藤色の焔 | ナノ


空遠く、どこかで鳶の鳴き声がかすかに聴こえる。日差しに手を翳し天を仰いだが、鳥の影はどこにも見えない。ただかすかに、鳴き声だけが聴こえてくる。

──ここは、どこだ。

先程まで自分の屋敷の庭先で弟の千寿郎と共に稽古をしていた筈だが、いつの間にか違う屋敷の庭へと移動していた。気が付けば勝手に足が動いていたのだ。

──そうか。ここは、皐月の屋敷だ。

気付いた時、再び鳶の鳴き声が聴こえた。日差しに目を焼かれながらぼんやりと空を見てみたが、鳶は見つからない。見えない鳥を諦めると、目前にあった縁側から屋敷の中へと踏み込んだ。

開いたままの障子の向こうには、まるで来る者を拒むかのようにピッタリと閉じ切られた襖がある。その襖を目にしただけで胸が締め付けられたように苦しくなった。

またも勝手に足が動く。辛い思いをすることになると頭でわかっていても、己の足は止まらなかった。そして最終的に俺はその襖の前まで向かうとその場で正座していた。携えていた日輪刀を側に置いて、己の拳を両膝の上に載せる。

「皐月」

部屋の静寂を破ったのは己の声だった。この襖の向こう側にいる、幼馴染みの名前を呼んでいた。

──ああ、そうだ。俺は、皐月に謝らねばならない。

皐月が俺の為に作ってくれた鬼除けを他人に譲り渡してしまったことを。
皐月の想いを踏みにじり、傷つけてしまったことを。

「……俺が悪かった。皐月がそれほどまでに想いを込めて作ってくれたものだとは知らず……」
「うるさいなあっ!どっか行けよ!」

皮膚を刺すような怒りの声が襖の向こう側から飛んできた。皐月は怒っている。無理もなかった。

皐月にとってあの鬼除けは、初めて御当主に認めてもらえた鬼除けでもあり、幼馴染みである俺に信じて託した鬼除けでもあったのだ。
それを他でもない俺が、何の迷いもなくあっさりと手放してしまった。皐月が怒らない理由がなかった。

「だが聞いてくれ皐月!お前には悪いと思っているが、俺はあの鬼除けを渡したことを後悔していない!何故ならあの時、稀血の人間をあのまま帰すわけにはいかなかったからだ!鬼が稀血の人間を食らわば更に鬼は強くなる!もしそうなれば──」
「うるさいッ!」
「皐月……ッ」
「うるさいうるさいうるさい!名前を呼ぶな!イライラするんだよ!お前なんかッ……杏寿郎なんか大嫌いだッ!!」


俺は今、何を言った。
己の行動を正当化させるような発言で、傷付けてしまった皐月を納得させようとしたのか? 自分は悪いことはしていないとでも言うつもりか?

皐月がどんな思いで鬼除けを作ってくれたのか──俺は何も考えずに軽率な発言でまたも皐月を傷付けてしまった。

この閉じ切られた襖は皐月の心を表しているのか。俺と皐月との間にできた壁を表しているのか。もう二度とお前の笑顔を見ることができないのか。

「皐月……すまない、許してくれ……」

何が後悔していないだ。後悔なら死ぬほどしただろう。大事な幼馴染みを泣かせてしまったことに。心に消せない傷をつけてしまったことに。

最低な男だ。ここまでずっと俺を支えてきてくれた皐月になんという仕打ちをしてくれたんだ。御当主に合わせる顔がない。俺は二人の信頼を裏切ってしまった。

「頼む、皐月……せめて顔を見せてくれ……」
「何でお前なんかに顔を見せなくちゃいけないんだよ!お前の声を聞くだけでもムカつくのに……ッ!さっさと帰れ!」
「皐月──」
「うるさいッ!帰れ!!二度とこの屋敷に来るな!!」

