藤色の焔 | ナノ


「あなたが意識を取り戻したこと、一応煉獄さんに伝えておきますね」

胡蝶さんはそう言って、部屋の窓から一羽の鴉を飛ばした。

「まあ、来たところで面会は当然禁止ですけど」

にこりと笑みを浮かべながら振り返る胡蝶さんは、開けていた窓を閉じてしっかりと鍵を掛けた。最近になって気付いたのだが、彼女のこの笑顔は妙に恐怖心を煽るのだ。僕は何も言えないまま小さく頷いた。

「私はもうすぐしたら任務に出なければいけませんので、後のことはアオイ達にお任せします。もちろん、煉獄さんが来ようものなら即刻追い返すように伝えていますので、私が留守だからといって会えるとは思わないように」
「は、い……」

やはり彼女の笑顔はどこか威圧感があって怖い。彼女が杏寿郎と同じ柱というのも今更ながら納得できた。あの笑顔には有無を言わさぬ貫禄がある。

「では、失礼しますね」

終始ニコニコと笑顔を浮かべていた胡蝶さんはそのまま部屋を出て行った。きっと彼女もこれから鬼を狩りに行くのだろう。女性なのになんて逞しく強い人なんだろうか。鬼と遭遇して泣き喚いていた僕とは大違いだ。

「……杏寿郎……」

今はいない男の名を呟く。目が覚めたとき、お前がいなくて寂しいと思ったことは口が裂けても言えない。子供の頃はいつも一緒だったのに、大人になるとそれがなんだか恥ずかしく思えてしまうのだ。

杏寿郎の顔を思い出すだけで熱が出る。胸が苦しくなるし、なんだかむず痒い気持ちになってしまう。僕の体はどうしてしまったんだろう。熱は顔だけでなく、体全体へ回り出す。喉が乾いて仕方ない。

「……っ」

寝よう。訳がわからないことに頭を悩ませるなんて疲れるだけだ。
なるべく杏寿郎の顔を思い出さないようにして布団の中へ潜り込んだ。自分の体から出る熱ですぐに布団の中が温もった。

考えないようにしているのに、目を閉じると目蓋の裏に杏寿郎の顔が浮かび上がった。あいつ、こんなところにも現れて僕の嫌がらせでもするつもりか。

『皐月!』

ついに幻聴まで聞こえてきた。勝手に足がモゾモゾと動いて落ち着かない気分だ。

考えないように。考えないように──

「……っ、会いたいよぉ……」

何度そう自分に言い聞かせても、結局杏寿郎の顔が頭の中から離れることはなかった。



◆◆◆



──今日も駄目だった。

杏寿郎は藤襲山から下山しながら落ち込んだ顔を俯かせた。

皐月に血鬼術をかけた鬼を生け捕りにし藤襲山に収容したのはいいものの、杏寿郎は未だにその鬼の血鬼術の力について知り得ることができずにいた。

何度半殺しにしても鬼は口を割ろうとせず、憎まれ口を叩いては最後に杏寿郎によって意識を沈められるのだ。

こうまで強情な鬼もなかなかに珍しい。伊達に元下弦の鬼ではないらしい。
杏寿郎は鬼の体にあった無数の眼の内の一つにある、傷つけられた数字の跡を思った。

時間がかかればそれだけ皐月の身に危険が及ぶ可能性が高まる。なんとかしてあの鬼から手掛かりを吐き出させることはできないものか──

「……?」

杏寿郎が山を下山した頃、一羽の鴉がこちらの方まで飛んでくるのが見えた。
あれは鎹鴉か。
杏寿郎は低空飛行に移る鎹鴉の前で足を止めた。

「皐月ガ目覚メタ!皐月ガ目覚メタ!」
「なにっ」

甲高い声でそう叫んだ鎹鴉は一周回るとそのまま空高く向こうへ飛んで行ってしまった。杏寿郎は見えなくなりつつある鎹鴉に目もくれずその場から駆け出した。

普段の移動であればここまで本気を出して走ることはないのだが、今の杏寿郎の頭の中では皐月と一刻早く会いたいという思いだけで埋め尽くされており、そこにのんびりと歩いていくなどという考えは一切なかった。

杏寿郎が走った後に砂煙が舞う。風のような速さで道を抜けていく彼の姿をまともに目で捉えられる者は誰もいなかった。誰も、今の彼を止めることはできない。

「……!」

しかしそう思われた杏寿郎の足が突然止まった。止まった場所は、藤襲山からずいぶん離れた位置にある雑木林の中だった。人の気配は、杏寿郎以外に存在しない。

その雑木林の向こう──暗闇の奥で、何やら人影がゆらゆらと揺らめいている。じっと目を凝らす杏寿郎の視線の先で、その人影が覚束ない足取りでこちらにまで歩み寄って来ていた。

