藤色の焔 | ナノ


ふわふわと、柔らかで、温かい。
杏寿郎の匂いが目の前でいっぱいになって、くらくらと視界が揺れる。

「……杏寿郎……?」
「皐月──……」

名前を呼ばれた。胸の奥がじんわりと暖かくなって、幸せな気持ちが溢れてくる。

なんて幸せな夢だろう。

こんな簡単に幸せを感じられるなんてやっぱりお酒の力はすごい。大好きな杏寿郎が僕の目の前で、僕だけを見て、僕だけに構ってくれている。

唇をなぞる杏寿郎の指がくすぐったい。でも嫌じゃなくて、むしろ心地よくて、もっと触って欲しくて、夢なのをいいことに杏寿郎に強請るようにして甘えてみた。
そうしたら杏寿郎の匂いがもっと近くなって──

気が付いたら、杏寿郎に唇を唇で塞がれていた。

温かくて、柔らかくて、少しだけカサついている杏寿郎の唇が、僕の唇に押し付けるようにしてくっつけられて不思議な感覚になった。

何だろう。何で唇なんかくっつけたんだろう。口が塞がれたら呼吸ができなくなるから嫌なのに、杏寿郎にされてると不思議と嫌じゃない。でも、やっぱり呼吸ができないと息が苦しい。

僕は杏寿郎の肩を押して唇を離してもらった。離れていった杏寿郎の顔が、ぼんやりしたものから急に真っ赤に変わった。

「ッ……すまん皐月!」
「……?」

何故だか知らないけど必死な様子で謝っている杏寿郎は放っておいて、僕は少しだけ濡れた自分の唇を手の甲で拭った。そうしたら杏寿郎から肩を掴まれて、突然服の袖でゴシゴシと唇を拭われた。

「んんっ……!」
「すまない……本当にすまなかった!俺は、こんな……決して不埒な真似をしようと思ってた訳では──」
「ッやめろ!」

何度も擦られて痛かったから、僕はまだ唇を拭っている杏寿郎の手を振り払った。それだけなのに、振り払われた杏寿郎が泣きそうな顔になって固まったから少し気分が悪くなった。

「ごしごし、すんな。……いたい」
「……すまん」
「なぁ、なんで、ひっ……くち、くっつけた?」

意味がわからなかった行為を尋ねたら、杏寿郎が今度は唖然とした顔で僕を見た。
なんだよ、とじっと見つめ返してやったら、杏寿郎が僕の顔の方に手を伸ばしてまた唇に触れてきた。その手の暖かさと心地よい感覚にまた酔いしれる。

「……皐月。お前、口付けを知らないのか」
「……? なんだ、それ」
「……そうか。そうだったな」

ふ、と杏寿郎が可笑しそうに笑った。何で笑うんだ。何がおかしいんだ。何でかわからないけど悔しくて、無性に腹が立つ。
僕の夢なのに、僕の知らないことを夢の中のお前は知ってるのか。

「ッ……くちづけくらい、知ってる!」
「皐月、お前は確かご両親を亡くした幼少の頃からこの屋敷にいたんだろう」
「それがどぉした!」
「外に出ることも叶わず、人との接触もほとんどなかったお前にはたしかにわからない行為だろうな」
「知ってるって、言ってるだろ!」

無知だと言われているようで、馬鹿にされてると思って、僕は杏寿郎相手に拳を振りかざした。だけど力の抜けた僕の拳は簡単に杏寿郎に受け止められて、逆に手首を掴まれて引っ張られてしまった。倒れかかった身体を支えられて、より距離が詰められた。

「皐月」
「っなんだよ!……んっ」

また、唇を押し付けられた。
今度のは身体が熱くなるような、強い押し付けだった。自分の舌先にほんの少しだけ触れた杏寿郎の舌が予想外に熱くて、火傷でもしたみたいに僕は慌てて自分の舌を奥へと引っ込めた。
やがてゆっくりと離れていった杏寿郎が呆然とする僕を優しい眼差しで見下ろした。

「お前が好きだ、皐月」
「……ッ」
「口付けは、好いた相手にする行為だ。……尊くて特別なものなんだ」

俺はお前が好きだから口付けをした──続けられた言葉に顔が熱くなった。さっきから自分の心臓がうるさいくらいに鳴っている。

杏寿郎が、あの、煉獄杏寿郎が、僕のことを好きだと言った。幼馴染みで、僕の、好きな、杏寿郎が。大好きな、杏寿郎が。

──これが夢じゃなければ、僕は今とんでもなく恥ずかしい展開を迎えてることになるぞ。

ちゃんと夢なんだろうな。
焦る気持ちを隠しつつ、夢であるはずの杏寿郎の顔に両手を伸ばした。その頬を包むようにして手で触れると、杏寿郎が目を伏せて微笑んで僕の手に顔を擦り付けた。

ぶわりと全身の毛が逆立った気がした。
ゆめじゃない。
血の気が引いて、意識がどんどん現実へと引き戻されていく。

じゃあ、僕が今まで言ってきたあの恥ずかしい言葉は? やってしまった恥ずかしい行為は?

