藤色の焔 | ナノ


呆然として、もう何も言えなかった。
杏寿郎と目が合った瞬間、心臓が止まった心地で無意識に後ろへと退いでいた。

「ぁ……」

一歩退がったところで後ろにあった鉄柵が腰に当たって、そこでようやくここに逃げ場がないことに気づく。列車を抜ける風がやたら強く、はためくと杏寿郎の髪の毛が闇に踊った。

「皐月……本当に、お前なのか」
「……っ」

よく耳を澄まさなければ列車の轟音に掻き消されてしまうような声。呆然としていても杏寿郎の瞳は真っ直ぐに僕に向けられていた。

「っ杏寿郎、あの、ぼく──」
「何故ここに来たッ!!」
「!」

鼓膜が破れるほどの大声で怒鳴った杏寿郎に肩が跳ね上がった。
車両の扉から抜けた杏寿郎が足早に駆け寄ってくる。背後でゆっくりと閉まっていく扉が、車両から注がれていた淡い灯りを絶って、近付いてくる杏寿郎の姿を夜の暗闇に染めた。

そして三歩と満たない短い間に詰められた距離。一層近くなった杏寿郎の顔は暗闇の中でもハッキリとわかるくらい怒りに歪んでいた。血管が額に浮かび上がり、何かを堪えるようにして拳を握っている。僕を見下ろす杏寿郎の目に、以前まで見せていた優しさはどこにもなかった。

──杏寿郎が、怒っている。

やっぱり、僕のことなんかもう嫌いになってしまったんだ。見たくもない顔を見て苛立っているんだ。こんなところまで追いかけて来たって、杏寿郎の任務の邪魔にしかならないのに。僕が、全部悪いんだ。

「……っ、ごめん……」
「……ッ」

やっと出せた声はみっともなく震えていた。一番伝えたかった言葉を口に出した途端、目頭が急に熱くなって勝手に涙が溢れてきた。急いで顔を俯かせたけど、手で覆う前にこぼれた雫が足元に落ちた。本当は、泣いているところを見られたくなかったのに。

「ごめん、杏寿郎……」

我慢せず大声で泣いて訴えたかったけど、そんな情けないことをできるはずがなかった。

僕はただあの時のことを──喧嘩別れした時のことを、謝りたかっただけなのに。今ではここに来たことを後悔している。自分の行動が全て間違っていると突き付けられているようで酷く虚しかった。

僕はただ杏寿郎と仲直りがしたかっただけなのに、どうしてこんなにもうまくいかないんだろう。

「ひどい、こと、言って……杏寿郎のこと、いっぱい傷付けて……!」
「皐月……」
「ごめん……!どうしても、会って謝りたかった……!杏寿郎の迷惑になるって、薄々気付いてたのに……僕、自分勝手なことばっかりで──」
「皐月、もういい」

穏やかで優しい声が聞こえた。顔を上げようとした瞬間、後頭部へ手が回されそのまま抱き留められた。胸元に頭を押し付けられている状態で、僕はそっと杏寿郎の顔を見上げた。

「もう充分だ。……だからもう泣かないでくれ。俺はお前に泣かれるのが一番堪えるんだ」

困ったように微笑んだ杏寿郎が僕を見下ろして言った。その瞳に、さっきまで見せていた強い怒りの感情はもうどこにも見当たらない。だけどそれを純粋に喜べない僕は、どうしようもない複雑な気持ちを隠すようにして再び顔を俯かせた。

「っ……何でそんな簡単に許すんだよ……!あんなひどいこと言ったのに……本当は怒ってるんだろ!」
「たしかにお前を見た瞬間少し取り乱してしまったが……あれは別に、お前が俺に対して言ったことについて怒ったわけではない」
「何でだよ!そんなに僕の言葉はっ……お前にとって傷付くまでもないくらい、些細なものだったのか……?」