憎悪というものは、皐月のような無垢で優しい人間の人格まで変えてしまうものなのか──全て、俺のせいだ。

「……皐月、また明日来る」
「二度と来るなって言っただろ!!」
「……すまなかった」

別れ際にもう一度だけ謝罪を述べて、俺は大人しく部屋から出て行った。庭先へ出て振り返るも、閉じ切られた襖が開くことはない。怒鳴り声さえも消えてしまった。

ただその場に、鳶の鳴き声だけが聴こえた。

もう一度空を見上げる。やはり鳶は見えない。まるで作り物のような青空だけが広がって見える。何か違和感を覚えた。

「……!」

空に向けていた顔を下ろすと、いつの間にか己の手に先程まではなかったはずの籠があった。籠の中には栗やさつま芋、そして艶の良い柿の実が入っている。

──この柿の実は、俺と皐月が昔月蝕山で植えた柿の木のものだ。そうだ、俺は今日この柿の実を皐月に渡そうと思って訪れたのだった。

「皐月!」

大きくなったら二人で食べようと誓っていた。これを見ればきっと皐月も喜んでくれるに違いない。

俺は浮かれた気持ちで皐月の屋敷へと上がり込んだ。大地の恵みが盛り込まれた籠を抱えて、あの閉じ切られた襖の前にまで走った。

「皐月!見てくれ!昔二人で植えた柿の種を覚えているか!? あの柿がついに──」
「うるさいッ!!」
「!!」

噛みつくような力強い怒声が返ってきた。一瞬だけだったが、己の目頭が熱くなった。

「っ、皐月……もう柿は嫌いになったのか? それなら、他にも──」
「そんなものいらない!!」
「皐月……」
「お前が持ってきたものなんかどうでもいいんだよ!!早く持って帰れ!!」

皐月、頼む、どうか聞いてくれ──二人で植えたあの柿の種が、立派に大きくなって、うまい実をつけて、今ここにあるんだ。俺たちは、あの柿の木と同じように成長した。

そしてもう何年も、俺はお前の顔を見ていない。お前に嫌われてしまってから俺も随分変わった。階級も上がり、弟子もできた。だが心には常にぽっかりと風穴が開いたままで、心に宿した炎もいつ消えてしまうかわからない。

頼む。せめてお前の顔を見せてほしい。もう声だけでは耐えられない。お前にまで否定されてしまえば、俺の炎は本当に掻き消えてしまう。

「……皐月、また明日来る」
「来るな!!今度来たら絶交だからな!!」
「……!」

──それは、つまり……まだ俺たちは絶交していないということか?

自分の中にあったとは思えない、浅ましい期待が足元から這い上がってくる。皐月に拒絶されたことには違いないのに、悲しみよりも喜びの方が己の胸の内を占めていた。

「皐月!今度は千寿郎も連れて来る!その時は三人で一緒に焼き芋を作ろう!」
「はあ!? お前通い過ぎてついに頭がおかしくなったのか!? 僕は焼き芋なんか絶対作らないからな!!」
「それなら心配無用だ!千寿郎も俺も焼き芋作りには自信がある!皐月の分も作ってやるから任せておけ!」
「いらないって言ってるだろ馬鹿!嫌がらせのつもりか!?」
「その時は庭先を借りるので御当主によろしく伝えておいて欲しい!」
「何で僕が……ッ自分で言えよ!お前が勝手に決めたことだろ!」
「ではまた明日に!」
「おいコラ!!勝手に話進めんなァ!!」

返ってきたのはどれもいつもと変わらぬ皐月の怒鳴り声だったが、今日だけは無理なく会話が続いた。それに皐月がいつもより長く言葉を返してくれた。それが何よりも嬉しかった。

俺は一刻も早く千寿郎に焼き芋作りの誘いをかけるべく、受け取りを拒否された籠を持ったまま部屋を飛び出した。視界に映る青空はいつの間か茜色に染まっていた。

そんなに時間が経っていたのか──不思議な心地でしばらく庭先で立ち尽くしていると、ふと何かが燃える匂いが風に乗って鼻腔を掠めた。

風上の方へ顔を振り向かせると、離れた位置に焚火が火の粉を爆かせ燃えていた。そしてその側には、此処にはいないはずの千寿郎がこちらに背を向けて一人で立っていた。

「千寿郎……?」
「あっ、兄上!」

俺はいつの間に自分の屋敷に戻ったのだろうか──千寿郎の姿を見た瞬間そんな考えが頭をよぎったが、ここが自分の屋敷ではないことにはすぐに気がついた。

──ここはやはり皐月の屋敷の中だ。だが何故千寿郎がここにいるのだ。

「そろそろいい頃合いだと思いますが、先に兄上から召し上がりますか?」
「……? 何か作っているのか?」
「え? 何って……焼き芋のことですよ?」
「焼き芋……?」
「兄上が提案してくださったではありませんか。俺と兄上と、皐月さんの三人で焼き芋を作ろうと……」

