藤色の焔 | ナノ


「もうっ!やめてよ杏寿郎!!」
「やはり皐月は脇が甘いな!」
「くすぐったいってば!」

灯りも消えた暗い部屋の中──もう就寝前なのに、僕と杏寿郎は敷いた布団の上でいつまでも子犬のように転げ回ってふざけ合っていた。もう夜も遅いから早く寝なくちゃいけないのに、杏寿郎は僕の布団の隣に敷いてある自分の布団へなかなか入ってくれなかった。

「暴れたら傷口が開いちゃうよ!」
「侮ってくれるな!それくらいの程度は弁えている!」
「だからって……もう!やめてってたら!」
「ん? 嫌だったか?」
「嫌とかじゃなくて、もう寝るの!」

うつ伏せになっている僕の上に載っていた杏寿郎を顎下から手で押し離して隣の布団の方へ転がした。少し残念そうに笑う杏寿郎から目線を逸らしながら僕は早々に自分の布団の中に潜り込んだ。

「ほら、もう寝よう!おやすみ!」
「ああ、おやすみ皐月」

隣からゴソゴソと音が聞こえたのを最後に、部屋の中から音が消えた。

あんな残念そうな顔をしなくても、明日になればまた一緒に遊ぶことができるのに。杏寿郎は朝だろうが夜だろうが、いつまでも時間いっぱいまで僕と遊ぼうとする。

僕も杏寿郎といっぱい遊びたいからそれは別にいいんだけど──今は杏寿郎は怪我を負っているし、流石にもう寝ないといけない時間から今回は我慢だ。

せめて夢の中だけでも杏寿郎と羽目を外して楽しく遊ぶことができたら──なんて、目を閉じて考えていた時だった。


「起きろ」


突然、上から声が聞こえた。

「ッ!!」

明らかに杏寿郎のものではない声に僕は布団から跳ね起きた。周囲を見渡して、視界に入った足を見て辿るように見上げる。

薄暗闇の中、僕を見下ろしながらその場に佇んでいたのは見知らぬ男だった。暗い部屋の中でも、男の紫暗の瞳がよく映えて見えた。

「……っ、だれ……」

知らない人だ。どこから入って来たんだろう。いつの間にこんな近くにまで来ていたんだろう。全然物音がしなかった。まさか今までずっとこの部屋に潜んでいたのかな。どうしよう。早く杏寿郎を起こさなくちゃ──

「きょうじゅ──っぅぐ!」

隣で眠っている杏寿郎に声を掛けようとした瞬間、上から手を伸ばされ口を塞がれた。抵抗する間もなく、僕はそのまま男に身体を持ち上げられ脇に抱えられた。上から見下ろした杏寿郎はまだ眠っているようだった。

「ん゙ーっ!ん゙ぅーッ!!」

必死に暴れて抵抗してみても男はまるでびくともしなかった。杏寿郎に向かって手を伸ばしながらなんとか声を出そうとするが、塞がれた口からはくぐもった叫び声しか漏れない。
気が付けば、暴れているうちに恐怖からか勝手に涙が溢れていた。

「ん゙ーッ!!」
「……ん……皐月?」

男がこの場から去ろうとしているのに気付いて僕が更に暴れると、ようやく杏寿郎が閉ざしていた瞼を開けて上半身を起こした。

「……!皐月!」
「んんッ……!」

杏寿郎はついさっきまで僕が寝ていた布団を一度見て僕がいないことに気付くとサッと顔色を変えた。その直後に僕を抱き上げている男の存在に気付き目付きを鋭くさせた。

「何者だ!皐月を離せ!」

傍に置いていた刀を手に取った杏寿郎がいつでも鞘から抜けるよう腰を落として身構えた。だけど杏寿郎の荒々しい声に男はちっとも反応しない。そして何も答えないまま男は僕を連れて部屋から出ようとした。

