藤色の焔 | ナノ


「皐月!」

頭を包帯で覆った杏寿郎が顔を覗き込んできて、それで自分がしばし意識を飛ばしていたのだと気がついた。
辺りを見渡して、ここが見慣れた自分の屋敷の中であることを認識する。

──あれ? 僕、どうしてこんな所に……。

「ぼんやりしてどうした!眠たいのか?」

顔を上げると、幼い顔立ちの杏寿郎が僕を見つめながら笑っていた。自分の手を見下ろすと、最後に見た時よりも縮んでいるような気がした。

「手がどうかしたのか?」
「……わかん、ない」

どうして手を見下ろしたのかももうわからなくなっていた。

僕は今まで何をしていたんだろう。なんだか不思議な感覚だ。ここは僕と祖父が二人で暮らす屋敷で、すぐ側には僕の大好きな杏寿郎がいて、普段と変わりなく怪我の手当てをしている最中なのに。

いつもと、何も変わらないのに。

「眠いのならもう休んだ方がいい!」
「……ううん、大丈夫。包帯巻くから、こっちに来て」
「無理をするな!夜更けに訪ねてきたせいで起こしてしまったのだからな!」
「杏寿郎ならいいよ」

笑いかけると、杏寿郎は苦笑いしながらも大人しく僕の前に正座した。すぐ側に置いてあった箱の中から包帯を取り出すと、目の前にいる杏寿郎の腕を取った。既に簡単な処置は済ませていたから、過去に何度も巻いてきたその腕に手早く包帯を巻き付ける。

「……皐月」
「ん? なに?」
「鬼除けはどうだった?」
「…………」

何の話だろうと一瞬思ったけど、すぐに思い出した。そういえば僕は祖父に認めてもらえるような鬼除けを作っていたんだった。そしてその鬼除けを祖父に見せたのが、今日だったんだ。

「……今回のも、ダメだったよ。こんなの鬼除けにならないって、認めてもらえなかった」
「そうか……。だが気に病むことないぞ皐月!お前ならいつか必ず御当主に認めてもらえるような立派な鬼除けを作ることができる!」
「……そうかな」
「ああ!俺が保証しよう!」
「……ありがとう、杏寿郎」

保証なんて、そんな言葉だけでできるものでもないのに。でも、杏寿郎に言われると不思議と成し遂げられるような気がした。

「杏寿郎の方は? ……槇寿郎殿は、まだ不調そう?」
「うむ……以前と比べて少々言動が荒くなったが、まだ任務に臨むだけの余力はあるようだ!皐月が心配する必要はないぞ!」
「そっか……」

頑なな笑顔──きっと僕に心配をかけたくないんだろうな。

杏寿郎のお父上である煉獄槇寿郎殿の話は祖父から既に聞いていた。芯が強く、いつも心に情熱を持っていた炎柱に相応しいお方だったと。

けどそれも、奥様を亡くされてからすっかり変わってしまったらしい。僕は物心ついた頃には既に両親を失っていたので、親の存在感というものがいまいちよくわかっていないけれど──長く同じ時を共に過ごしてきた愛しい人を失ったときは、きっと僕の想像を遥かに超えた大きな喪失感に苛まれるのだろう。

そのやり場のない感情が同じ家族である杏寿郎や千寿郎くんにぶつけられているのだと思うと、僕は二人のことが心配で堪らなくなってしまう。だけど無力な僕にはどうしようもできない。こうしてただ、杏寿郎や千寿郎くんが無事でいてくれることを祈るだけだ。

──いつかまた杏寿郎の屋敷に遊びに行かせてもらいたかったけど、当分は叶いそうにないな。

「……あんまり無理はしないでね」
「ん? 無理はしていないぞ!俺は俺に出来ることを出来るだけやっているだけだ!」
「うん。だからそれ以上無茶なことしないでって釘を刺してるんだよ。杏寿郎はすぐに怪我を負ってウチに来るからね」
「ぬぅ……たしかに!このザマでは返す言葉もない!今後は皐月に心配されないようもっと強くならねばならないな!」
「またそんなこと言って……。もっと強くなってほしいって言ってるわけじゃないのに……」
「なんだ!違うのか!」
「怪我をしてほしくないだけ!」
「ぐっ!」

