藤色の焔 | ナノ


山を降りる途中、僕の先を歩いていた杏寿郎が突然足を止めた。何も考えないまま歩いていた僕も、突然足を止めた杏寿郎のすぐ後ろで足を止めた。急に立ち止まってどうしたんだろう。

「ふむ……妙だな」
「え?」

辺りをキョロキョロと見渡す杏寿郎の顔はいつになく険しい。何かおかしなことでもあるのかと僕も辺りを見渡してみるが、周りには鬱蒼とした森林が見えるだけで特に変わったところは見受けられない。

「ここまで降りればこの傾斜もなだらかになる筈だ。だが進めど進めど、この辺りの景色は変わらないままで傾斜もそのままだ」

何かがおかしい──そんな杏寿郎の言葉に最初は何の話だと思っていたが、改めて周りを見てみると確かに少し変な感じがした。まるで同じ場所の景色を切って貼り付けたような、そんな錯覚を起こさせるような風景が目の前に続いている。

「……まさか、迷ったんじゃないのか?」
「いや……」

カチ、と聞き慣れない小さな音がすぐ近くで聞こえた。視線を下ろすと、杏寿郎が自分の腰に携えていた刀に手を掛けていた。

「杏寿ろ──」
「皐月、俺の側から離れるな」
「えっ」

庇うように手を前に出してきた杏寿郎の言葉の後、ズルズルと何かが地面を這うような不気味な音が聞こえた。何の音だと思い耳を澄ますと、その音は自分の背後から近付いているようだった。

「なに──」

確かめようと振り返った瞬間、突然何かに足首を掴まれた。

「うぁッ」
「皐月!」

足元をすくわれ視界が反転した。背中を地面に打ちつけ、土と枯れ葉が跳ねるのが見えた。仰向けに倒れたことで目の前に広がった木々の隙間が目の前を流れて行く。

自分の身に何が起きたのか理解する頃には、僕の足首を掴んだ“何か”が、僕の体を凄まじい速さで引きずっていた。

「うわあああああーッ!!」
「皐月ーッ!」
「杏寿郎ォッ!いやだっ!きょうじゅろぉぉぉ!!」

落ちていた小枝や小石が跳ねて皮膚を切った。咄嗟に両腕を交差させ顔を守る。滑る背中が地面を引きずり、砂埃が上がった。

何だこれ。何なんだこれは。一体何が起きているんだ。誰が、僕の足を掴んで引っ張っているんだ。

砂埃が入らないように細めていた目をどうにか開いて、引っ張られ続けている自分の足首の方へ視線を向けた。

「ヒッ……!」

見えたのは、血のように真っ赤な色をした太い触手のようなものだった。引き摺られているせいでよくは見えないが、植物の葉のようなものも生えているように見える。あれは蔓だろうか。

どうして蔓なんかが僕の足に──!

「……ッいやだああぁっ!!きょうじゅろう!!きょうじゅろぉ!!」
「炎の呼吸!壱の型──不知火!!」

訳がわからず杏寿郎の名を泣き叫ぶと、瞬きの間に自分の足を掴んでいた蔓が千切れた。何かが燃えたような焦げ臭さが辺りを覆う。気が付けば、僕の目の前に杏寿郎が背を向けて立っていた。

「皐月!無事か!」
「ぁ……」

涙でぐしょぐしょになった顔を上げると、僕の方へ顔を振り向かせた杏寿郎が見えた。鞘から抜かれた刀が赤色を帯びている。まるで火で熱された刀のようだ。

「まだ昼間だというにもかかわらず鬼が出るとは……目測を見誤ったな!柱として不甲斐なし!」
「杏寿郎……ぃ、ま……のは……」
「鬼だ!それも血鬼術を使えるらしい!」

杏寿郎の答えに背筋が凍った。鬼なんて、こんな日の出た時間には出ないだろうと思っていたのに。
体がガタガタと震えて、脚に力が入らない。恐怖ですっかり腰が抜けてしまっていた。

「皐月!立てるか!」
「む、りだ……」
「山を今すぐにでも降りなければ危険だ!狙われているのは恐らく俺ではなく──」
「ッあ」
「!!」

ズル、と、またあの足を掴まれる感覚がした。気付いた時にはもう、目の前にいた杏寿郎との距離が離されていた。

「杏寿郎!!」
「皐月ッ!!」

今度はうつ伏せに引き摺られ、体勢のせいもあり守りきれない皮膚に切り傷が増えていく。僕は死にたくない思いでがむしゃらに手を伸ばした。柔らかな土に自分の指を突き立て地面へしがみつこうとする。

