藤色の焔 | ナノ


杏寿郎達がいなくなってからもめそめそと泣き続けていると、その内だんだんと腹が立ってきた。
一晩掛かって考えたけど、そもそも杏寿郎が勝手に落ち込んで出て行ったんだから僕が悩む必要なんかないじゃないか。

杏寿郎には僕より仲の良い無礼者の友達がいるようだし、もう勝手にすればいい。僕は僕でまた新しい友達を見つければいいんだから。犬でも猫でも鳥でも何でもいい。いつまでも杏寿郎に頼っていてはダメだ。


「皐月が世話になりました」
「いえいえ。琴乃葉さんのことは予々お館様より窺っておりますので」

今、迎えに来てくれた祖父が胡蝶さんと挨拶を交わしている。僕はもう荷物をまとめて蝶屋敷の門前で待っている。杏寿郎が迎えに来るとか言っていたけど、今はあいつの顔を見る余裕がない。会ったところでどんな顔をすればいいのかもわからなかったし。

「では、お気をつけて」
「はい。ありがとうございます」

胡蝶さんと挨拶を終えたらしい祖父が僕の元まで戻ってきた。

「このアホ!」
「いっ……!」

来た途端、ポカっと頭を殴られた。本気で殴ったんじゃないのは力加減でわかったけど、全く痛くないわけじゃない。僕は殴られた頭を押さえて祖父を睨んだ。

「何すんだよ!」
「煉獄殿や皆様に迷惑をかけよって!恥を知れ!」
「ッ何だよ!そもそも杏寿郎が──」

──駄目だ。違うだろう。

僕は言いかけた言葉を咄嗟に飲み込んだ。
確かに今回の騒動で外へと誘い連れ出したのは杏寿郎からだ。大体の責任はあいつにある。
でもそれを言ったところでどうなるんだ。祖父の怒りを買うだけで、結局自分で自分の首を絞めるようなものだ。杏寿郎に悪意があったわけでもない。一方的に影で責めるのは卑怯だ

「……ごめんなさい」
「…………」

僕自身が心配や迷惑をかけてしまったことには変わりない。僕は祖父に頭を下げて素直に謝った。

「……帰るぞ」

祖父のぶっきらぼうな言葉の後、ぽん、と下がった頭に乗った手のひらの重みに、じわりと涙が溢れてきた。

今まで溜め込んでいたモノが一気に溢れてくる感じがして、それが止められなくて、僕はボロボロと涙を零して小さく嗚咽を上げた。

泣き顔を見られたくなくて俯いていても祖父にはお見通しなんだろう。僕の前を一歩先に歩く祖父は、いつまでもべそべそと泣いている僕の手を黙ったまま引いて屋敷まで導いてくれた。



◆◆◆



蝶屋敷から出発した後、僕と祖父は日が暮れる前までに無事に屋敷に帰りついた。

ずっと前から住んでいた場所なのに、なんだかすごく懐かしい感じがして不思議な気持ちになった。僕の家って、こんなに広くて寂しいところだったっけ。

「お前が胡蝶殿の所で世話になっている間、神社も屋敷も全部ワシが掃除をして手入れをした。……まだ調子が戻っとらんようなら、しばらく休んどくがいい」

何か悪いものでも食べたのか。
僕はあり得ないものを見る目で祖父を見た。あの厳格で短気な祖父がまだ僕を気遣ってくれているなんて。一体どうしたと言うのだろう。まさか後で散々こき使ってやろうという魂胆だろうか。

「……いや、大丈夫。掃除は明日からするし、今日はもう夕餉の準備を──」
「ワシのはいらんぞ」
「えっ」

後が怖くて今から働こうと意気込むと祖父から思いもよらない言葉が出た。僕の作った飯を食べたくないとでも──いや、そんなわけはないだろうな。これはたぶん、いつもの商売の仕事に行く流れだろう。

「……わかった。じゃあ……今夜は帰らないんだね」
「……お前が嫌なら、明日でもいいんじゃぞ」
「何だよ、それ。変な気遣いしなくていいから行って来なよ。一人には慣れてるし」
「……そうか」

ちゃんと笑えていただろうか。不自然に見えてないだろうか。祖父は鋭いし上手く誤魔化さないとまた怒られてしまう。

若い僕が出稼ぎに行けない分祖父が稼いで来てくれているのだから、屋敷の留守くらいはできないといけない。祖父がいない間は僕がこの屋敷を守るんだ。いつまでも弱気でいちゃ駄目だ。