包帯を巻いた腕を叩いて「はい、おしまい」と言えば、杏寿郎は少し痛そうにしながら叩かれた腕を撫でさすった。
いくら明るく振る舞ったって本当は痛いんだってわかってるんだから、下手に隠そうとしないでほしい。

「皐月は俺が思う以上に力が強いな……!」
「……そんなことないよ。僕は杏寿郎と違って弱いから、一緒に戦ってあげられないのが歯痒くて仕方ないくらいだよ」
「何を言う!皐月は弱くなどない!お前はもっと自分に自信を持つべきだ!」
「ふふ……杏寿郎は優しいな」

優しくて、強くて、美しくて──暗い気持ちも明るく照らし出してくれるような眩しい存在。杏寿郎と話していると、暗くなりかけていた胸の中にあたたかな灯りがともったような気がした。

「……正直もう自信失くしてたんだけど、杏寿郎に言われてちょっとだけ気持ちを持ち直せたよ。……鬼除け、明日また頑張って作ってみる」
「うむ!いい心掛けだ!もし御当主に認めてもらえれば皐月が作った鬼除けが誰かを救うことになるだろうな!」
「そうかな……。僕なんかが作った鬼除けで誰かを救えるのかな」
「救えるとも!皐月ならできる!俺はお前を信じているぞ!」

そう言ってくれるのなら──今度作る鬼除けは杏寿郎を想ってお祈りを捧げよう。

僕は非力だから杏寿郎とは一緒に戦えないけど、僕が作った鬼除けで少しは杏寿郎の役に立てるかもしれない。その場に居合せられなくても、鬼除けを通して杏寿郎と一緒に戦うことができるかもしれない。

そう思うと、俄然やる気が出てきた。

「……そろそろ寝ようか。お布団敷くから待ってて」
「俺も手伝うぞ!」
「怪我人はじっとしてて」
「ぬぅ」
「ぷっ、あははっ!何だよその顔 !」

笑っているのに眉間に皺を寄せている奇妙な表情をした杏寿郎につい吹き出してしまった。杏寿郎のあんな変な顔初めて見た。

「俺も皐月の手伝いがしたい!」
「いいってば。こんなの別に手伝ってもらわなくても僕一人で──」
「よし、俺がやろう!」
「あっ、ちょっと杏寿郎!」

襖の中から布団を出そうとしていると後ろから近寄ってきた杏寿郎に布団を持ち上げられた。背の高い杏寿郎は僕の身体なんかすっぽりと覆い隠してしまって、布団と杏寿郎の間に挟まれた僕はしどろもどろになりながらも身を捩らせた。

「離してよ!歩きにくい……あっ」
「っ!」

このままだと絶対転ぶと思っていた矢先に足をもつれさせて前から転倒した。その時お腹に回された杏寿郎の手が僕の体を咄嗟に引き寄せてくれたけど、転倒は免れず──僕と杏寿郎は、崩れ落ちた布団の上に二人して重なって倒れ込んだ。

「ッたぁ……!」
「っすまん皐月!怪我はないか!」

上体を起こそうとすると、僕の上に倒れ込んでいた杏寿郎が先に身を起こして僕を見下ろしてきた。

「……ッもう!だからじっとしててって言ったのに!」
「すまなかった!しかし俺はただお前を手伝いたかっただけだ!」
「そんなこといいから退いてよ!重い!」

僕は怒っているのに杏寿郎はちっとも反省していないように笑っている。何がそんなに可笑しいのか僕には全くわからなかった。

だけど、今はなんとなく──その笑顔の理由が可笑しくてできたものじゃないとわかる。
杏寿郎はこの時、幸せだって顔をしていてたんだ。そして僕も、杏寿郎とこうして一緒に過ごせる時に幸せを感じていたんだ。

