藤色の焔 | ナノ


飢えて、乾いて、餓えて、飢えて

ひりつく様な痛みさえ通り越して永らく、苦しみだけが体を支配していた。
永劫の苦痛に身を捩り、赤い涙を溢してのたうち回り、喉の渇きにただもがく。その飢えを満たせるのならばその身を開き、血肉を捧げ、魂だって売っただろう。

だがもはや売り飛ばす魂もなく、無惨様にも見限られた今では昔の面影もない醜い姿に枯れ果ててしまった。血はカラカラに乾き、負債だけが膨れ上がる。だから、このような暗闇の中で暖かな呼気を感じた時は夢ではないかとさえ思った。

しかしそれは夢ではなかった。
血肉を持ち、脈打つ心臓を持ち、確かな現実として立っていた。

涙で膜を張った眼が暗闇から現れた俺の姿を捉えたとき、どんな風に映っていたのか。
恐怖に震える彼を見て少し愉快になった。 冷たい空気が這う洞窟の中に浮かび上がる俺の姿は、どんなに恐ろしげだっただろう。それとも、惨めたらしい鬼の成れの果てのようだっただろうか?

必死に声を押し殺そうとしてもどうしても漏れ出てくる暖かな呼気が心を浮き立たせる。
あの首に歯を突きたてて、暖かな鼓動を感じながら、命の源を全て吸い尽くせたら、どんなに素晴らしいだろう。

獲物の撒き散らす恐怖の匂いが、暗闇の中、塗料のように道に残っている。獲物の怯え、恐怖、興奮、そして絶望。それらをじっくりと舌の中で味わい、闇の中、己の手足を伸ばした。

あれは間違いなく稀血の人間。匂いでわかるのだ。大昔に一度だけその血肉を口にしたことがある。俺がまだ下弦の鬼として人を喰らっていた頃だ。口にした途端、己の力が膨れ上がるのを感じた。

もっと喰わねばと手を伸ばしたが、気がつく頃には骨すら残っていなかった。俺は、しっかりと味わわずに喰い尽くしてしまったことを後悔した。ただの人間ならば、山になりを潜めていればいつでも喰えるというに。何故稀血の人間はこんなにも数が少ないのか。

もう一度喰いたい。あの血肉を、たらふくいっぱいに。だが今度は喰らい尽くしてはいけない。生かして、増やして、増えた分だけ喰べるのだ。煩わしい人間同士の性交など必要ない。苗床として稀血の人間に種を植え付け、植物のように育てる。そうして育って実をつければ、稀血の人間が増えるのだ。それが俺には出来る。

さあもう苗床の準備は整った。種も植え付けた。これでもうこの人間は命が枯れるまで己と同じ稀血の人間を増やしていくことになる。

さぁ育て。早く育て。うまい実をつけ俺のこの飢えと乾きを潤してくれ。

育て。育て。もっと、大きく、そだ──



◆◆◆



苦しい。呼吸がしづらい。
体中のあちこちに痛みと熱が走る。熱を持った石がいつまでも体の中を暴れ回っているみたいだ。

「皐月!早く!」

──杏寿郎?
どうしてそんなに急ぐんだ。もっとお前と一緒に遊びたい。僕を置いていかないでくれ杏寿郎。

「杏ちゃん待ってよぉ」

ああ、足が重い。足が自分のものでないかのように冷たかった。体は熱くて仕方ないのに、どうしてこんなにも足は冷たいのだろう。真冬の池の中に足を突っ込んでいるようだった。

「時間がないから早く!」
「もう疲れたよぉ」
「なら俺が背負ってやる!」
「えっ!やだよ!そんなのカッコ悪いもん!」
「なら急げ皐月!日が暮れてしまうぞ!」
「うぅ〜……」

まだ大丈夫だろう。日だってまだ昇っているし、そんなに急がなくても大丈夫だ。だからもっとゆっくり、ゆっくり歩いてくれ。
ほら、少し進めばもう目的地は目の前だ。急ぐ必要なんかないじゃないか。だからもっと僕と一緒に遊んでくれよ杏寿郎。屋敷に帰ろうなんてつまらないことは言わないでくれよ、杏寿郎。

「大きくなるといいな!」
「うん。……でも、僕は屋敷から出ちゃダメだから大きくなっても食べられないかも……」
「大丈夫だ!大きくなったら俺が皐月の分まで採って来てやる!」
「……ほんとう?」
「ああ!約束する!」

違うんだ杏寿郎。僕は、あの屋敷からお前に連れ出して欲しくて言ったんだ。僕を屋敷から連れ出して、どこか遠い知らないところへ連れて行って欲しかったんだよ。お前の側に、ずっと居たかったんだ。

「山を降りよう、皐月!屋敷へ急ぐぞ!」
「……うん」

帰り道は寂しかったな。行く時は長く感じた道のりが帰りの時は短く感じた。もっとお前と遊びたかったからなのかな。

帰りたくなくてゆっくりゆっくり歩く僕を早く早くと急かして、二人で山を降りていく途中──僕は生まれて初めて鬼と出会った。

でも、そこから先のことを僕はほとんど覚えていない。思い出そうとしても、浮かぶ記憶はどれも断片的なものでしかなく、最後はあやふやなまま消えてしまう。

ようやっとして思い出せるのは、僕の祖父に向かい土下座している幼い頃の杏寿郎の姿だった。





「……きょ……ちゃ……?」

ふと、目を開けると、うつつな渋い網膜に人影が映った。誰だろう──確認しようと首を動かそうとしたが頭が重くて動かない。視線だけを向けると、滲んだ人影がこちらを振り返るような仕草を見せた。