「待て!」

後を追う杏寿郎の足音が聞こえた。直後、身体が大きく揺れる。目一杯顔を後ろへ向けると、杏寿郎が男の腕を掴んで引き留めていた。

「誰だお前は!皐月をどこへ連れて行くつもりだ!」
「ん゙ッ!」
「……っ」

男が足を止めているうちに僕は口元を覆っていた男の指を噛んだ。少しだけ怯んだ様子を見せた男が手を緩めた瞬間、僕は身を捩って男の腕からなんとか逃れた。

「杏寿郎!」
「皐月!無事か!」

急いで男の元から離れて杏寿郎の後ろへ隠れるように回った。杏寿郎の肩越しに男の方を見ると、彼は初めて見た時と同じ無表情のまま僕たちに向かってゆっくりと手を差し伸ばしてきた。

「皐月を渡せ」
「断る!もう一度問うがお前は何者だ!」
「お前に答える意味も義理もない。そこを退くか、皐月を大人しくこちらに渡せ」
「どうやら話が通じないようだな!ならば致し方あるまい!」

杏寿郎はついに刀を鞘から抜き取った。鈍色に輝く日輪刀が、鬼でもない男の方へ向けられている。僕はそこで、何か──この状況に変な違和感を感じた。

「……杏寿郎、ダメだよ。鬼でもないのに斬ったらダメだ」
「お前を連れ去ろうとした不届き者だぞ!容赦できん!」
「でも……やっぱり刀はダメだよ。下手したら杏寿郎が人殺しになっちゃう。ねぇ、爺様を起こして警官を呼ぼうよ」
「いくら皐月の頼みでも聞き入れられぬ!俺はこの男を斬り伏せる!」
「杏寿郎……」

あんなに優しかった杏寿郎が、こんな短絡的に人を斬り殺そうと考えるなんて──なんだか、変だ。おかしい。ちっとも杏寿郎らしくない。

「皐月」
「えっ……」
「こちらへ来い。いつまで夢に縋るつもりだ。早く起きなければ間に合わなくなるぞ」

男は真っ直ぐに僕を見つめて言った。
夢に縋るって、間に合わなくなるって、一体何の話だろう。
僕はもうとっくに起きているのに──

「……何のこと、言ってるの……」
「皐月!耳を貸すな!相手は人の姿をしているがお前を騙して連れ去り後で喰らおうと企む鬼かもしれないんだぞ!」
「私は人でも鬼でもない。琴乃葉家当主に従う式神だ」
「式神……?」

式神って、確か──陰陽師とかいう人が操る神様のことだ。そういえばずっと前に一度だけ祖父から式神の話を聞いたことがあったような気がする。滅多に使うものじゃないって、確かそんな風なことを言っていた。

「当主にお前を生きた状態で屋敷へ連れ帰るよう命じられている」
「えっ!爺様が……?」

じゃあ、この男は祖父が呼びつけたのか?
でも、どうして──僕はもう、自分の屋敷に戻っているのに。

──あれ? 戻っているって、どういうことだろう。僕は最初からここに、いた筈じゃ……。

「戯言をぬかすな!皐月の屋敷はここだというのに何を訳の分からないことを言っている!」
「ここは鬼が見せている皐月の夢の一部であり琴乃葉家の屋敷ではない。そしてお前もまた、その夢の一部に過ぎない存在だ」
「黙れッ!お前の言う言葉は何一つ信用できない!」
「杏寿郎 !」

呼び止めたけどダメだった。杏寿郎はもう僕の声も聞こえていないような興奮した状態で男と対峙している。背中からでも杏寿郎の激しい怒りが伝わってくる。

「その無駄口を二度と叩けぬよう今ここで斬首してやる!」
「皐月、こちらへ来い」
「えっ」
「駄目だ皐月!前に出るな!俺の後ろに隠れていろ!」
「ぁっ……う、うん……」

こんなに声を荒げる杏寿郎は珍しい。怒りの感情だけでここまで顔付きが変わるとまるで別人のようだ。

今の杏寿郎はなんだか少し──怖い。

「皐月。本当にその男がお前のよく知る幼馴染みなのか」
「え……?」
「やめろ!」
「お前ももう薄々気が付いているだろう。あまり時間がない。早くこちらに──」
「やめろと言っている!」
「!!」