好きになるんじゃなかった、なんて──僕が杏寿郎に言われたら、絶対立ち直れないのに。

「……っそんなの、僕ばっか杏寿郎が好きみたいで、いやだ……」

ズルい。そう零したら、不意に後ろ髪を撫でられた。思わず顔を上げたら、暗闇の中でもわかるくらい杏寿郎が顔を赤く染めていて──別に何もないはずなのに、僕まで恥ずかしい気持ちになって顔が熱くなった。

「……狡いのは、お前の方だろう」

囁いた後、降りてきた頭が肩の上に乗せられた。首筋に触れた杏寿郎の唇の柔らかさに意識が持っていかれて頭の中が一気に真っ白になる。

「こんなに俺の感情を揺さぶる奴はお前だけだと言うのに……」
「ぁっ……」

肌の上で動く唇の感触に背筋が震えた。杏寿郎に触れられると身体が熱くなって、いうことを聞かなくなる。自力で立っているのもやっとなくらいで、僕は崩れ落ちそうになる身体を後ろの鉄柵に預けて必死に顔を逸らした。

「……見合い話など、破談してしまえばいいと思った」
「……え?」

囁き声と一緒に、温もりがそっと離れていく。顔を向けたら、悲しそうな表情をした杏寿郎が僕を見下ろしていた。

「お前から見合いの話を告げられたあの時から、俺はお前にも、自分自身にも嘘を重ね続けてしまった。大事なお前を手放す気など最初からなかったというのに……。酷い言葉を言って不安にさせ、傷つけてしまったのは俺の方だ」

すまなかった、皐月。

そう言って眉尻を下げながら謝る杏寿郎に胸が苦しくなった。

どうしてお前はそんなに優しいんだ。きっとあの言葉だって、僕のためを思って言ってくれたんだろうに──僕はお前の気持ちも汲み取らずに勝手に騒ぎ立てて、ここまで来ても迷惑しかかけていない。お前が謝る必要なんかないのに。

「ッ……許さない!」
「なんと!」

肩を押して身体を離せば杏寿郎が目を見開いて驚いた。

「あの言葉を無かったことにしたいなら……っ許して欲しいなら証明しろ!僕を手放す気がないってことを証明しないと絶対許さないからな!」

本当は、許す許さないなんてどうでもいいことだった。ただ杏寿郎が、それに従って僕の側にいると今ここで言ってくれるのならそれだけで良かった。僕が言った証明なんて、そんな些細なもので良かったんだ。

「うーむ……証明か。……よし、わかった」
「ひぇっ」

──それなのに杏寿郎は何を思ったのか、突然僕の両肩を掴むなり白衣を肩からずらしだした。顔を寄せたかと思えば露出した肌に唇を押し当てられて、僕は慌てて杏寿郎の胸を押した。

「なっ、なっ何してんだよ!」
「皐月、じっとしていないと証がつかないぞ」
「何の話だよ!ぁっ馬鹿……ッ!吸うなぁ……!」

噛みつくようにして杏寿郎が肌を強く吸い上げる。痛くて暴れたけど杏寿郎はびくともしない。それにムカついて後ろ髪を掴んで引っ張ったらようやく顔が離れていった。

「そこまで嫌がることないだろう!」
「馬鹿!なに笑ってんだよお前!僕は噛みつけなんて言ってない!」
「そうだな!しかしその甲斐あってちゃんと“証”は残すことができたぞ!」
「はあ?」

乱れた白衣を直しながら杏寿郎をじっと睨め上げた。なのに杏寿郎は薄笑みを浮かべながら僕の顔に手を伸ばしてきた。擽るように手の甲で頬を撫でて、 そのまま首筋まで降りてくる。

その擽ったさに我慢していれば、さっき直したばかりの白衣に触れてきたので僕は慌ててその手を払った。

「やめろよ!一々直すの面倒くさいんだから!」
「むぅ……隠されてしまうとつい見たくなるが……皐月が嫌がるならやめておこう!」
「何の話してんだよ!……っもういい!証明しろなんて言った僕が馬鹿だった!」
「皐月!待て!証明ならお前の──」
「うるさいっ!もういいって言ったんだからもういいんだよ!」

