藤色の焔 | ナノ


藤襲山──そこは俺にとって、鬼殺隊の最終選抜を行っただけの場所ではない。
かけがえのない存在、皐月と初めて出会えた思い出の土地でもあった。

夕暮れ時にたった一人で居た皐月を遠目から見て、俺は心の奥まで温められるような美しさに目を見張った。こんなにも目を引く少女は最終選抜の開始時に居ただろうか──疑問に思うのと同時に体が動いていた。

初めて声をかけた時、皐月は驚いた顔をして見せた後もひどく狼狽えているようだった。名乗った声も小さく、そのままそよ風に攫われてしまいそうなほどだった。力を込めて抱けば体が折れてしまうのではないかと思うほど細い体付きをしていた。

まだ出会って間もないというのに、その身を守ってやりたく思ったのはその為なのだろうか。そばに居たいと願ったのは、守らねばならないと思っていたからなのだろうか。

皐月は俺の大切な幼馴染みだ。共に成長し、喧嘩もしたが笑い合った日も確かにあった。美しく、儚く、繊細な心を持った幼馴染み──彼と出会えたこの藤襲山は、俺にとって特別な場所なのだ。



◆◆◆



「またジャマしやがった!また!お前、お前だな!お前のせいでまた稀血の人間を喰い損ねた!お前が邪魔してるんだ!」

鬼は支離滅裂に喚きながらも、杏寿郎の雰囲気に呑まれたように後ずさりした。杏寿郎は動かない。

「お前を殺してやる!お前の首をもぎ取って、あの稀血の人間に見せ付けてやる!今度はお前の首の前で犯して──」

台詞を最後まで言わないうちに、鬼の顔に杏寿郎の拳がめり込んだ。決して軽くはないはずの鬼の体は吹っ飛んで地面に何度も転がった。杏寿郎は、鬼のむなぐらを掴んだ。

「ぐッ、ぅ……どうして、殺さないんだ……!その刀で、俺を……斬ればいいッ!」

鬼の背後から無数の蔓が現れ杏寿郎の方へと向かって伸びた。刀を鞘から抜いた杏寿郎は前方向から襲ってくる蔓をその場から一歩たりとも動くことなく一掃した。蔓の切り口から血が噴き上がり、辺りを赤く染め上げた。

鬼の悲鳴を片隅に聞きやりながら杏寿郎は刀を鞘に収めようとする。その様を見て鬼が青褪めた。

またあの痛めつけるだけでトドメにはならない不毛な殴打を繰り返す気か──畜生、このまま好きなようにさせてたまるか!

鬼は杏寿郎の前から飛び退き距離を取った。杏寿郎がその空いた距離を詰めようと構え出すが鬼はそれよりも早く自分の足元から蔓を生やした。

『血鬼術──千蔓刃』

続々と地面から生えてくる幹の太い蔓が旋回しながら杏寿郎へと向かっていった。一本一本が複雑な動きをしているにもかかわらず、蔓は一本たりとも絡まることはなく視界を覆い尽くすほどの数で杏寿郎に攻めかかった。

しかし杏寿郎が再び刀に手を掛けた時、鬼の瞬きの間に蔓は数百本と消えていた。バラバラに切り刻まれた蔓が火の粉のように燃えながら地面に落ちていく様を、鬼があり得ないものを見る目で見つめていた。

「クッ……いい気になるなよ!!」

鬼の手が大きく振られた。生えたばかりの蔓が急な方向転換を見せ杏寿郎に大きく回り込んだ。鞭のように撓んだ蔓が次々と杏寿郎の足元を狙ったがどれも避けられ最後には切り落とされた。その繰り返しが何度も続いた。

「……ッまだわからないのか!俺を殺したところであの人間に植え付けた種は消えはしない!!じきに発芽し、根を張り、成長して俺の血を引いた分身を産み落とす!!アイツはもう鬼同然だ!!」

飛び退きながら避けていく杏寿郎を囲うように蔓が動いた。先の展開を見越したように、杏寿郎は刀を上に薙いで全方向から攻め入る蔓の拘束を回避した。

「くそッ……若造がァッ!死ねェ!!」

横から叩き込まれた蔓の斬撃を刀の背で受け、そのまま合わせた刃を滑らせて相手の手首を打った。鬼の両腕が飛んで、上がった苦痛の声の上に杏寿郎はさらに刃を打ち下ろす。

「……黙れ……」

──よくも、よくも俺の友を、幸せを、思い出を、かけがえのない存在を、穢してくれたな。


「地獄に堕ちろッ!!」


鬼の緩んだ顔下、顎に下から跳ね上げた爪先を叩き込んだ。脆くなった顎を貫通し、目玉が飛び出して膨れ上がった。回し蹴りの要領で勢いつけて足を回し、首の骨を叩き折ってその体を地面に叩きつける。