「明日の朝……そうじゃな、昼までには帰る」

荷物をまとめた祖父を門の前で見送る。せっかく二人で帰ってきたのにもう行ってしまうのかと思うと少し寂しい。

「鬼除けは持った?」
「売る分も含めて大量に持っとるわい」
「じゃあ安心だね。そもそも爺様なんか骨と皮しかないから鬼も食べないよ」
「お前は一言多いんじゃ!」
「いたいッ!」

また頭を殴られた。年寄りのくせになんて力で叩くんだ。ちょっとふざけて言っただけなのに。

「まったく!お前はいつまで経っても子供じゃな!」
「もう大人だよ!」
「いーや子供じゃ!我が儘で、自分勝手で、周りに心配ばかりかけよる大きな子供じゃ!」
「……っ」
「少しは成長せい!アホ!」

そう言うと祖父はぷりぷりと怒りながら踵を返して行ってしまった。

そんなに怒鳴ることないのに。たまには笑顔でも見せて「立派だ」って褒めてくれたっていいのに。杏寿郎が来たらニコニコ笑って歓迎するくせに、僕の時だけ何故か厳しくする。祖父は杏寿郎のことだけ大人だと認めるのか。僕と杏寿郎は同い年なのに。

同じ大人の男なのに──



◆◆◆



沈みかけていた陽が完全に姿を眩ませた。
足音の絶えた夜更けの田舎道は深山のように静かだ。梟が鳴くわけでも、コオロギが羽音を擦る音が鳴るわけでもなく、辺り一体がただ単純に呼吸を抑えているようだった。

杏寿郎は早足にその静かな田舎道を走っていた。冷たい秋の夜風が杏寿郎の緋炎の羽織をはためかせている。そこから見え隠れする日輪刀はしかと杏寿郎の手に支えられ、走る際の振動に大きく揺れ動くことはない。

ただ真っ直ぐに、杏寿郎は一つの目的地へと進んでいた。そこは杏寿郎が過去に何度も足を運んだ場所──皐月の実家でもある藤の花の家紋の家だ。

本来ならば今日、杏寿郎が皐月を連れてそこへ向かう筈だったが皐月は既に蝶屋敷を出ていた。連れて行くと予め言っておいた筈なのに居なくなっていたのだ。

胡蝶にそのことを知らされた時は心臓が止まるかと思った。また自分が目を離した隙に皐月が鬼に襲われやしないかと気が気ではなかった。皐月の祖父が同伴しているとは言え心配が完全に払拭されるわけでもない。

皐月と祖父の二人が蝶屋敷を出発してから随分と時間が経ってしまったのもあり、結局杏寿郎は屋敷にたどり着くまで二人と合流することは叶わなかった。


静まり返った門前にて、杏寿郎は大きな藤の花の家紋が描かれた門を見上げる。
見慣れた光景だというのにこうも気分が高揚するのは何故だろうか──無意識のうちに胸を掴んだ杏寿郎の脳裏に皐月の顔が過ぎる。

蝶屋敷にて、宇髄の問いに対し否定的な言葉を叫んだ皐月の顔を忘れられない。あのままあの場に留まり続けていれば息が詰まりそうで、格好がつかないが逃げるようにして部屋から出て行ってしまった。

『諦めんな!あれは絶対何かの間違いだ!俺の言うことを信じろ!煉獄!』

後を追って来た宇髄に散々励まされた上に背中を押され、一晩じっくりと考えて改めて自分が皐月のことをまだ愛おしく思っているのだと実感した。

笑った顔も、泣いた顔も、怒った顔も、皐月の全てが愛おしく、いつまでもそばにいたいと願った。自覚してからは皐月を見るたび、胸が息苦しくなるほど甘美な気分に捉えられる。

初めての恋もそうであった。藤襲山で見かけた皐月に自分の中で何かの鍵が外れる音が聞こえた。そこから一気に雪崩れ込んできた切なくも尊い気持ちに内心戸惑った。はじめて胸に抱いた感情だったからだ。

ああ、俺は皐月のことが好きなのか──杏ちゃん、杏ちゃんと俺の名を嬉しそうに呼んでコロコロと表情を変える皐月に何度胸を切なく焦がしたことか。将来皐月を絶対に嫁にもらい受けたいと常に思っていた。

それが、失恋として終わったのはいつだっただろうか。皐月が自分を男だと告白した時だったか。あの頃の自分はよくも簡単に諦めてくれたものだ。

しかし燃え尽きたかに思えた初恋の火種はまだ俺の中で燻り続けていたらしい。宇髄によって気付かされたのには不服だが──自分がまだ皐月のことを好きなのだと自覚した時は、十数年としまい込まれていたものが蓋を弾き飛ばして一気に溢れてきたように感じた。

