藤色の焔 | ナノ


ゆっくりと瞼が開いた。今まで暗闇で塗り潰されていた視界にぼんやりと古い天井が映る。

混濁した意識のせいで夢を見ているのかと思ったけど、そうではなかった。肌に触れる空気が少しひんやりとしていて、右手が妙に温かい。自分が何かを握りしめているのがわかった。夢とは到底思えない現実的な感触に思わず視線が横に向いた。

「…………」

そこにいたのは、杏寿郎だった。
僕の右手を握りしめたまま、布団の上に突っ伏した状態で眠っている。
よくそんな体勢で眠ることができるな、なんて自分でも驚くほど冷静な感想が思い浮かんだ。

布団の上に広がる杏寿郎の髪は、いつか見た秋の銀杏の葉のようだ。そういえばあの日も、銀杏の葉を見て杏寿郎のことを思い出したな。どうしたって僕は、いつも杏寿郎のことしか頭にないのだなと自分自身に呆れ返った。

「……っ、……」

名前を呼ぼうとしたけど、ダメだった。声が出ない。たった今思い出したかのように喉に痛みと違和感を感じた。ヒリヒリして、声を出そうとすると少しつらい。

「……き……ろ……」

それでも呼びたかった。杏寿郎の顔が見たかったのもあるけど、いつまでもそこで妙な体勢で眠られて後で体を痛めるのも可哀想だと思ったからだ。

「ッ……きょ、ぅっ……ゲホッ!ゲホッ!」
「!!」

無理をしすぎて堪らず咳き込んだ。それに気付いたのか、今まで布団の上に転がっていた杏寿郎の頭が勢いよく上がった。

目覚めた杏寿郎は、寝起きだとは到底思えないほど目を見開いて僕を見ていた。そのままその綺麗な瞳がぽろりと落ちてしまわないか少し心配してしまうほどだ。

「……皐月……」
「……っ」

おはよう──そう伝えようと口を動かそうとすると、まだ声にもなっていない内に抱きしめられた。いや、抱きしめると言うよりも、抱き留めると言うのか。杏寿郎の腕が、横たわった僕の頭を胸に抱き寄せている。また何も見えなくなってしまった。

「……ど……し、た……」
「ッ……よくぞ鬼に打ち勝ち戻って来た……!」
「え……」
「ありがとう皐月……!生きて戻ってきてくれて、ありがとう……!!」

絞り出すような声で感謝を述べる杏寿郎が、いつもうるさいくらいに元気で大声を出す杏寿郎とは似ても似つかなくて、僕は驚きよりも可笑しさが勝ってつい口角が緩んでしまった。胸に抱かれていた顔を見られずに済んだのは幸運だった。

「……も……い、から……はな、せ……」
「いや!まだ離すつもりはない!」
「おい……」
「鬼の根が完全に消滅してから丸二日間お前は眠っていた!胡蝶も心配している!見つかれば俺は──」
「煉獄さん」
「!!」

凛とした声が遠くに聞こえた。杏寿郎の胸に隠れて見えないが、あの声は確か──胡蝶さんだろか。
当たっていたのかどうかは不明だが、杏寿郎が僕の頭を抱く腕の力を僅かに強めたのがわかった。

「目を覚ましたのならどうして早く伝えなかったんですか?」
「胡蝶……」
「私言いましたよね? 目覚めた彼には不足していた栄養を摂ってもらわなければいけないと。……それと、彼が目覚めたら煉獄さんにはしばらくの間面会を控えていただくと」

声だけしか聞こえないのにこんなにも背筋が凍りそうなほど恐怖を感じるのは何故だろう。杏寿郎も早く離せばいいのに、僕を抱く力は強くしても一向に体は離そうとしない。このままだと絶対二人とも怒られるぞ。

「よもや……ようやく目覚めた皐月との会話をお前は阻害するつもりか」
「あら? でも確か、約束しまたよね? 彼が目覚めたら一刻も早く私に伝えて療養させると。自分は退場し、後のことは任せると……」
「少しの間くらい構わないだろう!」
「煉獄さん?」

なんて聞き分けの悪い奴だ。約束していたのならちゃんと守れよ。それと僕を離したくないのか知らないが、徐々に抱き留める腕の力を強めてくるのはやめろ。苦しいんだよ。お前自分の力がどれだけのものかちゃんと理解してるのか。理解していてこの抱擁力なのか。僕を圧死させる気かお前。