──ずっと、こうして一緒にいられればいいのに。

拗れる前のこの心地好い関係が、永遠に続けばいいのに。



◆◆◆



魘夢(えんむ)は、立っていた。一等車両の屋根の上で、凍るような風を前面に受けながら。

「俺はなんてついているんだろう」

夜空を見上げる水浅葱色の目には『下壱』と墨のような文字が滲み浮かんでいる。
それが表すのは、下弦の壱──十二鬼月の証。魘夢は恍惚とした表情でその証を刻む瞳を細ませた。

「まさか稀血の人間がいるなんて……。取り込めば俺は更に強くなることができる」

魘夢が言っている稀血の人間とは皐月のことだった。この列車に乗っている人間の中で稀血は皐月ただ一人である。鬼である彼が稀血の皐月を喰らえば確かにより強い力を得ることができるだろう。

ただし、それがそう簡単にいかないことは彼にもわかっていた。

「でも、鬼狩りのすぐ側にいるね……迂闊には近づけないなぁ」

残念そうにため息を吐いた後、「それに──」と続けた魘夢の視線が後ろにある車両へと向けられる。

「余計なものが一匹、紛れ込んでいるね」

車両の上を這ってくる人影が一つある。鬼狩りではないようだが、邪魔をするつもりであれば容赦はしない。
もしかしたらこの異常事態に気付いて逃げ出そうとしている乗客なのかもしれないが、それは有り得なかった。

何故なら、この列車に乗った人間を必要な人間以外全員眠らせたはずだからだ。誰一人、例外なく。列車の乗客達は皆、魘夢がかけた血鬼術による深い夢の中にいる。従えた人間を使って速やかに実行したのだ。

そしてその間にも魘夢は細心の注意を払っていた。特に鬼狩りに対しては常に警戒を怠らず監視し、意識もほとんどそちらへと向けていた。その甲斐あって鬼狩りは他の人間同様に深い眠りについたのだが──彼はそちらばかりに気を取られていたが故に、忍び寄る別の敵意に気付けなかった。

気付いた時には、魘夢は嫌な感覚に囚われていた。何か禍々しい者がこちらを覗いているような、あるいは身体全体が悪寒に包み込まれるような、そんな不気味な存在が感じられた。

その正体は、這いずる人影の方にあった。
まるで靄のような、見えていても掴めない不可解な気配。その気配はやがて、鬼狩りがいる車両の中へと姿を眩ませた。

──俺の姿を確認した途端に戻っていったな……。

敵意はあっても殺意はないらしい。襲って来なければ、ひとまず放っておいても害にはならないだろう。

しかし──

「……何だろうね。生き物じゃあなさそうだ」

魘夢は直感する。それが、鬼でも人でもない、自分にとって未知の存在だということを。

「念の為に探りを入れておくか」

警戒心の強い彼は己の手を挙げ、不可解な気配が消えた車両へと向かわせようとした──が、しかし、そこでふと思いとどまる。

「……やめておこう。せっかく眠らせた鬼狩りに気取られてしまえば本末転倒だ」

挙げていた手を下ろして、何事もないようにポケットの中に入れる。
懸念していた気配から意識を逸らすと、魘夢の頭の中に鬼狩りたちの幸せそうな夢の情景が流れ込んできた。

「ねんねんころりこんころり 息も忘れてこんころり」

楽しそうな笑みを浮かべ、魘夢は風を受けながら歌った。

「鬼が来ようとこんころり 腹の中でもこんころり」

全てが順調に進んでいる。邪魔な鬼狩りも、希少な稀血の人間も、この列車にいる者全てが己の手の内にあるようなもの。

「楽しそうだね。幸せな夢を見始めたな」

つらい現実から唯一逃れられる夢の世界──罠とも知らずにころりと呆気なく落ちていった哀れな鬼狩りたちを思い、魘夢は浮かべていた笑みをより一層深めた。

「深い眠りだ。もう目覚めることはできないよ」




  



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