一瞬、何が起きたのかわからなかった。

さっきまで僕の目の前にいたはずの杏寿郎が、瞬きの間に姿を消していた。

「皐月を渡せ」
「断る」
「えっ……杏寿郎……?」

動揺している最中、気が付けば僕は杏寿郎に後ろから羽交い締めにされていた。ほんの一瞬の出来事だった。僕の首の前には、鬼を斬るための日輪刀が添えられてある。まるで、人質か何かにされたような体勢だ。

「皐月はお前の元へは行かない。……そうだろう、皐月」
「……っ」

冷たい刃が首に向いた。恐怖で引き攣っている僕の顔のすぐ横に自分の顔を近づけた杏寿郎が、撫でるような優しい声で囁いてくる。

「お前を手放すくらいなら俺はお前を殺す。他の誰にも渡すつもりはない」
「杏寿郎……冗談、だよね……」
「俺はあまり冗談が好きではない。だからあの男の元へ行くなどとつまらない冗談は言うんじゃないぞ、皐月」
「……ッ」

こんな状況になって僕はようやく気が付いた。
これは、現実ではないと。僕を今脅しているのは僕の知っている杏寿郎ではないと。

気付いた瞬間、背中が凍りついたように冷たくなって体が震えた。僕の後ろにぴったりと立つ杏寿郎の顔が怖くて見ることができない。僕は救いを求めるように式神と名乗った男の顔を真っ直ぐに見つめた。

「これって……夢、なんだよね……」
「夢を操る鬼が列車の上にいた。おそらくこの状況も把握しているだろう。こうなった以上、穏便にお前を取り戻すことは不可能に近い」
「っ……冷静に説明してないで早く助けて!」
「当主に聞いていた通りの自分勝手な男だな……」

呟くなり、式神はなんの予備動作もなく突然僕のすぐ目の前にまで移動していた。呆気に取られているうちに、式神の右手が淀みなく振り上げられるのが見えて──

「ッやめ──」

パンッ──と、何か破裂したような乾いた音と共に、僕の意識はそこで途絶えた。



◆◆◆



ハッと目が覚めて体が跳ね上がった。瞼を開いて最初に見えたのは、向かいの席に置かれていた炭治郎の木箱。記憶に新しいその木箱を見て、ここが列車の中だということをすぐに思い出せた。

だけど、最後に見た時は閉じていた筈の木箱は中途半端に開かれていて、炭治郎の姿もそこにはなかった。

「ムー?」
「っ……ぁ、え……?」

炭治郎がどこに行ったのか考える間もなく、自分のすぐ側から変な声が聞こえた。顔を向けようとして、自分が杏寿郎の肩にもたれかかっていたことに気付いた。少し首を動かすと、すぐ横で杏寿郎の寝顔が見えた。眉間に皺を寄せて悩ましげな表情をしている。

「杏寿郎……」
「ムー」
「あっ……」

じっと杏寿郎の寝顔を見つめていたら突然横からひょっこりと顔が現れた。

「え……お、女の子……?」
「ム〜」

さっきから変な声を出して僕を見つめていたのは、竹筒を咥えた女の子だった。すごく可愛い。大きくてつぶらな瞳に見つめれてつい狼狽えてしまった。
この子は一体誰なんだろう。どうして竹筒なんか咥えているんだろう。

「目が覚めたか」
「……!お前……」

女の子とじっと見つめ合っていると聞き覚えのある男の声が聞こえた。顔を向けると、いつの間にか向かいの席の前にあの式神が立っていた。
さっきまで居なかったのに、どうやって──

「立て。屋敷へ帰るぞ」
「なっ……!」

言うなり式神は僕の腕を掴むと強引に席から立たせた。僕はその手を振り払うために腕を振って抵抗した。

「離せよ!」
「離さない。今すぐ屋敷へ帰るんだ」
「嫌だ!杏寿郎が一緒じゃなきゃ帰らない!」
「その男の面倒まで見るつもりはない」
「じゃあ帰らない!」
「暴れるな」
「あっ」