「大体、長い間休みをとっていたのですから、そろそろ任務に参加したらどうですか? 今回の件で煉獄さんがしばらくの間任務に出ないと知った他の柱の皆さんはほとんど怒り心頭状態ですよ」
「それは申し訳ないと思っている!だが俺はまだ皐月のそばに──」
「も、いいって……杏寿郎……」
「皐月……」

動かすのさえ怠い腕を持ち上げて、なんとか杏寿郎の肩を自分の力で押した。少し離れた杏寿郎が、普段は見せないような寂しそうな目で僕を見つめている。

お前でもそんな目をするんだな。
面白いからもっと見ていたかったけど、杏寿郎と見つめ合うと絶対僕の方が先に恥ずかしくなって目を逸らしてしまうから、僕は早々に顔を伏せて杏寿郎を見ないようにした。

「早く、任務に、行けよ……」
「しかし……」
「自分の、責務を……全うしろ。できるだろ、杏寿郎……」
「……わかった」

訴えが届いたのか、杏寿郎はようやく僕から離れた。顔を上げたら、諦めたように微笑んだ杏寿郎に見下ろされていた。微笑んでいても、その目にはやっぱりまだどこか寂しさが残っている。その目を見て胸が苦しくなった。

「任務が終わった頃にまた来る。……それまでゆっくりと休むんだぞ、皐月」
「……ッ」

突如僕の頬を撫でたかと思えば杏寿郎はすぐに踵を返した。離れて行くその背を掴もうと、咄嗟に伸ばしそうになった手を拳にして布団に押し付けた。

本当はそばにいて欲しい──ずっと今まで言えなかった言葉がまた胸の内をぐるぐると渦巻く。早く言わなければ行ってしまうぞ、と自分自身に何度も告げるが、決心がつく前に杏寿郎はついに部屋から出て行ってしまった。あとは、虚しさと後悔だけが残った。

「……行けと言ったのはあなたなのに、随分落ち込んだご様子ですね」

杏寿郎が出て行った部屋の出入り口を見ていた胡蝶さんが僕の方へ笑顔を向けた。相変わらず優しくて穏やかな表情なのに、その声にはどこか鋭さがあってつい体がぎくりとしてしまう。

「……そんなことは、ないですけど……」
「よっぽど煉獄さんのことがお好きなんですね」
「だっ誰がッゴホッ!ゲホッ!」
「あらあら、大丈夫ですか? 急に大声を出そうとするから咳き込むんですよ」

咳き込む僕の元まで歩み寄ってきた胡蝶さんはそっと僕の背を撫でてくれた。こういうところには優しさが溢れている。言葉は時折刃物のように鋭いけれど。

「ゲホッ!ゲホッ!……ど、どうしてこんな……喉が、ヒリヒリと……」
「それはあなたが気を失っている間に叫び声を上げたからですよ」
「ぼ、僕が……叫んだ?」
「ええ。すごい絶叫でしたよ。煉獄さんの名前も叫んでいましたし」
「えっ!? ぐッ……ゲホッ!」
「ほら、もう興奮しない」

そんな馬鹿な──気を失っているのに絶叫だなんて、そんなのできるのだろうか。そもそも杏寿郎の名前を叫ぶなんて恥ずかしい真似を僕がしたというのか。まさか嘘を言って揶揄っているんじゃないのか、この人。

「……何ですか、そんなじっと睨んで」
「に、睨んで、は……ないです……」
「まあ、それだけ余裕があるなら回復の見込みも充分ありますし、元気そうで何よりです。今からあなたにも食べられそうなものをいくつか用意して来ますので、経口での栄養摂取を意識して取り組んでくださいね」
「……はい……」

胡蝶さんはニコニコと微笑んで「では失礼しますね」と言うと、そのまま杏寿郎と同じように部屋から出て行ってしまった。

一人で残されると少し寂しかったが──きっとまた杏寿郎が来てくれると信じていたので、胡蝶さんが来るまでの間僕は一時の寂しさを睡眠で誤魔化すようにして瞼を閉じた。



◆◆◆



久しぶりの任務の参加に、宇髄を筆頭に他の柱からも白い目で見られたのは流石の俺でも些か堪えた。お館様からは特に咎められるようなことはなかったものの、少々私事に時間を費やし過ぎてしまった点は反省しなければならない。