──そうか。そうだった。俺はあの後、すぐに屋敷へと戻って千寿郎に皐月の屋敷で焼き芋を作ろうと誘ったのだった。何故忘れていたのだろうか。

「すまん!うっかりしていた!焼き芋は先に千寿郎が食べるといい!」
「えっ!でも、俺は後でも……」
「ずっと火を見ていてくれたのだろう!任せきりですまなかった!兄のことは気にせず食べるといい!」
「では……皐月さんに召し上がっていただきましょう」

朗らかに笑った千寿郎が、勢いの衰えた焚火の中から新聞紙に包まれたさつま芋と思われるものを取り出した。それを紙の敷かれた縁側の上に置いて煤を払う。その慣れた手付きに、千寿郎は俺よりも焼き芋を作るのが上手いと確信した。

「兄上、出来立てですので火傷されないようにお願いしますね」
「うむ!任せろ!」

縁側まで向かって敷かれた紙ごと焼き芋を持ち上げると、手のひらにほんのりと焼き芋の熱が伝わる。自然と己の視線が閉じ切られた襖の方へと移った。

開かれた障子から入る夕明りが、薄暗闇に包まれた部屋に四角い境界域を作ったように伸びている。俺はその境界域へと踏み込んだ。

「皐月」
「…………」

襖の前に跪き、声をかける。皐月は返事をしなかった。

「千寿郎が焼き芋を作ってくれたのだが、皐月も食べないか?」
「…………」
「千寿郎は俺より焼き芋を作るのが上手いんだ!きっと皐月も気に入るだろう!」
「…………」
「皐月、焼き芋は出来立ての方がうまいと俺は思うのだが……」
「…………」
「……出て来ては、くれまいか?」
「…………」

──やはり、駄目なのだろうか。

どれだけ声をかけても、皐月は一切の返事をしてくれない。声すら聞かせてもらえなくなった。

心が少しずつ冷え込んでいくのがわかる。手のひらはこんなにも温かいのに、胸の奥は凍りついたかのように冷たい。何も感じなくなるほどに、冷たく凍てついている。

「兄上……」
「……千寿郎、兄の我が儘に付き合わせてしまってすまなかったな。焼き芋は二人で食べよう」
「ですが……」
「大丈夫だ。皐月もお腹が空けばきっと出て来てくれるだろう。お前が心配する必要はないぞ」
「……わかりました」

どこか寂しそうな笑みを浮かべた千寿郎がその小さな背を俺に向けた。普段家では寂しい思いをさせ苦労ばかりかけてきた弟の背中は、いつの間にか逞しく成長していた。

今日、兄である俺と皐月を交えた三人で焼き芋を作ると聞いて、千寿郎は花が咲いたような笑顔を見せて喜んでくれた。楽しい思い出として残るものと信じて疑わなかったのだろう。

俺は、弟の期待さえも裏切ってしまったのか。

「……千寿郎!」
「え? っうわ!」

俺はその小さくも逞しい背に飛びかかった。驚いた千寿郎が取り出したばかりの焼き芋を焚火の中へ落としたのが見えた。

「あ、兄上? どうされたのですか?」
「兄と今から焼き芋を食べよう!」
「えっ、でも俺のはまだ焼いていて──」
「一つを半分にすれば問題ない!」

落とされた焼き芋を手に取ると千寿郎が焦ったように「兄上!火傷してしまいます!」と叫ぶ。しかしこの程度の熱ならまだ我慢できる。俺は新聞紙に包まれた焼き芋を中から取り出した。

