藤色の焔 | ナノ


夢を見ているのだろうか。
己の腕の中で大人しく抱かれている皐月を眺めながら目の前の現実を疑った。

普段が素直ではない皐月にしては珍しい行為だ。こんなにもわかりやすく愛情表現を伝えてきたことは今までになかった。

これが俺の欲しかったものなのだろうか──自分に問い掛けてみるがはっきりとした答えは思い浮かばない。



──初めに欲しかったものは、皐月からの許しだった。出会ってから間も無く、自分は皐月を傷付けてばかりだったからだ。

あの日、屋敷から連れ出してくれと手を差し伸ばしてきた皐月の無垢な願いを叶えたかった。素直な気持ちを表し俺を頼ってくれたことが嬉しかった。

そして厳かな当主によって禁じられていた皐月の外出の手助けをしたのは紛れもなく自分である。彼が、鬼なら喉から手が出るほど欲しがる稀血の人間だとも知らずに。

自分の力を過信していたのだ。皐月を守り切ることができると思い込んでいた──あの時までは。

『杏ちゃん危ない!』

突然、己を庇うようにして目の前に飛び出してきた皐月は背中に鬼の攻撃を受けた。きっと痛かっただろう。辛かっただろう。怖かっただろう。自分が守るべきはずの存在が目の前で血に濡れて倒れた時、俺は何をしていた。何故すぐに鬼を殺せなかった。もし相手が十二鬼月であればどうなっていた。

息絶え絶えな友を腕に抱き、泣きながら山を駆け下り屋敷へと戻った。血塗れの皐月を見た当主の目の色が変わり、俺の腕の中から皐月を奪い取った。

どんな罰でも受けよう。だからどうか、どうかかけがえのない俺の友を助けてくれ。
切に願った俺の想いは届き、皐月の命は助かったが──

『皐月は稀血の人間。迂闊に外には出せぬのです。……わかってくださいますな、煉獄殿』

当主は俺を許してくださった。大事な孫を無断で危険な外へと連れ出した俺を。
皐月が稀血の人間であることを知ったのもその時であった。どうして皐月が屋敷から出せられないのか、自分から知ろうともしなかった己が恨めしかった。

『……おこがましい申し出だとは百も承知です。ですが、お願いします。皐月とこれからも共に居させてください。俺が……俺が皐月を一生をかけて守ります。約束致します』
『……わかりました。煉獄殿、どうか皐月をよろしくお願い致します』

──あの日、信じて許してくださった当主の期待を、俺はすぐに裏切ってしまった。皐月が俺にくれた藤の花の御守りを、俺は任務先で出会ったばかりの人間に渡してしまった。皐月の純粋な気持ちを踏みにじり、皐月の想いすら裏切って傷付けてしまった。

そして十年掛けて修復できたかに思えた仲も、俺の油断が招いた結果で壊れてしまった。もう、皐月には見限られてしまったかと思っていたというのに──



「きょうじゅろう、きょうじゅろう……」

何度も俺の名を呼んでくれる皐月に愛おしさが込み上げてくる。今まで素っ気なくされていたというのもあるだろう。昔のように俺に縋り付いてくる皐月が堪らなく愛おしい。

「……皐月、熱が酷いぞ。今すぐ胡蝶の屋敷へ戻ろう」
「いく……つれて、いって……」
「ああ、わかっ──」
「ふじかさねやま」
「……!」
「ふじかさねやま、つれて、いって……きょうじゅろう」

何故、皐月が藤襲山へ行く必要が──?

より密着した皐月の体に、何か違和感を感じた。擦り付けられた腹部に何か当たっている。入院着の内隠しに入っているのか。

離れようとしない皐月の体に手を這わせた。羽織っているだけの入院着の内隠しに手を忍ばせると、何か指先に硬いものが触れた。取り出してみると、それはマッチ箱だった。

「皐月……お前、どうしてこんなものを持っている」
「きょうじゅろう、ふじかさねやま、いく」
「皐月……?」
「はやく、はやく、はやく」
「皐月、お前……」

──本当に、皐月なのか?