それでも皐月を無事に救えたのだから、あの時間が無意味で無駄なものだとは俺は思わない。反省こそしても、後悔まではしなかった。俺はあの時、俺の責務を全うしたまでだ。

「やっとやる気になったかと思えば今度は任務中に考え事か?」
「……!」

鬼の首を切り落とした直後に立ち尽くしていた俺の元へ、共に同じ任務に参加していた宇髄が歩み寄って来ていた。彼の方は粗方片付いたのか、竹藪の向こうからはもう鬼の気配が全くしない。どうやらこれで殲滅完了のようだ。

「片付いたようだな!」
「ああ、これくらいなら派手にやらなくてもあっという間よ」
「流石だな音柱は!ならば俺は先に帰らせてもらおう!さらば──」
「ちょっと待ちな」

背を向けた瞬間、羽織を後ろから掴まれ引っ張られた。いったい何なのだと後ろを振り返れば、目を細ませて俺を睨む宇髄がいた。

「何か用か!俺は急いでいるのだが!」
「お前よ、今回に限らず任務が終わると速攻で帰ろうとするよな」
「ああ!それがどうした!俺は急いでいるのだが!」
「たまには腰据えて話そうぜ。お前には色々訊きたいことがあるしな」
「それは無理だな!俺は急いでいる!」
「ったく、何をさっきからそんな急いでんだよ。何か用事でもあんのか」
「うむ!これから友の見舞いに行く!」
「友の見舞いぃ?」

訝しげな顔で俺の顔を上から覗き込んだ宇髄は何かを思い付いたのか、突如「あ〜はいはい」と声を漏らすと天を見上げた。

「前にお前が言ってたあの“幼馴染み”とかいうやつか!」
「そうだ!」
「藤の花の家紋の家の!」
「そうだ!」
「まだ構ってんのかよ、そいつに。いい加減任務に集中しろって言ってんだろ」
「それはできないな!」
「即答かよ……。つーか、見舞いって何だよ。風邪でも引いたのかそいつ」
「いや!鬼に襲われ生死の境を彷徨い、今朝目が覚めたばかりだ!」
「思ってたより派手な展開だな」
「うむ!なので俺はもう行く!さらば──」
「ちょっと待てって」

踵を返すとまたも羽織を掴まれた。

「……何なんだ君は」

二度も引き留められると流石に俺でも苛立ちが募りだす。普段ならばこうまで焦燥感に苛まれることはないのだが。皐月があの殺伐とした寂しい部屋で一人でいると思うと、居ても立っても居られなくなる。一刻も早く戻って皐月に会いたかった。

「そうまでしてその幼馴染みとやらに構う理由は何だ。そいつに許してもらうまで通い続けるとか言ってたが、もっと別の理由があってお前はそいつの元に通ってるんじゃないのか」
「……何が言いたいのかさっぱりわからないな。君は俺の何が知りたいんだ」
「簡単なことよ。ま、お前にはちょいと難しい話かもしれねーがな。……要するに、だ」

宇髄の指先が、見上げたまま立ち尽くす俺の胸に押し当てられた。心臓の位置を指すその長い指に視線を向け、俺は再び宇髄の顔を見上げた。俺を見下ろす彼の目は好奇と疑惑に満ちていた。

「お前、その幼馴染みとやらに惚れてんじゃねぇのか?」

言われた瞬間、名付けようが無い感情が俺の中に芽生えた。それは初めて湧いた感情のようで、それでいてどこか懐かしい感じがした。

俺は過去にもこの感情を抱いたことがある。それがいつだったのかは思い出せない。ただ、何かをきっかけに忘れてしまっていたものだとは思い出せた。

宇髄の、俺を見下ろす目にあった疑惑が確信へと変わった。それと一緒に、彼の口角までも緩やかに変化を見せる。にやけた彼の表情に、何故そんな顔をして見せるのかと疑問を抱いた。

「あーあ。ここに鏡があったら見せてやりたかったぜ、今のお前の顔」

派手に可笑しいったらありゃしねぇぜ、そう言って笑う宇髄につい自分の頬に手を当てた。
何が可笑しいのか──と考えるまでもなく、頬に当てた手に伝わる自分の熱を感じ取って俺は思わず息を詰めた。

「……好きなんだなぁ? その幼馴染みってやつが」
「……よもや……」

悪戯に笑う彼の言葉に、俺は二度目の恋に気付かされた。




  



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