皐月を想う気持ちがいつまでも心に在り続けていたのだ。




杏寿郎は自分の前に構えている門を飛び越え敷地内へと降り立った。

もう寝入ってしまっただろうか──このまま皐月に会えないのではないかという一抹の不安と、まだ起きていれば会うことができるという僅かな期待に杏寿郎の胸が高鳴る。

玄関口に立つと戸に手を掛けるが、案の定鍵が掛かっておりしっかりと戸締りがされている。そこに安心感こそ感じるも、杏寿郎は自分が閉め出されたような寂しさを覚えて、結局諦めきれずに縁側のある庭の方へと向かった。

小さな池がある皐月の屋敷の庭は、杏寿郎が子供の頃よく皐月と一緒に駆け回った思い出のある場所だ。かけっこをしてもいつも皐月は自分に追い付けず、その度に悔しそうに涙を流していたのを杏寿郎はよく覚えていた。

今思えば女だと信じ込んでいた俺に足の速さで負けたのが相当悔しかったのだろうな──杏寿郎は微笑ましい気持ちで幼き頃の皐月の姿を思い出した。

懐かしい思い出に浸るのもほどほどにして、杏寿郎は閉められた障子から漏れる薄灯に惹かれるようにしてゆっくりと近づいて行った。

すでに眠っていれば帰ろう。もし起きていれば──なんと声を掛けようかと思考を巡らせているうちに杏寿郎は灯りが漏れる障子の前に辿り着いた。障子の向こう側からは物音が聞こえない。やはり眠ってしまったのだろうか。

「……皐月。俺だ。……入るぞ」

名乗る時間すら惜しく、杏寿郎は返事も待たずに障子を開けた。

「……!皐月!!」

障子を開けてすぐ杏寿郎の目に飛び込んできたのは、畳の上にうつ伏せに倒れ込んだ皐月の姿だった。驚きのあまり心臓の鼓動と呼吸とが同時に止まったかと思った。

「皐月!大丈夫か!しっかりしろ!」

慌てて駆け寄った杏寿郎が横たわる皐月の肩を掴んで起こすと、仰向けになった皐月の顔がコテンと杏寿郎の胸に倒れた。

今一度杏寿郎が皐月の名を叫ぶと、今まで閉じていた皐月の瞼が小さく震え出した。やがてゆっくりと重たげに開いていく目に杏寿郎の青褪めた顔が映り込む。

生きていた──ホッと胸を撫で下ろし安心する杏寿郎の顔を皐月はしばらくじっと見つめると、ぼんやりした顔で小首を傾げて見せた。

「きょうじゅろ……?」
「皐月、一体どうしてあんな場所で倒れて──……ん?」

すん、と杏寿郎の鼻が小さく鳴った。その時彼の鼻腔を掠めたのは、実家で嫌になるほど嗅いだ覚えのある匂いだった。

「ッ皐月……!お前、酒を飲んだのか!」
「なんらよ……飲んじゃ悪いのかよぉ」

僅かに赤らんだ顔を顰めさせてじっとりと睨む皐月の目は据わっていて明らかに酒に酔っているのがわかった。よく見れば、部屋の端の方に酒瓶と思われる瓶が一本転がっている。

今まで酒などに手をつけたことがないはずの皐月が何故酒を飲んだのか。杏寿郎は腕の中でぐてんぐてんに酔ってしまっている愛しい幼馴染みを呆れた目で見下ろした。

「皐月……お前まさかあの瓶を丸々一本飲み干したのではあるまいな……」
「しらなぁ〜い」
「お前は蝶屋敷から出たばかりでまだ本調子でもないだろう……!無理をして体を壊したらどうするんだ!」
「うるさいなぁ。僕はもう大人なんらから酒くらい飲んらっていいらろ……」
「呂律が回ってないではないか。待っていろ、今水を持ってきてや──」
「なあぁ!子供あつかいするなぁ!」
「……ッ!」

杏寿郎が皐月を一旦畳の上に寝かせようとすると、突然癇癪を起こしたように皐月が暴れ出した。仕方がないので杏寿郎はずれ落ちかかった皐月の着物ごとその火照った体を抱き直してやった。

「何故酒なんかに手を出したんだ。大体あれは御当主のものだろう。見つかれば叱られてしまうぞ」
「らからぁ!子供扱いするなぁ!僕はぁ……立派な大人なんらぁ!おとにゃの男なんらぁ!」
「わかったから暴れるな皐月……ッ!」

