それだけでもう充分だ!」

両手を握りしめて力強く語りかける杏寿郎に僕は言葉を詰まらせた。暗に別れを告げようとしているのを察したからだ。僕は握られた手を強く握り返した。

「お前は俺の生きる希望だ!お前が死んでしまえば俺の心も死んだと同然だ!だから生きてくれ皐月!俺のためにもどうか、ここは大人しく引き返して逃げてくれ!」
「……っ」

何でそんな笑顔でいられるんだよ。
僕はあの肉塊に襲われる前からこの列車の中が怖くて仕方なかったのに。お前だって死ぬことが怖くないわけじゃないだろ。どうして逃げようと思わないんだ。

死んだら全部、お終いじゃないか。

「……ッ馬鹿!もう勝手にしろ!」
「皐月!」

結局僕の思いは杏寿郎には届かなかったんだ。
それが悔しくて、虚しくて──僕は杏寿郎の手を自ら振り解くと、車両の奥へ向かって駆け出した。

杏寿郎が柱なんかになるから──鬼殺隊なんかに捉われているからいけないんだ。

鬼も鬼殺隊も大嫌いだ。大事な家族も友達もみんな奪ってしまう。みんな僕を守るためだと言って、僕を一人残して置いて行ってしまう。

──もう、守られるだけなのは嫌だ。

今度は僕が鬼と戦ってやる。
僕が杏寿郎を守ってやるんだ。

琴乃葉家次期当主の力を鬼に見せてやる。




  



×
- ナノ -