藤色の焔 | ナノ
「こちらが普段私が用意してある藤の花です」
そう言ってしのぶは杏寿郎の前に器に入れられた藤の花を出して見せた。保存状態の良いその花は摘んだばかりのようで、なんとなしに嗅いでみればまだ花の香りがする。間違いなく本物の藤の花だろう。
「これを使えば皐月の体内に根を張っているものが消えるのか」
「いえ……この花では、衰弱した今の彼にとっては強すぎる毒となります。それに、このままの強さの毒を投与すれば体の中にいる鬼の一部が拒絶反応を起こすかもしれません」
「毒を弱くすることはできないのか?」
「不可能ではありませんが……手間と時間が掛かりますし、一度に投与する量からして結局彼の負担になってしまいます。少ない量で、かつちょうどいい毒の強さを持った藤の花が必要です」
そんな限定的なものでなければ駄目なのか──杏寿郎は歯を食いしばり、打開策のための考えを巡らせた。
時間が掛かれば掛かるほど皐月が助かる見込みがなくなってしまう。かと言って、焦って誤った配分量の毒を与えようものなら皐月を苦しめて殺してしまうだけだ。そうなれば本末転倒だ。
「君が持っている藤の花では駄目なのか……」
「そうですね……。今から藤の花を摘みに藤襲山へ行ったところで、私が持っている藤の花と毒の強さは同じでしょうし……。一番いいのは、摘んでから既に数年経過した藤の花なんですが……」
「……!」
杏寿郎はしのぶの言葉に何か思い付いたのか、突然隊服のポケットに手を入れた。指先に触れたものを掴んで取り出すと、手の内には皐月が十年前に杏寿郎へ贈った鬼除けがあった。杏寿郎はその鬼除けをしのぶの前に差し出した。
「これを使えないか?」
「……? これは……香り袋ですか?」
「鬼除けだ。中には藤の花が入っている。皐月が十年前に俺にくれたものだ」
「十年前……それなら使えそうです」
「本当か!」
「はい」
杏寿郎の中で陽炎のような希望の色が燃えた。それは真っ暗だった行く手を明るく示す炎のようにも思えた。
これで皐月が助かるかもしれない。杏寿郎は、今一度持っていた鬼除けを見下ろした。
「……すまない、皐月」
十年掛かってようやく取り戻した鬼除けだったが──皐月を必ず助けると決心していた杏寿郎は、迷いなくその鬼除けをしのぶの手に託した。
◆◆◆
お腹に何か感触があった気がした。
何も見えない。何もいない。何も聞こえない。
暗闇の中で自分の想像が膨らんで、脳が想像に追いつこうと追体験をはじめたのかもしれない。
暗闇から出てくる、得体の知れない何か。
そいつは決してこの暗闇の中に明かりなどつけてくれないだろう。自分が明かりをつけなければ。
宵闇からずるずると出てくる影が実体化しはじめた。影は大きな口をパカリと開けて、その中の真っ赤な舌でずるりとなめ回し始める。
食べられるのか──僕はこのまま、このバケモノに飲み込まれてしまうのか。
真っ赤な真っ赤な口に食べられてしまう。どこもかしこも食べられて、一片の肉片すら残らなくなってしまう。
「杏寿郎……」
怖いよ。死にたくないよ。
ねぇ、どこにいるの、杏寿郎。ひとりぼっちは怖いよ。寂しいよ。お願いだから迎えにきてよ。僕はここにいるのに、どうして杏寿郎は来てくれないんだ。
「皐月」
──杏寿郎?
「皐月、許してくれ。俺が悪かった」
──何を今更な事を言ってるんだよ杏寿郎。もう僕はとっくの昔にお前のことを許しているのに。
「そうか。ならばもう、お前の元に行く必要はなくなったな」
──違う。待ってくれ杏寿郎。そういう意味で言ったんじゃない。
「俺がいなくてももう大丈夫だろう。大体、お前は俺のことを疎ましく思っていたのではないのか」
──違う、違うんだ。本当はずっとそばにいて欲しかった。僕のことを常に考えていて欲しかったんだ。
「我が儘なことを言うな、皐月。お前はもう大人だろう」
──そんなこと言わないで。そんな突き放すようなこと言わないでよ、杏ちゃん。どうしてそんなひどいことを言うの? 僕のこと、嫌いになっちゃったの? もう、僕といっしょに遊んでくれないの?
「俺は鬼殺隊の柱だ。いつまでもお前に構ってはいられない。こらからは御当主と二人で仲良く暮らすんだぞ、皐月」
──いやだ。まってよ杏ちゃん、おねがい。おいていかないで。ぼくもいっしょにつれていって。てをにぎってよ。こっちをむいてよ。なまえをよんでよ。ねぇ、おねがいだから……!
