藤色の焔 | ナノ


たしかに僕は体付きが細い。普通の男と比べれば背も低いし、ぱっと見では弱そうに見えるかもしれないし実際弱い。

だけど──どう見ても自分より年下の女の子に軽々と抱き上げられるのは、いくらなんでも酷過ぎるだろう。



「……ッ」

僕は羞恥と情けなさで自分の赤くなった顔を両手で覆い隠していた。女の子は相変わらずムームー言いながら僕の顔を心配そうに覗き込もうとしている。あまりにも酷い絵面だからか、式神もしばらくは何も話そうとしなかった。

「……おねがい……おろして……」
「ムー?」
「僕なら大丈夫だから……ね……? お願い、降ろして……」

震える声で懇願すると、女の子は理解してくれたのかゆっくりと僕を床の上に降ろしてくれた。

──これ以上ないほどの酷い屈辱を受けた気分だ。

僕は座り込んだ状態で床を何度も拳で殴りつけた。子供の頃にもっと栄養を摂っていれば今よりマシな体格に恵まれて、こんな惨めな思いをせずに済んだかもしれないのに。情けなさすぎて涙が出そうだった。

「……いつまでそうしている気だ」

今まで閉口していた式神がようやく口を開いた。その声には若干の呆れが入っているようにも聞こえた。

「うるさいっ!お前に今の僕の気持ちがわかるもんか!」
「お前のつまらん意地など手に取るようにわかる」
「なんだとっ!? あんなっ……あんな可愛い女の子に抱き上げられたんだぞ!男の僕が抱き上げるのならともかく!」
「あの娘は鬼だ。人間のお前など容易く持ち上げることができる」
「えっ!? 鬼!?」

式神から女の子の方へ顔を向けると、彼女は不思議そうな顔で首を傾げて僕を見ていた。どこからどう見ても可愛い人間の女の子じゃないか。

「嘘つくなお前!鬼はもっとこう……怖いだろ!なんか顔とか体とか全体的にぐちゃぐちゃになってるだろ!」
「そうだな。そうなるとあの娘は比較的人間に近い鬼と言えるだろう」
「だからぁ!鬼じゃないってば!見ろよ!すんごく可愛いだろ!お前の目は節穴か!?」
「目が節穴なのはお前だ。害がないと判断したから放置していたが……邪魔をするのであれば殺して──」
「殺すな!!人間だぞ!!」

何をする気か知らないが、突然手を伸ばしてきた式神に僕は女の子の前に立ち塞がって奴の手から庇った。僕が前に出たせいか、式神もそれ以上手を伸ばそうとはしなくなった。

「人間のお前が鬼を庇うのか」
「この子は鬼じゃない!」
「お前が今まで見てきた鬼は相当の異形だったのだろうな……。その娘の手をよく見てみろ」
「え?」

式神に言われて僕は後ろにいる女の子の方へ顔を向けた。そして彼女の色白な手の方へ視線を向けると──その細い指先には、鋭い爪があった。

「もうわかっただろう。鬼を庇う意味などない」
「っ、お洒落かもしれないだろ!」
「なに?」
「この子が鬼なら僕はもうとっくに喰われている筈だ!だからきっとこの爪も……お洒落か、なにか……事情があるんだよ!」
「お洒落だと? 愚かな……どこまで意地を張るつもりだ。当主に似て頑固な男だな」
「うるさい!僕は爺様と違う!」

式神からなんと言われようと僕は女の子の前から離れなかった。
もしかしたら本当に鬼かもしれない──あの爪を見て薄々そう思ったのは事実だし、背中を見せても大丈夫なのかと今でも思っている。

だけど、式神から無理やり連れて行かれそうになった僕を救ってくれたのは、間違いなくこの女の子なんだ。たしかに鬼かもしれないけど、この子はきっと他の鬼とは何か違う。何も知らないまま殺させるわけにはいかなかった。

「この子は人間だ!もし鬼だとしても……お前の言った夢を操る悪い鬼とは違うんだろ!だったらこの子に手を出すな!鬼だろうがなんだろうが関係ない!心が人間ならそれはもう人間なんだよ!」
「鬼を人と呼ぶか……そんな戯言を抜かした者は1000年もの時の間でもお前一人だぞ」