顔に生暖かいものが飛び散り、冷えた空気の中で杏寿郎は息を吐いた。原型をほとんど留めきれていない鬼の残骸の側には、皐月の紛い者から取り上げたマッチ箱が転がっている。血溜まりの中、蠢く肉塊から震えた腕が伸ばされマッチ箱を掴み取ろうとする。

「……これがそんなに欲しいのか」

何度も空を掴む血濡れた手はとうとうマッチ箱には届かず、ついに杏寿郎がそれを拾い上げた。箱の側面にマッチが擦られる音の後、軸木の先から頼りなげな小さな火がつき杏寿郎の手元を照らした。

「そんなに欲しければくれてやる」

そして杏寿郎の手から、マッチが投げ落とされた。小指の先ほどしかない小さな火種は鬼の肉塊の上に落ちると、その剥き出しの脂を喰らうようにして瞬く間に燃え広がった。

身を焼かれる耐え難い苦痛に鬼が絶叫した。思わず耳を塞ぎたくなるような酷い悲鳴だったが、杏寿郎は顔色一つ変えず燃え盛る鬼の姿をその目に焼き付けた。

『杏寿郎』

鬼の悲鳴など全く耳に入らない。今はただ、皐月の優しい声のみが聞こえてくる。こんな俺の姿を見れば皐月はどんな顔をするだろうか。軽蔑し、嫌いになってしまうだろうか。

──ああ、お前ならきっと『杏寿郎らしくない』と言うだろうな。

お前にしか見せなかった優しさを、お前にだけは見せなかった冷酷さを、俺は一つの体に宿しているんだ。だから、もう終わりにしよう。

「……炎の呼吸──」

この鬼の首を斬り、お前の知る煉獄杏寿郎の優しさを取り戻した暁には、すぐにでもお前の元へ会いに行こう。



◆◆◆



「面会は絶対禁止だと前にも伝えましたよね、煉獄さん」
「…………」

蝶屋敷──皐月を運び入れた部屋の前で、胡蝶しのぶが杏寿郎に揺るぎない意思を宿した瞳を真っ直ぐに向けてきた。杏寿郎は傷だらけの拳を強く握り締め、張り上げそうになる声をなんとか抑え込んだ。

「……胡蝶、頼む。一目でいい。皐月の顔が見たい」
「駄目です。今彼は心身共に衰弱した状態なんですよ」
「容態はそんなに酷いのか」
「煉獄さんの仰った“種”とやらがもう発芽している可能性が極めて高いんです。どうも彼の血管に根を張っているらしく、体中に血管が浮かび上がっています。しかも、衰弱化を止めようと栄養を与えるとそれを吸収して成長してしまうというかなり厄介なものなんですよ」
「ッ……どうすれば助けられる!俺は何をすればいい!」
「……与える栄養を最小限にして、成長を止めながら彼を生き永らえさせることしか今はできません。ですが……これ以上栄養を奪われると、彼は植物状態になってしまいます」
「そんな……」

杏寿郎は暗い淵に引きずり込まれたような虚脱感に襲われた。胃のあたりが痛くなり、空っぽの肺に砂でも詰め込まれたように胸が重苦しくなった。気を抜けばすぐにでもその場に膝をついて絶望に打ちひしがれてしまうところだ。

こんなにも弱い顔をした炎柱は見たことがない──絶句して床を見つめている杏寿郎の顔をしのぶは見ないようにそっと瞼を伏せた。

「……私は他に助けられる治療法がないか資料を探してきます。その間、彼を決して興奮させないと約束できるのなら……面会を許可します」
「ッすまん胡蝶!恩に着る!」

凛とした表情で面会の許可を告げたしのぶを通り過ぎ、杏寿郎は皐月がいる隔離部屋へと飛び込んだ。殺伐とした部屋の中、広いベッドの上に寝かせられている皐月を見つけた。力なく横たわった白く細い腕には管が何本も繋がれてあり、見ているだけで痛々しかった。

「皐月……」

ゆっくりと、一歩一歩踏みしめるようにして杏寿郎は皐月の元まで歩み寄って行った。近づくに連れて、眠っている皐月の寝顔がはっきりと見えてくる。入院着から露出した肌には、まるで蔓でも絡んでいるかのように血管が浮き上がっている。時折それは蠢き、皐月の血管の中で何かが暴れ回っているようにも見えた。