「きょう、ちゃん……」
「……!」
意識を失っている筈の皐月の口から出た呼び名に、ベッドの傍に跪いた杏寿郎は目を見開き驚いた。繋いでいた手が強く握りしめられ、一瞬目を覚ましたのかと思ったが、そうではなかった。閉じたままの皐月の瞼──目尻から流れ出た涙に、杏寿郎はそっと自身の指を添えて優しく拭ってやった。
「皐月……」
「煉獄さん、準備はいいですか」
背後から聞こえてきた声に、杏寿郎は皐月に向けていた顔を後ろへと向けた。そこには、注射器を片手に持ったしのぶが険しい顔つきで立っていた。注射器の中にある液体がこれから皐月の体に入れられるのだと察した杏寿郎は力強く頷いて見せる。しのぶも同じように頷いた。
「彼が暴れないようしっかり押さえていてくださいね」
「わかった」
ベッドに横たわる皐月の元まで歩み寄ったしのぶは、手に掲げた注射器の針先を皐月の白い腕に近づけた。時折脈打つ血管がただならぬ気配を察知したのか、何かの塊のような瘤が大きく蠢いて腕の上にまで流れていった。
「往生際の悪い鬼ですね……。大丈夫ですよ、今殺してあげますから」
その台詞が皐月に向けられたものなのか、それとも皐月の中に宿る鬼に向けられたものなのかはわからない。ただその台詞が注射の合図だったようで、しのぶは皐月の血管の的確な位置に狙いを定めると、その鋭い針先をゆっくりと沈めた。
中身が注入される直前に杏寿郎が皐月の体を上から押さえ込む。両腕を掴むとベッドに押し付けて、己の体重をかけるようにして徐々に力を込めていく。
そしてついに、皐月の体へしのぶの持っていた注射器から液体が注入された。
「……ッ!!」
途端、今まで瞼を閉じていた皐月が破れるように大きく目を見張った。肌に浮き上がっていた血管が膨張し、大量の瘤のようなものが中を勢いよく駆け巡る様子が見えた。
「ぁ…ッあう……ッあッあァあああッ」
やがて悲鳴が漏れ始めると、後はしのぶが予想していた通りの展開になった。
鬼の拒絶反応──どんなに弱い毒でも、藤の花の毒は鬼に堪えるようだった。
液体を完全に注入し終えたしのぶはすぐに注射針を抜いた。暴れる皐月から彼女が距離をとったところで、傍にいた杏寿郎が入れ替わるようにして皐月の上に乗り上げ体を押さえ込んだ。
「ぐァッああぁ……ッ!!ギィァアアァッ!!」
「皐月!耐えろ!!」
「あ゙づぃッ!!い゙やだッ!!しぬっ……しぬぅ!!ぁッあァ……あああぁぁッ!!」
「耐えるんだ皐月!!お前は死なない!!俺がそばにいる!!」
杏寿郎がどれだけ呼びかけても皐月の体は手がつけられない野生の獣のように激しく暴れ回った。自由がきく足でシーツを蹴り上げると、杏寿郎の背中を膝で何度も打ちつける。明らかに普段の皐月とは比べものにならない力だった。
押さえつけるため皐月の腕を掴む杏寿郎の手の内に、血管の下で蠢く何かが幾度となく通った感触がした。
「……ッ!!」
──こいつが皐月を苦しめている鬼の正体か!
本体の鬼なら既に藤襲山で首を切ったというのに、死して尚皐月を執拗に狙い追い詰めて苦しめる鬼に、杏寿郎の腹の底からこんこんと怒りが湧き上がってくる。
「ッ……皐月!負けるな!耐えて鬼に打ち勝て!!」
そのぶつけようがない怒りの力を杏寿郎は皐月への呼び掛けとして使った。そうしなければ、己自身の神経が張り裂けてしまいそうだった。
「きょうじゅろォッ!!きょうじゅろぉぉぉぉッ!!」
「ああ俺はここだ!お前の側にいるぞ!お前の勇姿をいま確と目に焼き付けている!そのまま闘い抜け!耐えて俺と共に生きろ!!皐月!!」
──皐月!!