おそらく馬鹿にされたんだろうけど、何を馬鹿にされたのかよくわからなかったから言い返すまではしなかった。黙ったまま僕がしばらく睨み続けていると、式神は「まあいい」と言って今度は僕の方へ手を伸ばした。

「お前さえ回収できれば他はどうでもいいからな」
「おい!そんな言い方──」
「来い。早く屋敷へ帰るぞ」
「ッ、いやだ!まだ帰らない!杏寿郎を起こして一緒に帰るんだ!」
「この男はお前には起こせない」
「ッ何でだよ!お前さっき僕の頬っぺた引っ叩いて起こしただろ!同じようにやれば起きるかもしれないじゃないか!」
「引っ叩いて……? ……ああ、お前の頭を粉砕させたときのことを言ってるのか」
「粉砕!? 粉砕って何!? 引っ叩いたんじゃないの!? 何でそんな乱暴な起こし方するんだよ!死ぬだろ!普通に起こせよ!」
「それだけの衝撃を与えなければお前を夢から覚ますことはできなかった。そしてそれはその男も同じだ。だからお前には無理だと言っているんだ」
「冷静に説明するな腹立つから!」

式神の説明が正しければ、たしかに僕だけの力では杏寿郎を起こすことは出来ないだろう。周りをよく見れば他の乗客だけでなく善逸や伊之助も眠ってしまっているし、僕が全員を起こすのにはかなり無理がある。

──そういえば炭治郎はどこに行ったんだろう。目が覚めた時から姿が見えない。もしかしたら、さっき式神が言っていた鬼の気を引いている鬼狩りの少年とは炭治郎のことなのかもしれない。もしそうだとしたら、今炭治郎はたった一人で鬼と戦っていることになる。

そんなの、危険過ぎる。柱の杏寿郎ですら眠らせてしまった鬼なんて普通の鬼とは絶対に違うだろうし、このままだと炭治郎がやられてしまうかもしれない。

「ッ杏寿郎!起きろ!炭治郎が鬼と戦ってるんだ!」

僕はまだ目を覚さない杏寿郎の元まで駆け寄ると肩を掴んで激しく揺さぶった。だけどどれだけ声を掛けても激しく揺さぶっても、杏寿郎はピクリとも瞼を動かさなかった。

「杏寿郎!しっかりしろ!鬼だ!鬼が出たんだ!早く起きなきゃ炭治郎が──」
「皐月……」
「ひいっ!!」

一生懸命肩を揺らしていると、突然杏寿郎が僕の腰に腕を回して抱き締めてきた。一瞬目を覚ましたのかと思ったけどそうではなく──杏寿郎は目を瞑ったまま、僕の体をぎりぎりと力強く腕で締め付けていた。

「ッ、杏寿郎!!なに、してんだ、このッ……馬鹿!離せ!寝ぼけてんのか!」
「ぬぅ……」
「ぐえェッ!くっ……苦しい!死ぬ!死ぬってば!杏寿郎!!」

とんでもない腕力で僕の体を締め付ける杏寿郎の太い腕を手で叩くがちっとも緩まる気配がない。このままだと杏寿郎に体を真っ二つに折られて死んでしまう。
そうなる前に早く抜け出さなくては──

「っちょ、ちょっと!お前!助けッ……ぐえぇ!ぐるじぃ……っ!内臓がッ……で、でっ……」
「全く、世話のかかる奴だ……。待ってろ、今その男の拘束している腕を折ってやる」
「やめろ馬鹿!!杏寿郎に指一本でも触れてみろ!僕がぶっ殺してやるからな!」
「だが当主にお前を生かした状態で屋敷へ連れ戻せと──」
「僕を助けたいならまずは杏寿郎を起こせ!!話はそれからだ!!」
「当主でもないお前が何を偉そうなことを言っている」
「はあ!? さっきから当主当主って……おいッ!よく聞け!僕はなァ!琴乃葉家の!次期!!当主だぞ!!」