腕を引っ張って外そうとしていると突然腰に手が回された。式神が屈んだかと思えば膝裏に手を回されて、そのまま持ち上げられるとあっという間に横抱きにされてしまった。

「……ッな、何すんだ!離せこのっ!馬鹿!降ろせェ!」

一瞬呆気に取られるも、こんな簡単に抱き上げられたことに羞恥を覚えて僕は目一杯式神の腕の中で暴れた。振り回した手が式神の顔に当たったけど、式神は全くブレない。

髪の毛が乱されても頬を叩かれても爪で引っ掻かれても、式神は何も感じていないような無表情で暴れている僕をじっと見下ろしている。

「嫌だッ!杏寿郎が一緒じゃなきゃ絶対帰らない!降ろせ!」
「口を閉じろ。舌を噛むぞ」
「ッ……噛んでやる!今すぐ降ろさなきゃ舌を噛んで死んでやる!」
「舌を噛んだ程度で人は死なない。お前が無駄に痛い思いをすだけだ」
「うるさいっ!馬鹿!嫌味ったらしく説明するな!」
「鬼がもう動き出した。時間がない。行くぞ」
「嫌だぁああッ!!」

悠然と歩き出した式神の髪の毛を掴んで思い切り引っ張った。それでも奴は呻き声一つ上げない。痛みを我慢している風にも見えなかった。まるで本当に何も感じていないような──作り物のような反応しか見せない。

「嫌だ!杏寿郎!杏寿郎起きろ!」

いくら声を掛けても杏寿郎は目を覚さなかった。苦しそうな顔で眠っている。杏寿郎も夢を見せられているのかもしれない。

「っ、ちょっと待って!杏寿郎を起こして!杏寿郎もきっと鬼に夢を見せられているんだ!ほらっ、苦しそうな顔してる!」
「言った筈だ。その男の面倒まで見るつもりはない」
「このッ……堅物野郎!」

罵倒してみてもダメだった。式神は相変わらず反応を見せない。

「石頭!頑固者!糞真面目!変態!」
「誰が変態だ」

ようやく反応を見せたのは意外な言葉だった。式神が足を止め、初めて眉間に皺を寄せて僕を見下ろした。

「僕の体に触った!」
「お前を持ち上げるためだ」
「いやらしく触っただろ!腰に手を回して尻まで揉んだ!」
「お前の尻なんか知らん。触ってもいないし揉んでもいない」
「いいや触った!絶対触った!手のひらで鷲掴んで揉みしだいた!このど変態!助平!お前の頭の中は破廉恥なことでいっぱいなんだ!」

僕はもう思いつく限りの言葉で奴を引き止めるために罵倒した。その間にも奴の腕から逃れるために暴れ続ける。式神は益々不機嫌そうに顔を歪ませて僕を睨むようになった。

「なんと不敬な……コレが本当に琴乃葉家を継ぐ陰陽師の神子なのか……」
「降ろせ馬鹿この!杏寿郎!杏寿郎!!」
「静かにしろ。騒げば鬼に気取られる。鬼狩りの少年が鬼の気を引いているうちにこの列車から出るぞ」
「嫌だぁ!!」

必死に抵抗しても結局ダメだった。式神が再び歩み始めたのに気づいて、だけどもう打つ手がない無力な自分に絶望した。

また杏寿郎と別れてしまう。せっかく仲直りできたのに、また一緒にいられると思ってたのに、杏寿郎を置いて自分だけ逃げて助かるなんて──

「ッ嫌だ!離して!お願いだからッ……僕は杏寿郎のそばに居たいんだ!!」
「!!」

叫んだ瞬間、抱き上げられていた自分の体に突然の浮遊感が襲った。何が起きたのかを理解する前に、さっきまで僕を抱き上げていた式神が離れた位置から僕の方を見つめているのが見えた。

そして、ようやく今自分がどこにいるのかに気付いた。

「えっ!?」
「ムー……!」

さっき出会ったばかりの竹筒の少女が、僕を抱き上げて式神を睨んでいた。




  



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