「!!」

そしてその姿を視界に捉えた時、杏寿郎は再びその場から駆け出した。

「皐月!!」

雑木林の奥から現れたのは、今は蝶屋敷にいるはずの琴乃葉皐月だった。皐月は息を乱しながらも杏寿郎の方へ向かって歩み寄って来ている。彼が着ている蝶屋敷のものである入院着も、もはや羽織っているだけとも見えるほどに着崩れていた。

「皐月!どうしてここに……ッ」
「きょ、じゅ……ろ……」

杏寿郎が皐月の元まで駆け付けてその肩を抱くと、酷い熱が手のひらに伝わった。格好からしても、無事に退院して出て来たわけではあるまい。

絶対安静であるはずの身の皐月が何故蝶屋敷を出てこんな所にまで来たのか杏寿郎には理解できなかった。

「皐月、今すぐ胡蝶のところへ戻るぞ!」
「きょう、じゅ、ろう……」
「ああ、俺がお前を運んで行ってやるから案ずるな!」
「あい、たい」
「……!」

力なく下がっていた皐月の手が杏寿郎の顔の方へ伸ばされた。首に回された腕が杏寿郎の頭を抱き、優しい力で引き寄せる。気付いた時には呆気なく抱擁されていた。

「きょ、じゅろう……あい……たかった……」
「皐月……?」
「そばに、いて……」
「…………」

杏寿郎の体の奥で、目に見えないほどに小さな熱が生まれた。熱は皐月の体から移る熱と一体化するように、次第に大きさを増していく。

杏寿郎はこの熱に覚えがあった。過去に何度も灯してきた熱だ。それは皐月のことを思う時、皐月と会って話している時に感じた熱だ。今まではすぐにその熱も引いて冷静な気持ちになれたというのに──

今は引くどころか、全身に熱が回って気分が高揚してしまっている。
自分の首に腕を回す皐月の背中に杏寿郎は恐る恐る手を添えた。

「……皐月。会いたかったのは俺も同じだ。ずっとお前の側にいてやりたいとも思っている。……だが、今は戻らねばならん」
「きょうじゅろ……すき……」
「……!」
「すき……きょうじゅろう、だいすき……」
「っ皐月……!」

うわごとのように皐月は何度も杏寿郎に対して「すき」だと繰り返した。密着した胸から伝わる皐月の鼓動に全ての身を任せたくなってしまう。杏寿郎は腕の中にある自分より小さく頼りなげな体を、決して壊してしまわないようそっと抱きしめた。



◆◆◆



寝てからどれくらい時間がたっていたのだろうか。体を揺さぶられた。緊急事態なら怒声が入るはずだ。誰かに嫌がらせでもされているのかもしれない。

僕は理由をつけて、そのまま固く目を瞑った。さらに揺さぶられる。断固として起きるのを拒否していたら頭をこづかれた。かなり痛い。

いやいやながら重い瞼を開くと、ここにはいないはずの男が横から僕の顔をのぞき込んでいた。

「杏寿郎……!?」

どうして杏寿郎がここにいるんだ。ぎょっとして体をこわばらせていると、杏寿郎はそのまま無言で僕の布団の中に入ってきた。

何で無言でゆっくり入ってくるんだよ!
しかも何で素っ裸なんだよ!

僕はと言えば、どう反応したものか固まっていたが、このまま組み伏せられるのも何なので、ゆっくりと体を起こそうとした。が、杏寿郎に肩を押し込まれて、そのまま起きようとした体は布団の上に沈められた。

「杏寿郎……っ」

何のつもりだと聞くと間髪入れずになんでもないと返ってきた。いやいやいや。何でもなくないから聞いてんだろうがとイラっとするが、杏寿郎はこっちの言うことなど聞いていないらしい。

杏寿郎。また声をかけると、あの大きく特徴的な目がギロっとこちらを睨んだ。

「……ッ」

──違う。杏寿郎じゃない。
僕はその目を見てすぐに気が付いた。
こいつは、煉獄杏寿郎の形をした偽者だ。

「ッ、はな──ぅぐ!!」
「しー……」

大声を出そうとした瞬間、強い力で口元を手で覆われた。人差し指を唇の前に立てた杏寿郎の偽者は愉しげに薄ら笑いを浮かべて僕の服に手を掛けてきた。

「あの鬼殺隊員にも種を植えておいて正解だったな……。俺の本体はもう動けないが、この“実”はもうここまで自由に動かすことができる」
「ふぅーっ!ふぅーっ!」
「怖がらなくてもいい。俺が欲しいのはお前の体だけだ。命までは奪わない。お前は大事な稀血の苗床なんだ……簡単には殺さない」
「うぅぅ……!!」