式神は不機嫌そうに呟いていたけど、僕が最後に怒鳴りつけると少し気圧されたように瞳を見開かせ口を噤ませた。


「いいか!これは次期当主である僕の命令だ!!杏寿郎を起こせ!!」


式神の扱い方なんか何も知らないのに──気がつけばそんな台詞が自分の口から出ていた。とにかくこの状況をなんとかしたい一心だった。

式神は見開かせていた紫暗の瞳をすっと細ませると、突然僕の後ろにまで歩み寄ってからその場に跪いた。

「御意」

たった一言そう答えた式神の態度は、さっきまで見せていた慇懃無礼な態度とはまるで違った。最初の時は僕がどれだけ頼んでも耳を貸そうとしなかったのに、キレて怒鳴り散らしたら急に言うことを聞くようになった。

あまりの突然な変貌に狼狽えていると、式神は音もなく立ち上がって杏寿郎の方へ手を伸ばした。そしてその手が額に触れた瞬間、ピクリとも動かなかった杏寿郎の瞼が微かに震えだした。

「杏寿郎!」
「う……皐月……?」

僕が呼びかけると、杏寿郎は閉ざしていた瞼をようやく開いてくれた。僕の顔を視界に入れた途端、杏寿郎の瞳はパッチリと見開かれ表情が微睡みから驚愕へと変わる。

「良かった……やっと起きてくれた……」

ホッとして杏寿郎の頬に手で触れると、呆然としていた杏寿郎が苦笑いを浮かべて僕の手に自分の手を重ねた。
まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかったので、急に恥ずかしくなった僕は慌ててその手を引いて杏寿郎の腕の中から離れた。

「起きたばかりで状況わかんないだろうけどっ……今この列車に鬼が──」
「うむ!わかっている!経緯はそこの男から聞いているからな!」
「え?」

杏寿郎の視線が僕の後ろに向いたので、僕もつられて後ろを向いた。そこには無表情で立ち尽くす式神がいた。僕と杏寿郎を黙ったまま見つめている。

「君には世話になったな!感謝する!皐月をどうかよろしく頼む!」
「杏寿郎……?」

杏寿郎が式神に話している内容が理解できなくて、少しずつ大きくなっていく不安を隠しながら僕は杏寿郎に顔を向けた。いつも通りの笑みを浮かべている杏寿郎はその場から立ち上がり、日輪刀に手をやりながら僕を見下ろした。

「皐月!屋敷へ帰ったら御当主と早く仲直りするのだぞ!」
「な……何言ってんだよ。まだそんな……先の話なんかして……」
「先の話ではない!お前はもう屋敷へ帰るんだ!」
「ッ嫌だ!」
「!!」

帰れと言われた瞬間、僕は杏寿郎の羽織にしがみついて顔を押し付けた。絶対に離すものかと羽織を握る手に力を込める。

「お前が一緒じゃなきゃ帰らない!お前がここに残るのなら僕もここに残る!」
「ここは危険だ!彼の話を聞いた限りではこの列車にいる鬼は十二鬼月の可能性が高い!そうだとすればより一層危険だ!大事なお前を巻き込むわけにはいかない!手を離せ!」
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!絶対離すもんか!生きて戻ったって杏寿郎がいなくちゃ意味がない!もう絶対にお前の側から離れないからな!!」
「皐月……!」

怒鳴られたって絶対に離すつもりはなかった。でも杏寿郎はきっと僕が納得するまで粘り強く説得を続ける気なんだろう。

──そう、僕は思っていた。

「……皐月、すまない」
「えっ……ゔッ」

杏寿郎に謝られた直後、首筋に鈍い痛みが走った。その途端、ぐらりと視界が眩んで、杏寿郎の羽織を掴む手から力が抜けていった。杏寿郎の悲しそうな顔が、少しずつ暗く、遠くなっていく。

──嫌だ。嫌だ、離れたくない。

意識を失う直前に、力を振り絞って伸ばした手が掴んだ羽織がずるりと落ちていく様を、僕は泣きながら見つめた。




  



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