ジタバタと暴れる皐月をなんとか押さえつけようとするが、下手に力を込め過ぎて痛めつけてしまうのだけは避けたかった。難しい力加減でなんとか押さえようとする杏寿郎だったが──

「おるぁ!」
「っ!」

今度は両手を挙げて突如抱き着いてきたかと思えば、皐月は杏寿郎を畳の上に押し倒して彼の腹の上に乗り上がった。

よもや自分が皐月に押し倒される日が来ようとは──杏寿郎は目を白黒とさせながら、自分をうっそりと見下ろす皐月の蕩けた瞳をじっと見つめた。酒気のまだ覚めない赤色を目の縁に帯びている皐月の表情は、今まで一度たりとも見たことがない妖艶さを感じさせた。

「どうらぁ〜!僕の勝ちぃ〜!」
「……皐月、水を持って来てやるから退いてくれ」
「あぁ? なんらよぉ、負けましたって言えよぉ〜」
「皐月、いいから言うことを聞いてくれ」
「っずるいぞ杏寿郎!お前もあのぶれーものの柱と一緒だ!」
「何の話だ……」

酔いのせいなのか、皐月の話すことのどれもが支離滅裂で飛び飛びになり、聞かされる杏寿郎は訳がわからないといった風に首を傾げる羽目になる。

「ぶれーものはぁ……僕のことぉ、ひっ……どんかんおんならってぇ……」
「何の話をされているのか俺にはさっぱりわからないぞ」
「らからぁ……ほらぁ!」
「ッ!!」

突然手を握り締めたかと思えば、皐月は着崩れた自分の着物の合わせの中に杏寿郎の手を躊躇なく突っ込んだ。酔いが回って火照った皐月の肌は杏寿郎の手のひらにしっとりと吸い付き、密着したそこからお互いの熱が一箇所に混じり合う。

「ちゃんと男らろぉ?」

杏寿郎は皐月の行動に一瞬怯んだが、すぐに歯を食いしばってその手を振り払った。

「酔いに任せて容易に触れさせるな!」
「……ッ!」

突如怒鳴り声を上げた杏寿郎に、今まで微睡んだ顔をしていた皐月が目をパッチリと見開かせて驚いた。酔いが少し醒めたのか、呆然とした表情で杏寿郎を見下ろしている。

しかしその表情もすぐに崩れて、皐月は突然目にいっぱいの涙を浮かべると杏寿郎の上で啜り泣き始めた。大切な幼馴染みを泣かせてしまったことに今度は杏寿郎が目を見開いて焦りだした。

「皐月っ……すまない、言い過ぎた!」
「ぅっ……ぅっ……」
「泣かないでくれ皐月……!」

杏寿郎は上半身を起こすと自分の腹の上に座っていた皐月の両肩をそっと掴んだ。ずるずると肩からずれ落ちていく皐月の着物を拾い上げて手早く整えてやると、その俯いたままの泣き顔を下からそっと覗き込んだ。

「突然怒鳴ってしまってすまなかった。怖がらせたのなら謝る。……だがそんな簡単に自分の体を触らせるような真似はしないでくれ」
「ひっ……ぐすっ……きょうじゅろぉは、ぼくのこと、きらい、なんだ……」
「何を言うんだ!そんなわけないだろう!」
「だって、ぼくは、きょうじゅろぉのこと、すき、なのにっ……だいすきなのに……!」
「……!」
「ぼくが、さわったら、ぐすっ、きょうじゅろぉは、おこって、いやがるんだぁ……!」

──嗚呼、なんと息を呑むほどに美しく愛おしい存在だろうか。

何度拭ってもこぼれ落ちてくる涙はまるで雪の結晶のようで、手に入れようと掬い取ってもすぐに手の内で儚く溶けて消えてしまう。

皐月の肩を掴んでいた杏寿郎の手が、涙を拭ってやっていた手が、揃って皐月の輪郭に添えられた。そのまま掬い上げられた顔は涙に濡れていて、潤んだ瞳には杏寿郎の顔しか映っていない。

「……杏寿郎……?」
「皐月──……」

顎を支えていた手の指が皐月の唇をなぞった。その感覚が心地よく、皐月は眠ろうとして目を閉じるようにそっと目を閉じた。

今ここで想いを伝えねばならない──わかっていても、杏寿郎は込み上げてくる嬉しさと恋しさとで口が利けなくなってしまった。

やがて過ぎていく二人の間の時を防ぐように、そっと唇が重ねられた。優しくて穏やかで、そして何処にいくあてもない口付けだった。




  



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