思い返せば杏寿郎に対してすごい我が儘を言ってしまったと気付いて急に恥ずかしくなった。目の前に立ち塞がっている杏寿郎を押しのけて、僕は車両の扉を開けて逃げるように中へと入って行った。



◆◆◆



「あっ……煉獄さん!こっちです!」

車両に戻ってしばらく進んだ先──席に座っていた炭治郎達と再会し、何故か一緒に座ることになった。
聞くと、どうやら炭治郎が探していた人物も杏寿郎だったらしい。彼は炎柱である杏寿郎に尋ねたい事があるそうだ。

僕は二人が話しやすいようにと炭治郎を杏寿郎の隣に座らせようとしたけど、杏寿郎が半ば強引に僕を隣の席に座らせた。目の前の席には炭治郎と、彼が背負っていた木箱が置かれている。そして通路を挟んで隣の乗客席には善逸と伊之助が座っていた。

「皐月さんが探していた喧嘩別れした幼馴染みって煉獄さんのことだったんですね!」
「うん……まあ、そうだけど……」
「煉獄さんが皐月さんの名前を聞くなり急に顔色を変えて駆け出したのでびっくりしましたけど……そういうことなら納得です!」
「うむ!皐月は俺が幼少の頃より共に過ごしてきた大事な幼馴染みだからな!しかし幼少と言っても、あれは俺がまだ藤襲山で──」
「炭治郎、杏寿郎に訊きたいことがあるんだろ? 遠慮なく訊いたらいいよ」
「はい!」

長話になる前に話の軌道を炭治郎の方に無理やり修正した。そうでもしないと杏寿郎の迫力についていけていない彼はいつまで経っても話を始められないだろう。


そして僕が促してからようやく炭治郎の話が始まった。僕は鬼殺隊の組織図や内情をよく知らないから、呼吸とか柱の詳しい話まではわからない。だから炭治郎が話している内容も半分以上は理解できていないまま聞いていた。

「──うむ!そういうことか!」

内容を一通り聞いた杏寿郎は真っ直ぐ前を見据えたまま声を上げた。

「だが知らん!『ヒノカミ神楽』という言葉も初耳だ!君の父がやっていた神楽が戦いに応用できたのは実にめでたいが、この話はこれでお終いだな!!」
「えっ!? ちょっと、もう少し……」
「俺の継子になるといい!面倒を見てやろう!」
「待ってください!そしてどこを見てるんですか!」
「炎の呼吸は歴史が古い!」

せっかく軌道修正したのにもう杏寿郎の迫力に飲まれかけている。僕も話に入って何か助言してあげたかったけど、鬼殺隊の隊士でもない僕が何を言ってもきっと役には立だないだろう。

僕が黙り込んでいる内に杏寿郎は炭治郎に柱の話や呼吸の話をしている。僕の知らない話が目の前で交わされて、なんだか置いていかれたような寂しい気持ちになった。

「ところで溝口少年!」
「俺は竈門です!」
「俺も君に一つ訊きたいことがある!」
「えっ、何ですか?」
「皐月とはどこでどう知り合った!」
「なっ……!」

なに変なこと訊いてんだこの馬鹿──そんなこと今更知ってどうしようって言うんだ。
僕は杏寿郎の脇を肘で小突いて「余計なこと訊くな」と下から睨め上げた。しかし杏寿郎は一切僕の方に視線を向けようとせず、炭治郎を真っ直ぐに見つめている。
こいつ、僕を無視するつもりか。

「えーっと、皐月さんとは……この列車がある駅の近くで会いました。その時皐月さんが男に絡まれていて、遠目から見ても嫌がっていたので間に入って止めました」
「皐月ッ!!今の話は本当か!!」
「う……」

ついさっきまで目も合わせようとしなかったくせに、炭治郎の話を聞いた途端に僕の方へ勢いよく顔を向けてきた。僕自身は別に悪いことなんかしていないのに、なんだか怒られる予感がしてつい目を背けてしまった。