「杏寿郎……?」
どこにいるんだ。ここは暗くて寒いよ。何も見えないんだ。怖くてもう、僕一人じゃ立ち上がることもできない。
「またッ……またあいつかァ!!」
「……っ」
暗闇の中で突如怒鳴り声が響き渡った。
一度しか聞こえなかった声だが、その声が自分のよく知った声だというのにはすぐに気が付いた。
声の聞こえた方に顔を向けると、明かりもない暗闇の中なのに人の姿がハッキリと見えた。
ああ、あの姿は──僕なのか。
もう一人の僕が、裸のまま自分の髪の毛を鷲掴んで身を屈めている。狂ったように頭を振って何かに悶え苦しんでいるようだった。
「ふざけるなっバカにしやがって!どいつもこいつも、チクショウ、チクショウ、チクショウ!!」
「ひっ」
「!!」
一際大きな声に驚いて思わず悲鳴が漏れてしまった。咄嗟に口元を手で覆うが既に遅く、もう一人の僕が剥き出しにした目を僕の方へギロリと向けた。
「お前……お前もだ」
震えた指先が僕へ向けられた。
「大人しく支配されてれば良かったものを……いつまでも無駄に足掻きやがって……俺の手を煩わせやがった……!」
もう一人の僕が目を細めた。
何のことを言われているのか全くわからない。だけど、ぶつけられる覚えのない恨みは確かに僕へと向けられていた。
「時間がない。俺を今すぐ産み落とせ」
「そんなの……無理だ」
「なんだと……? 俺の……俺の気持ちを、願いを、お前は……投げ捨てる、のか?」
近寄られて、僕その場から逃げ出そうとした。だけど足が動かない。怖くて、恐ろしくて、逃げ出すことさえできない。
気持ちってなんだ。願いってなんだよ。そんなもの、僕が知るわけないだろう。
「あれだけ愛してやったのに……苗床のお前は種を植えてやった親を裏切るのか?」
奴がまた一歩近づく。反吐が出そうだ。勝手な事ばかり言って。都合の良い道具だから手に入れたいだけだろう。
「俺が、こんなに、丹精込めて育てた命を、お前は」
手が上がった。とっさに顔をかばったが、頭を殴られて地面に倒れこんだ。
「軟弱ですぐに死ぬような人間でも迎えてやろうというこの優しさを!生意気で面倒なガキでも愛してやろうというこの俺の誠意を!お前は踏みにじった!」
奴が馬乗りになった。振り下ろされた拳が僕を殴打する。腕を、顔を、頭を、腹を、何度も何度も硬い拳が振り下ろされる。悲鳴を上げ、もがいた。
「いやッいやだぁアッ!!やめて!おねがい、やめて!」
痛い。いたい、痛い。助けて。怖い。死にたくない。誰か。誰か助けて──
「殺してやるッ!!お前なんかっ……喰い殺してやる!!お前のカラダを俺のもにして、俺が俺として生きてやる!!」
奴の手が首に掛かった。僕と同じ形の両手が首を締め上げてきている。息苦しさに跳ねる足が地面を何度も蹴った。
ギリギリと渾身の力で絞めてくる奴の顔は常軌を逸脱していた。その目は僕を見ているようで見ていなかった。僕は息苦しさと悔しさで朦朧となりながらも奴を睨みつけ、暴れ、爪を立てた。奴の腕はびくともしなかった。
すぅ、っと周囲が暗くなってくる。身体から血が流れ落ちていくように、寒くなっていく。
──こんな……なんで……こんな……。
僕はもがこうとした。体が、動かない。ここにはいない幼馴染みを思った。
──心を燃やせ!!
「……!!」
杏寿郎の声が聞こえると、ふいに、喉が自由になった。馬乗りにのっていた奴が視界からすごい勢いで消えた。微かな悲鳴があがる。
「あっ……ハッはァッ、けフッげフッ……ッ」
何度も咳き込んだ。喉を押さえながら、大きく息を貪る。新鮮な空気が肺を満たし、脳まで届けられる。
「ギャアアァァッ!!」
「……ッ!」
その場から身を起こしたところで、耳を覆いたくなるような酷い悲鳴が聞こえた。顔を向けると、視線の先でもう一人の僕が炎に巻かれて激しく燃えていた。
あれは、炎なのか──藤色に燃え盛るその炎は奴の体を全身飲み込んでいた。炎の中で黒く焦げていく僕の姿は見るに耐えないが、その姿が徐々に本来の姿を現し始めたのを見て少しずつ冷静さを取り戻してきた。
醜い。なんて醜い姿の鬼だろう。もはや人の形すら保ていない。
ああそうだあの姿は──僕が洞窟で見たあの鬼と同じ姿じゃないか。あんな恐ろしい鬼が、僕の中で好き勝手に生きていたのか。僕を喰い殺して、僕として生きると戯言を抜かしていたのか。
──そんなの、他でもない僕自身が許すわけないだろう。
「クソがァアアッ!!死んでたまるかァ!俺はッ……俺はまだ……!!」
向き合え。怯むんじゃない。逃げようと考えるな。恐怖に打ち勝て。生きて戻るんだ。
この体も、心も、魂も、全部僕のものなんだぞ。
「いい加減地獄に堕ちろ!」
渾身の力を込めて、鬼の体を突き飛ばした。驚くほど軽く鬼の体は飛んで、溶けかかった鬼の目が驚愕に見開かれてボトリと落ちた。
「……!」
落ちた目玉を見下ろして、息を飲んだ。藤色の香り袋が、鬼の足元に転がっていた。
──あれは、僕が杏寿郎に贈った鬼除けだ。
どうしてここにあるのかと今一度鬼の方へ顔を向けると、暗闇の向こう側で鬼の体が燃え盛る藤色の炎と共に少しずつ闇に飲まれているのが見えた。
『皐月』
杏寿郎──そうか、お前だったのか。
消えていく藤色の炎に、僕は杏寿郎の広い背中を見た。掴めないとわかっていながらも、思わず手が伸びていた。
「……僕、鬼に勝てたよ……杏寿郎」
今から戻るから──待っていてくれよ。
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