「ああ、目が覚めたんですね」
「……?」

この人は、誰だろう。記憶の中に存在しない人だった。明確になりつつある視界に女性の優しい微笑みが浮かんだ。

「ご自分の名前は言えますか?」
「…………は、い……」
「返事ではなく、名前を言ってください」
「……皐月、です……琴乃葉皐月……」
「はい。間違いありませんね。意識はきちんと回復できたようで何よりです」

そう言って傍に立つ女性は何かに筆を走らせた。ここはどこなのか、自分が誰であるかを女性はまだ語ろうとしない。僕の身に一体何が起きたのだろう。わからないことだらけで頭の中がまったく整理がつかない。

「混乱されてるでしょうから、まずは私の名前だけ教えておきますね。私は鬼殺隊蟲柱の胡蝶しのぶです」

──鬼殺隊の柱? こんな、美しく可憐な女性が杏寿郎と同じ鬼を狩る鬼殺隊員だって?

にわかに信じられず、僕は胡蝶さんの美しい顔をじっと見つめた。こんなにも優しそうな笑みを浮かべる人が、果たして鬼を殺すことができるのだろうか。

「なんだかまだ茫然としていますね。因みにここは蝶屋敷といって、まあ……治療所のような場所です。どうして自分がそんな治療所にいるのかご存知ですか?」
「……ぁ……お、に……」
「はい。あなたが月蝕山で鬼に襲われたからです。煉獄さんから血鬼術を使われたかもしれないと聞きましたが、体に何か異変は──」
「杏寿郎……?」

ふと、意識を失う前に見た杏寿郎の背中を思い出した。そういえば杏寿郎は無事なんだろうか。

「杏寿郎、は……」
「あの人は無傷です。柱なんですから、まあ当然のことなんですけども。それよりも気にすべきはあなたの方ですよ。ここに運ばれてから、酷い熱が続いてたかと思えば急に冷たくなったりと……うなされていたようですし、煉獄さんも心配されていましたよ」
「……どこ、に……」
「煉獄さんですか? さあ……もしかしたらまた、藤襲山に行ったのかもしれませんね」

藤襲山に? 既に鬼殺隊員である杏寿郎がどうしてまたあの山に行く必要があるのだろう。
僕は一刻も早く杏寿郎の無事を確かめたいのに。杏寿郎は僕を置いて行ってしまったのか。

「……もしかして会いたいんですか? 駄目ですよ、あなたにかけられた血鬼術の正体がわかるまでは」
「……いつ、会え、ます、か……」
「そうですねぇ……」

胡蝶さんは苦笑いを浮かべながら唸ると、ふっと何か吹っ切れたようににこりと笑った。

「あなたに血鬼術をかけた鬼から術を解く手掛かりを吐き出させれば早く会えるかもしれませんよ」
「そん、な……」

そんなの無理だ。だって、あの鬼はもう杏寿郎が殺してしまった。生きているはずがない。どうしたって無理な話をするなんて、この人は意外と意地が悪いんだな。

「そんな暗い顔をしないでください。大丈夫ですよ。煉獄さんが今頃、生け捕りしたあの鬼を藤襲山で拷問しているでしょうから」
「……え?」
「トドメを刺さなかったんです、あの人。そこはさすが柱と言うべきでしょうか。何にせよ、あなたにはまだここで安静にしていてもらいますから大人しくしていてくださいね」

ではまた来ます──そう言い残し、胡蝶さんは部屋から出て行ってしまった。静まり返った部屋の中で、僕は一人動かない視界の中で古い天井だけを見つめていた。



◆◆◆



燃え上がるような激痛と、ミシミシと砕かれていく脊髄の感触に頭が焼き切れそうになりながらも、鬼はたたらを踏んでこらえた。倒れたらおしまいだった。

だが鬼の努力もむなしく、数歩後ずさった鬼の肉体は本人の意思に反して糸の切れた操り人形のように背中から倒れ、吹きあがった血が辺りを汚した。大きく開いた腹の穴から、ちぎれた臓物と肉片が飛び散った 。その腹を上から力任せに踏まれ、食いしばった歯の間から悲鳴が漏れた。

「まだ話さないつもりか」

蹂躙者は人間とは思えぬ凶悪な面相で問い、腰を落として刀を振り上げた。

「ギィッ……!」

鬼はとっさに蔓を顔の前で交差してそれを防ごうとした。はずだった。蔓の幹がメキリと嫌な音を立てて砕け、自分の顔の上に星のように落ちてきたそれを鬼は最後まで見る事ができなかった。

「簡単に死ねると思うな。皐月に手を出した貴様には、地獄の業火に身を焼かれる方がマシだと思うほどの苦痛を味わってもらう」

鉄砲玉のように拳が鬼の頭部を破壊し、頭蓋にめり込んだ。何か重いものを打つ音がして、鬼の意識はすっ飛んで、あとはもう、真っ暗だ。

いつも通りの、真っ暗闇。




  



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