それらも全部、現実だってことなのか?

「っ……きょうじゅ、ろう?」
「ん? どうした、皐月」
「ぇっ……ぁ……ほんもの……?」
「本物だ。触って確かめてみるか?」
「……ッ!」

眩しそうに笑って僕の額に自分の額を突き合わせてきた杏寿郎は、見間違いようがない僕の幼馴染みの煉獄杏寿郎だった。

「ひ……っ」

途方もない恥ずかしさが一気に襲ってきた。
羞恥と酒の力で身体は火照っているのに冷や汗が止まらない。夢の中だからと思い込んで、つい調子に乗って本音をぶちまけ過ぎた。
これはもう、酔って頭がどうかしてしまったフリでもしなくちゃ収拾がつかないぞ。

「……皐月?」
「ぁっ……ぼ、く……」
「ん?」
「ぼく、も……すき……ぁ、杏寿郎、が」
「……!」

本当は、素面の時に伝えたかった言葉。
どうしても素直になれなくて、こんな時ですら酒のせいにしなくちゃ気持ちを伝えられない僕は最低な卑怯者だ。

すぐ目の前にある杏寿郎のあの大きな特徴的な目が、僕の伏せがちな目から真意を探るようにして覗き込んできている。酔いもすっかり覚めて、夢と現実の違いに今更気付いた僕を知られるのが怖くて、つい顔を俯かせてしまった。

「……皐月」
「な、なに」
「それは、お前の本当の気持ちなのか」
「…………」

そうだ、と即答できなかった。
杏寿郎が好きな気持ちに嘘はない。だけど、この状況を利用して伝えるのはどうにも憚られた。

しばらく思い悩んで黙り込んでいたら、不意に杏寿郎から顎を掴まれて顔を上げさせられた。真剣な表情がすぐ目の前にあって、その気迫に飲み込まれそうになる。

「俺は皐月が好きだという気持ちに偽りはない。幼き頃からお前のことしか見ていなかった。お前が俺をどう思っていても、お前を想うこの気持ちが変わることは決してない」

だから安心して本当のことを話してくれ。
そう伝える杏寿郎の真っ直ぐな言葉に涙が溢れた。

好きであろうと嫌いであろうと、お前は変わらず僕の幼馴染みとして居てくれるのか。僕はお前に嫌われてしまったらと思うと、こんなにも胸が張り裂けそうな気持ちになってしまうのに。二度とお前の顔も見られなくなってしまうだろうに。

お前はどこまでも真っ直ぐで、綺麗で、優しい奴だ。僕の心を照らしてくれる穏やかな太陽のような存在だ。

「……好きだよ」

羽織を掴み、縋るようにして言葉を紡ぐ。

「僕もお前が好きだよ、杏寿郎」

嘘偽りのない、本当の気持ちを。


「皐月……!」
「ぅわっ」

気持ちを伝えた途端に強く抱き留められた。強い力で締められて少し苦しい。何度されても恥ずかしいが、杏寿郎相手なら嫌ではない。普段なら有り得ないが、もっとこうしてくっついていたいと素直に願うのも、想いを素直に伝えたおかげなのだろうか。
僕は恐る恐るといった手つきで杏寿郎の背中に手を回した。

「……お前は、あったかいな……」
「お前も暖かいぞ、皐月」
「それは、たぶん……お酒を飲んだから……」

本当にそれだけだろうか──心臓の鼓動の激しさが、身体中を巡る熱が酒だけのせいではないと告げているようで言葉が最後まで言えなくなる。杏寿郎から口付けをされた時から、その熱は酷くなっているような気がした。

「皐月」
「……なに?」
「口付けをしてもいいか」
「そ……っ」

そんなこと訊くな馬鹿。
言いかけた言葉を飲み込んで、僕は一旦杏寿郎から身体を離すと、その肩に手を置いて体重をかけながら腰を僅かに浮かせた。

「っ……!」

顔を寄せて、今度は僕から覚えたばかりの口付けを杏寿郎の唇にした。間近で杏寿郎の顔を見る勇気はなくて、目は固く閉ざした状態だったけれど。
それでもちゃんと自分から、杏寿郎に尊くて特別な行為をすることができた。

「は……っん!」

自分から出来たことに満足して唇を離したら、追ってくるようにして杏寿郎の唇が僕の唇に食らい付いてきた。

咄嗟に閉ざした唇の合わせに杏寿郎の熱い舌が押しつけられて、噛み合った歯を舐められた。驚いて歯を浮かせたら滑るようにして杏寿郎の舌が奥へと侵入してきた。

「ンッ……んん、ぅ」
「ふ……っ」

苦しい。だけど、気持ちがいい。
苦しいと気持ちいいがごっちゃになって訳がわからなくなる。

口を付けるだけの筈の尊くて特別な行為は、いつしかお互いの舌を夢中になって擦り付け合い快楽を貪る、もっと別なものになっていた。

「はぁっ……きょ、じゅろぉ」
「皐月……ッ」

僕の腰に腕を回して片手で後頭部をがっしり押さえながら、杏寿郎は何度も何度も深い口付けをする。呼吸を制限されて苦しくて、でもふわふわと気持ちが良い口付けはやり過ぎると中毒になってしまいそうで少し怖かった。