「兄上、なんという無茶を……」
「何のこれしきのこと!」

焼きたての焼き芋を割ると、フワッと湯気が昇る。中は温かみのある山吹色。やはり焼き立てが一番うまそうに見える。

「ほら、千寿郎!お前のは少し冷ましてからの方がいい!」
「あっ、はい!ありがとうございます!」

火傷させぬように持ち手を紙に包ませた方を弟に渡した。そして自分は冷める前にかぶりつく。

「ッ、うまい!!」

かぶりつくと自然の甘みが口の中に広がる。まさに大地の恵みがもたらした味だ。

「うまい!うまいぞ千寿郎!」
「それは良かったです」
「わっしょい!わっしょい!」
「ふふふ」

ホフホフと噛みしめて少し力をこめて飲み込む。いくつ食べても飽きない味だ。以前は皐月がよくさつま芋ご飯として作ってくれていたのだが──

「あ……兄上……」
「ん? どうした、千寿郎」

さっきまで俺の顔を横から見上げていた千寿郎が、何故か目を丸くして屋敷の方に顔を向けていた。何を見ているのかと俺も同様に顔を向けると、そこには──


「……皐月……?」
「…………」


僅かに開かれた襖の隙間から、皐月が静かにこちらを見ていた。

何かを思うよりもまず、身体が動いていた。

「皐月!」
「ッ!」

俺が駆け寄ると皐月は悪戯が露見した子供のように慌てて襖を閉めてしまった。しかし一度は向こう側から開かれたという事実に俺はすっかり舞い上がっていた。再び閉められてしまった襖の前にまで行くと、俺は張り付くようにして自分の手を襖に当てた。

「皐月!やっと顔を見せてくれたな!」
「うるさいっ!見間違いだろ!」
「いいや見間違いではない!たしかにこの目で見た!少しやつれているように見えたが食事はきちんと摂れているのか? 御当主から最近お前の食が細くなっていると聞いたぞ!」
「余計なお世話だ!」
「そうだ!焼き芋を食べるといい!ほら、まだ温かいぞ!」
「そんなのいらない!千寿郎くんと二人で食べればいいだろ!」
「お前に食べて欲しくて千寿郎が作ったものだ!頼む皐月!もう出て来てくれとは言わない!せめてなにか食事を摂ってくれ!」
「うるさい!あっち行け!」
「わかった!ではここに置いておく!」

何年と続いていたやり取りだ。拒まれることはもう慣れきっていた。

襖の前に紙に包まれた焼き芋を置いて、俺は部屋から出て行った。千寿郎と共にしばらく庭先で待っていると、数分経ったかと思われる頃に静かに襖が開いていった。

「あっ」と声を上げそうになった千寿郎の口を塞ぎ、物陰にそっと引き摺り込んだ。開かれた襖から、そろりそろりと人影が現れた。

何年ぶりに見た皐月の姿だった。

「皐月……!」

思わず声が出ていた。何かが胸につっかえて、それ以上の言葉が言えなくなる。飛び出して抱きしめてやりたい気持ちを堪えてじっと眺めていると、皐月は焼き芋の前に正座してじっとそれを見下ろした。途端、ぽろぽろと皐月の顔から雫が落ちる様が見えて──

気が付けば俺は物陰から飛び出していた。

「皐月!」
「ッ杏寿郎……!?」

俺の姿を目にした途端またも逃げ出そうとする皐月をなんとか寸前で手首を掴んで捕らえた。引き寄せようとすると皐月は癇癪を起こしたように暴れ大声で喚いた。それでも俺は絶対に皐月を離すまいと腕に力を込めてその華奢な身体を強く抱きしめた。

「やめろ!離せ!」
「皐月!聞いてくれ!俺は──」
「うるさい!お前なんか嫌いだ!顔も見たくない!」
「だが皐月……ッ」
「名前を呼ぶな!馴れ馴れしくてムカつくんだよ!」
「……っわかった!呼ばない!お前がそこまで嫌がるのならもうやめる!だからもう逃げないでくれ!」
「離せ!離せったら!この馬鹿!」
「俺は今後なんとお前を呼べばいい!お前が望む呼び方で呼ぶので教えてくれないか!」
「そんなの……ッ自分で考えろ!僕に訊くな!」
「では覡!覡にしよう!お前の役職名だろう!」

提案すると、皐月はようやく暴れるのをやめてくれた。単に暴れ疲れたからなのかもしれないが、大人しくなった皐月はもう逃げるような真似はしなくなった。

「……覡」
「……なんだよ」

喧嘩してから初めて皐月が聞き返してくれた。それだけで胸が高鳴った。

「焼き芋を食べないか? 千寿郎が焼いたもので俺が焼いたものではない。それならお前も食べられるだろう」
「…………」

皐月はしばらく黙り込んだ後、躊躇いがちに小さく頷いてくれた。その些細な反応に、俺の凍てついた心の奥に小さな火が灯った。その温もりはやがてじわじわと氷を溶かしていくように胸の中へと広がっていった。




  



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