「……ちょっと……言い争いになっただけだよ……」
「本当だろうな!」
「本当だって……」
「では何故俺の目を見ようとしない!」
「だってそんな……力強く見つめられたら誰だって逸らすよ……」
「よもや俺に何か隠してはあるまいな!」
「べっ別に何も隠してなんかないよ!」
「竈口少年!」
「竈門です!」
「具体的にどういう状況だったのか教えて欲しいのだが──」
「おい!そこまで知る必要ないだろ!」

座った時からずっと組まれている杏寿郎の腕を横から力強く引っ張るが微動だにしない。置物かこいつは。

「えっと……」
「炭治郎も別に言わなくていいから!」
「止めるな皐月!」

二人で押し問答を続けていると、不意に冷たい風が車両の中を吹き抜けた。

「うおおおお!!すげぇすげぇ!速ぇええ!!」

風が吹いてきた方へ顔を向けると、何故か伊之助が車両の窓から半身を出して何やら一人で騒いでいた。隣に座っていた善逸が一生懸命彼を席へ戻そうとしている。

「危ない馬鹿この!」
「俺外に出て走るから!!どっちが速いか競争する!!」
「馬鹿にも程があるだろ!!」

流石に僕もこの列車が生き物ではないことにはもう気付いたけど、伊之助はまだ生き物だと信じ込んでいるらしい。最初からこの列車に対して闘争心を剥き出しにしていた彼らしい行動だとは思うけど、放っておくと善逸もろとも列車から落ちてしまうかもしれない。

「危険だぞ!いつ鬼が出てくるかわからないんだ!」
「え?」
「えっ?」

杏寿郎の発言に善逸と僕は全く同じ反応を返した。

「嘘でしょ!? 鬼出るんですかこの汽車!」
「出る!」
「出んのかい!!嫌ァーーッ!!鬼の所に移動してるんじゃなくここに出るの嫌ァーーッ!!俺降りる!!」

叫びたいのはこちらも同じだ。僕なんか出るって知ってたくせにそのことをすっかり忘れて乗ってしまったんだから。
僕は稀血なのに。鬼に真っ先に狙われる人間だと言うのに。

「短期間のうちにこの汽車で四十人以上の人が行方不明となっている!数名の剣士も送り込んだが全員消息を絶った!だから柱である俺が来た!」
「はァーーッ!なるほどね!!降ります!!」

降りられるものなら僕だって降りたいよ。善逸のように恐怖心を露わにできればどれだけ良かったか。僕はもうすっかり血の気が引いてしまって声すら出さないでいる。さっきから手の震えが止まらなくて、怖くてどうにかなってしまいそうだった。

「皐月、大丈夫だ」
「っ……」

その手の上に、杏寿郎の大きな手が載せられた。顔を上げたら、杏寿郎が力強い眼差しを僕に向けていた。

「俺が守る」
「杏寿郎……」

たったその一言で救われた気がした。気が付けばもう手の震えが止まっている。じんわりと手に伝わる杏寿郎の温もりが、僕のざわつく心を鎮めてくれたんだ。

「切符……拝見……致します……」

穏やかな気持ちに浸っていると、車両の扉が開いて誰かがこちらへとやって来た。

「……? 何ですか?」
「車掌さんが切符を確認して切り込みを入れてくれるんだ」

車掌さん、とは──この人の事だろうか。
ひどく顔色が悪い。痩せこけた青白い顔には濃い隈の跡が見える。働き過ぎなんじゃないのか、この人。

「皐月、切符を」
「あ、うん……」

杏寿郎に言われて、僕は善逸に買ってもらっていた切符を車掌さんに手渡した。すると何かの器具を使って切符を挟むと、パチン、と小気味よい音共に切符が切られて、それを返された。

杏寿郎や炭治郎達の分の切符も切られて、確認が済んだ車掌さんが青白い顔を上げた。

「拝見しました……」

車掌さんの生気のない声が、やけに遠くに聞こえた。




  



×
- ナノ -