もう終わりにしよう。
最後は僕から締めようと、杏寿郎の柔らかい下唇をふにふにと食む。

「んぅッ……!!」

その瞬間、後頭部をがっちりと掴んで杏寿郎は唇にしゃぶりついてきた。

角度を何度も変えながらグイグイと頭を押し付け、少しでも僕の中の奥へ奥へと入り込もうとしているようだった。
そのせいでカチカチとお互いの歯がぶつかって、それすらも心地が良いと感じるほどに僕の身体は杏寿郎と口付けが出来る事に悦んでいた。

「……皐月」

唇が離れ、その代わりに額同士がこつんと触れ合う。お互い浅い呼吸を繰り返しながら、睫毛が触れ合いそうな程近い距離でじっと見つめ合った。杏寿郎は珍しく余裕がなさそうな、切羽詰まった顔をしていた。

「初めてなのに、どうしてそんな煽るような口付けができるんだ」
「どうして、って……」

そんなの、杏寿郎がしてくれたようにしただけだ──そう言おうとして開けた口を再び唇で塞がれてしまった。

「んっ、きょうじゅろっ……んぅ、はぁっ……杏寿郎……!」

舌を絡ませながら口付けの合間に何度も名前を呼ぶ。杏寿郎が離れていかないように背中に回した腕にギュッと力を入れた。
もっとほしい、もっともっとほしい。口付けだけじゃ足りない。僕の身体は本能的に杏寿郎の事を求めていた。だって僕は杏寿郎のことが──


『孕むまで犯し尽くしてやる』


「……ッ!!」

ドンッ──と、鈍い音がはっきりと聞こえるほど大きな音が部屋に響いた。気がついたら、僕は杏寿郎の胸を両手で突き飛ばしていた。

「はぁ……はぁ……」

──なんだ、今のは。

「皐月……?」
「……っ!」

『さっさと壊れてしまえ。その方がうるさくなくていい』

頭にズキズキとした痛みが襲った。
何かが頭の中に浮かび上がろうとしている。
嫌な記憶。思い出したくないものだとすぐにわかった。聞こえるのは大好きな杏寿郎の声なのに、その時の光景を頭に思い浮かべるのが怖い。

「皐月、どうしたんだ」
「ひっ……」
「……!」

肩に触れられ、恐怖に肩が竦み上がった。
違うのに。僕は杏寿郎が大好きで、触れ合うことが幸せなことだと知っているのに。何かが僕の中で幸せを引っ掻き回そうと息を潜めている。そしてその存在を思い出した瞬間に、隠していた牙を剥こうとしているのがわかる。

怖くて嫌なものは全部忘れなさい。

いつか誰かが僕に教えてくれたこと。忘れることは、身を守る術の一つだと。

「……っ、いやだ……」
「皐月……」
「こわい……怖い、杏寿郎……」

触らないでくれ。見ないでくれ。近付かないでくれ。

「僕は……汚れて……」
「……!」

ずっと息を潜ませていた何かが、ついそこまで近付いてきていた。もう逃げられない。

「皐月!」
「……ッ」

──だけど、その行手を阻むようにして、僕の目の前に杏寿郎が現れた。
身体を強く抱き締められ、杏寿郎の顔すら何も見えなくなる。

「お前は汚れてなどいない!綺麗だ!美しく、儚く、繊細で……」
「杏寿郎……」
「こうして抱き留めておかないと、俺は安心できない……!だからどうか、俺のそばから居なくならないでくれ皐月……!」

切実な声だった。そしてそれは、どこかで聞いたことがあるような声だった。

忘れていたもの。記憶の底へ落ちてしまって見えなくなってしまったもの。浮かび上がってきたのは、あの恐れていた存在ではなかった。

『皐月……ッ!頼む、死なないでくれ……!俺のそばから居なくならないでくれ……ッ!!』

ああ、そうだ、杏寿郎の声だ。
痛みと熱で苦しめられ、朦朧としていた意識の中で聞いた幼い頃の杏寿郎の声だ。絶対に涙なんか流さないような強い杏寿郎が、啜るような涙声で僕に呼びかけていた。
どうして忘れていたのだろう。こんなにも僕を愛してくれる存在の声を。

「……杏寿郎」

今度は離さないようにして、僕は杏寿郎と同じように背中へと腕を回した。密着した胸から杏寿郎の鼓動が伝わる。
生きている音。生命の音。杏寿郎の音だ。

「ありがとう。……もう、大丈夫だよ」

紡いだ言葉に祈りを込めた。

願わくばどうか、この音と混じり合い、一つになりたいと。




  



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