どうしてそんな疑問を持ったのか明確にはわからなかったが、そんな気がしてならない。目は虚で呼びかけても反応が鈍い。そして執拗に藤襲山へ行こうとしている。

「……皐月。何故藤襲山に行く必要がある。今のお前には無用の場所だろう」
「杏じゅろう、ひどいよ、連れていってよ」
「駄目だ。胡蝶にお前は絶対安静だと言われている。このまま蝶屋敷へ戻るぞ」
「杏寿郎、どうして? ボクのいうこと、聞いてくれないの?」
「…………」

やはり、何かおかしい。
普段の皐月ならこんな甘えた台詞を言ったりはしない。今のこの皐月は──まるで自分の我が儘を押し通そうとする幼児のようだ。

「……もういい」
「……!」

今まで俺の顔を見上げて抱きついていた皐月が突然顔を伏せた。ゆっくりと離れた体が二、三歩後ろへと退がって行った。

「僕のいうこと聞いてくれない杏寿郎なんていらない」
「皐月……──!」

妙な音が聞こえた──足元からだ。
視線を下に向けた瞬間、足元の地面が大きく盛り上がったのが見えた。咄嗟に飛び下がると、盛り上がった地面から何かが勢いよく飛び出してきた。

──あれは、蔓か?

それも見覚えのある蔓だ。赤黒く禍々しい色味を帯びた蔓は地面から現れると真っ先に俺の方へと伸びてきた。

「……ッ」

刀を抜くために片手に持っていたマッチ箱を手放すと、蔓は急に方向転換して落ちていくマッチ箱に向かった。どうやらあの蔓自体は俺の命を狙っている訳ではないらしい。

「杏寿郎」
「……!」

名を呼ばれ思わず顔を上げた。いつの間に現れたのか、もう一本の蔓が地面から生えていた。その蔓の上に座った皐月が、見たこともないような冷たい笑みを浮かべて俺を見ていた。

「僕ね、これから女の子になって鬼のお嫁さんになるんだ」
「っ、なんの話だ……」
「僕のためにいつも必死になってくれる杏寿郎のことが大好きだったけど……もうどうでもいい」

違う。こいつは、琴乃葉皐月ではない。
この言葉は皐月のものではない。
やっと気付いたというのに、どうしてまだ刀が抜けない。あの“紛い者”の言葉など、気に留める必要がないだろう。

刀を抜け。刀を抜くんだ。

「僕を守れない杏ちゃんなんかより、鬼の方がずっと強くて頼り甲斐があるもんな」
「……ッ!」

刀を抜け、杏寿郎──!

「炎の呼吸──……弐ノ型」
「えっ……僕を斬るつもりなの? 僕のこと好きなんじゃないの? できる訳ないよね? ねぇ、杏ちゃ──」
「昇り炎天!!」
「ッ……!!」

焼け焦げる匂い──皐月と同じ声を出す口から悲鳴が上がった。
目の前で蔓と共に真っ二つになった皐月の紛い者が、ボロボロになって枯れていく手を俺の方へと伸ばしてきた。

「よくもッ……俺の傑作の実を……ッ!!稀血の実を殺しやがったなァァッ!!」
「……やはり生かしておくべきではなかったな」
「くそッ!壊してやるッ!!お前の大事なもの、全部ッ……あの稀血の人間を喰い殺してやる!!」

死に際の台詞は最早皐月とものとは思えぬほど濁っていた。紛い者の身体は色を失い、半身は砂状になって崩れ落ちていった。鬼の怒りが混じった紛い者の声はもう聞こえない。完全に息絶えたようだ。

「……皐月」

思わず言葉が出た。
俺が本当に守るべき存在をようやっと思い出した。あの忌々しい鬼の息の根を止めるよりも先に、皐月の元へ急がねばならないと本能が告げている。

刀を鞘に戻し駆け出した。足の裏に何かを踏み締めた感触がした。しかし振り返って確認するまでもない。
そんな価値すら存在しない鬼の亡骸などに、怒りの目ならまだしも、誰が情けの目を向けようものか。

自分の不甲斐なさに苛立ちを隠せない。一刻も早く皐月に会って無事を確かめなければ俺の気が済まない。
らしくもなく焦燥感だけが体を支配している。落ち着かなければならないのはわかっているのに、皐月のことを思うと落ち着いてなどいられなくなってしまう。

頼む、どうかまだ無事でいてくれ、皐月。




  



×
- ナノ -