何の話だ。何のことを言っているんだこいつは。
息が苦しい。なんて力で押さえ込んでいるだ。杏寿郎のなりをしているから余計に抵抗感が薄まってしまう。早く手を打たなくてはいけないのに。

「お前の実は今頃俺本体を助けに山へ向かっているだろう。あいつにはマッチを持たせてやった。忌々しいあの山を燃やし尽くしてやる。そして俺が無事に抜け出せられたら、二人きりで幸せに別の山で過ごそう。なあ?」
「……っ」
「毎日毎日、俺の種をお前に植えてやるよ。そしてうまそうな実をつけて、俺の腹を満たしてくれ。お前が苗床として立派に機能できたときは、あの方にも認めてもらえるかもしれないしな……」
「ぐ、ぅぅ……!」

早く、早く逃げなくては。こいつは煉獄杏寿郎ではない。一発ぶん殴って、それからここから逃げ出して、鬼殺隊の方々に助けを求めれば──

「逃げられると思うなよ」
「ぅぐぅ!!」

頭の中で逃げるための算段を考えていると、目の前の偽者が突如首を絞めてきた。ぎりぎりと肌を締め付ける音が聞こえ、酸素がどんどん頭の中から逃げていく。

「馬鹿な考えはよせ。お前の体と命さえあれば他などどうでもいい。今ここで逃げ出さないよう手足をもいでやってもいいんだぞ」
「う……ぅ……」
「心身の不調は実の味にも影響を与えるから敢えて五体満足でいさせてやっているんだ。俺をあまり怒らせるな」
「……ッ」

こわい。いやだ。死にたくない。
杏寿郎、どこにいるんだ。どうしてお前はいつも僕の側にいてくれないんだ。どうして守ると約束したのにいなくなってしまうんだ。

何で、僕がこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。

「不遇だなぁ。まあ、持って生まれた自分の血を呪うことだな」

お前は稀血の人間なんだから──偽者の杏寿郎がはっきりとそう告げた時、意識が朦朧とし始めていた僕の頭の中で古い記憶が蘇った。

『杏ちゃん危ない!』
『皐月……っ!』

血だ。杏寿郎の顔に飛び散った真っ赤な血。僕の血だった。

『稀血の人間か!』

僕は、稀血の人間。
祖父が、僕を決して屋敷から出そうとしなかった理由。杏寿郎と一緒に屋敷を抜け出した後に、二人して死ぬほど叱られた理由。どれも、僕を守るためのもの。

僕が鬼に傷を負わされたのは自分のせいだと謝って、祖父に土下座した杏寿郎の姿を思い出した。責任をとって、自分の一生をかけて面倒を見ていくと約束していた。

屋敷から連れ出してくれと頼んだのは、僕の方からだったのに──

「ぅ……ぅぅ……」
「泣いてるのか。くく、そう怖がるな。見えてるのは間違いなくお前の一番好きな奴の姿だろう?」
「ぐっ……はな、せ……ッ!」
「随分活きのいい奴だ……気に入った。お前を俺の嫁にしてやろう」

偽者はそう言うと僕の首を絞めている手とは反対の手で顎を掴んできた。品定めするような目で見られてひどく不愉快だった。

「な、に……バカなこと……っ」
「全てが片付いたら特別な種を植えてやる。体を作り変えて雌にしてやろう。鬼と稀血の人間で品種改良してできた実はどんなものか見てみたい」

狂っている、この鬼──虫唾が走る。忌々しさが水のように胸に流れ込んできた。

よくも、杏寿郎の顔でそんな下衆な台詞を言ってくれたな──!

「ッ、コイツ……!」

力を振り絞って首を動かすと、偽者の手に思い切り強く噛み付いてやった。鉄臭い味が口の中に広がって、ゴワゴワした食感が舌の上を転がる。べっと吐き出すと、食いちぎった偽者の肉片が布団の上に落ちた。

「テメェ、よくも噛みやがったなァ!」
「……っ!」

振り上がった手が頬を打った。口の中が切れたのか、ジクジクと痛みが走る。口の中は既に鉄臭くて自分の血かどうかもわからない。

「上等だぜ……テメェがそういう反抗的な態度を取るつもりならこっちにだって考えがある」
「ゔっ!」

今度は腹部を殴られた。胃液が一気に逆流してくる感覚が喉元まできた。万全でない体には今の一発はかなり堪えたようで、すぐに意識が遠のいていく。

「たっぷり可愛がってやるよ……皐月」

名前を呼ぶな──僕の声は、声とならず意識とともに闇に飲まれた。




  



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