「皐月……!」

杏寿郎は皐月のベッドの枕元にまで寄るとその場に膝から崩れ落ちた。ピクリとも動かない皐月の手をそっと両手で握り締めるが、その指が杏寿郎の指に絡むことはない。

「すまない……すまない皐月……っ!お前を守ると約束しておきながら……俺は結局お前を守りきれなかった……!」

たとえ声が届かなくとも、杏寿郎は皐月に謝らずにはいられなかった。目を覚さない幼馴染みの手を握ったまま自分の額に押し付ける。少しでも皐月の生きている温度を感じたかった。

「お前がもしこのまま死んでしまうことがあれば……俺も腹を切って死ぬ……!」
「……ばかなこと……いうなよ……」
「!!」

目の前から聞こえてきた声に杏寿郎は弾かれたように顔を上げた。眠っていたかに見えた皐月が、うっすらと目を開けて視線をこちらに向けていた。感極まり杏寿郎は思わず腰を上げて皐月の顔を上から覗き込んだ。

「皐月!!」
「うるさい、なぁ……。ちゃんと、きこえてるよ……」
「ッ……すまない!すまない!!俺がお前を連れ出し守りきれずこんなっ……お前に辛い思いをさせてしまった!!」
「あぁ……」

皐月の虚な目が、杏寿郎の必死な表情から天井に向けられた。苦しそうな呼吸が時折漏れると、息を吸った皐月の肺が空気を含んで胸が大きく膨らんだ。

「……きょうじゅろう……たのみが、あるんだ……」
「何だ……!俺にできることなら──」
「ぼくを、ころして」
「……ッ」

言葉を失い固まった杏寿郎の顔に皐月はもう一度視線を向けた。何もかもを諦めたように、どこか吹っ切れたような微笑みを浮かべながら皐月は自分の腹部へとそっと手を伸ばした。

杏寿郎は皐月の弱った姿を上から見下ろしながら己の拳を握り込めた。握り込め過ぎた拳はギチギチと音を鳴らし、込み上げてくる昂りがこめかみに青筋を作った。

「……何を、馬鹿なことを言ってるんだ、皐月……」
「わかるんだ……この中に、鬼が生きているのが……」
「案ずるな……俺が必ず助けてやる……!だから希望を捨てるな!皐月!」
「……やさしいなぁ、杏寿郎は……」

眩しそうに細められた皐月の目尻から涙が溢れて零れ落ちた。何度頬を伝って筋を残しても、涙は最後には枕に染みて消えてしまう。杏寿郎が拭ってやろうとして手を伸ばしても間に合わなかった。

「……ぼくさ、お前と……ずっと一緒に──」
「やめろ皐月ッ!言うな!言って満足するんじゃない!!生きて叶えろ!!俺がずっとお前のそばに居てやる!片時も離れず、お前を──ッ」
「…………」
「……皐月?」

微笑みの後、静かに瞼を閉じた皐月に杏寿郎は青褪めた己の顔を慌てて寄せた。かすかな吐息が聞こえて、ただ眠っただけでまだ生きていることにホッと胸を撫で下ろした。

「……皐月」

呼びかけて、その前髪を指で撫でてやった。顔にまで浮き出てきた血管に、自分はこのままどうすることもできないのかと歯痒くなる。どうにかして皐月を救ってやりたかった。

「煉獄さん」
「……!胡蝶か……」

部屋に音もなく入ってきたのはしのぶだった。面会の時間は終わりだと告げに来たのか──杏寿郎が名残惜しげに皐月から体を離した。
しかしこちらまで歩み寄ってきた杏寿郎の顔を、しのぶは黙ってじっと見つめているだけで部屋から追い出そうとはしない。

「……? どうした」
「……助かる方法が、見つかったかもしれません」
「!! それは本当か!!」

目を見張った杏寿郎がしのぶの両肩を掴んで大声で迫った。その手をやんわりと外し、しのぶは気難しげな顔をして見せた。

「お静かにお願いします。確定ではありませんのであまり期待しないでください」
「何でもいい!教えてくれ!皐月を早く助けてやりたいんだ!」

焦る感情が抑えられず必死な様子を見せる杏寿郎から視線が逸れる。黙ったまま皐月の方へ顔を向けたしのぶに杏寿郎もつられたように顔を向けた。

「……毒を以て毒を制する、という諺があります。何か糸口が見つかるかと、彼から採取した血にあらゆる毒を混ぜてみました。その中で唯一、彼の血液中にあった鬼の根の残骸を消滅させてることができたのが……藤の花の毒だったんです」
「……!!」

杏寿郎は息を呑み、隣に立つ彼女を呆然と眺めた。唇は開いたまま硬直し、眼を盛んに瞬かせて、喜怒哀楽のどれにも属さない表情を見せた。

「……詳しく聞かせてくれ」

そして、しばらく沈黙してから杏寿郎はそのひとことで表現した。




  



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