「ぐうぅ……っ!!」

踏ん張ってみるも、僕の足掻きは地面に長い線を残すのみに終わる。土と枯れ葉が掻き寄せられ手のひらのうちにどんどん溜まっていく。

「っきょうじゅろぉぉぉ!!」

自分はここにいると伝えるように、見えなくなった杏寿郎の名を引き摺られながら叫んだ。擦り切れた皮膚に土がついて痛みが増す。一刻も早く助けて欲しかった。

「嫌だァッいやだいやだぁぁッ!」

男のくせに情けなく泣き喚いて、ろくな抵抗になってもいない無駄とも思える足掻きを続ける。そうこうしているうちに、自分の体を引きずっていた地面の感触が変わった。

冷たくて湿っている。これは岩肌だ。僕は洞窟の中に引き込まれたのか。

蔓は僕の足を掴んだまま未だにズルズルと引き摺り続けている。このまま奥まで引き込まれるとどうなるのか──想像に容易かった。

「いやだ……ッいやだぁ!」

死にたくない──こんな暗くて寒くて怖いところで死にたくない。

「うわあああッ!!きょうじゅろぉぉぉっ!!」

喉が潰れることもいとわぬ大声で杏寿郎の名を叫んだ。この状況を打破するためなら何だってしてやると思いながら──

僕は手を振り回し、たまたま手の甲に触れた岩を掴んだ。切っ先の鋭い刃物のような形をした岩だった。僕はもう何も考えないまま思いつきだけでその岩を自分の足首を掴む蔓に向かった投げ付けた。岩は蔓の葉を折り、折れた先から何かの液体が散った。

「ギィッ……!!」

その時、洞窟の奥から悲鳴が聞こえた。驚いている間に、僕の足首を掴んでいた蔓がゆっくりと僕の足から離れて洞窟の奥へと消えていった。どうやら蔓の根元はあの奥にあるらしい。

声が聞こえたが誰かいるのか──目を凝らすと、暗闇の向こうで何かが蠢いた。ズルズル、シュルシュルと、何かが地面を這うような不気味な音も聞こえる。

一体何なんだと、僕は息を切らせながら奥をじっと見つめた。恐怖で立つことができない。今のうちに早く逃げないといけないのに、どうして僕の体は言うことを聞いてくれないんだ。

「……れ、ち……」
「ぁ……」
「まれ……ち……」

凍りつきそうなほどに冷たい声が聞こえた。冷水でも浴びたように体が固まり、その直後に震えが止まらなくなる。

鬼が、すぐそこにいる──

「稀血……の……にん……げ、ん……」
「ぅう……ぅ……」

バクバクとうるさいくらいに心臓が鳴り響いている。まるで警告をするように激しくだ。整わない呼吸を必死に手のひらのうちに収めて息を殺した。暗闇の奥から、何かが這いずって来たからだ。

「ぅっ……ぅぅ……」
「さい、ばい……し、て……」
「……っ!」

動いたのは黒い影だった。ぬめる表面には無数の眼球があった。半透明の身体からは骨格が見えた。背中から一対、羽根のように手が生えていた。顔に目はなく、大きな口だけがあった。びっしりと人の歯が何重にも生えていて、ときおりカチカチと歯を鳴らす。

「ふぅっ……ふぅっ……!」
「うま……そうな、実を、つけ、て……」
「うぅー……っ!」

またあの蔓が、僕の足元にまで這ってきた。必死に腰を引いてその場から逃れようとするが、寄ってくる蔓の数は二本、三本とどんどん増えてくる。

「ひぃっ……!」

そしてついに一本の蔓が僕の足に絡んだ。脚を巻くようにして這う蔓は土に汚れた袴の中にまで侵入してきた。肌襦袢の中で蠢く蔓は、まるで何かを探しているかのような動きで僕の肌の上を滑っていた。

早く、逃げなくちゃ──

「……ッ!」

その時、チクリ、と内股に何かが刺さるような痛みが走った。たったそれだけの痛みでさえ、僕を動揺させるのには充分な痛みだった。

「ぁっ、あ……なに、なに今の……」
「ひ、ひひィ……いいぞぉ……!」
「はっ、はぁっ、はっ……!」
「育て……育て……もっと、大きく、そだ──!!」

まるで呪文のように唱えていた鬼の言葉が、ふいに止んだ。ずるりと、鬼は崩れ落ちた。首から、真っ赤な血が噴出した。血に濡れた獣が鬼の首筋に食らい付いていた。強靭な顎が首の半分を食いちぎる。ブチンと音がして、かくんと鬼の頭が横に垂れた。

「あ……」

そして次に瞬いた時──その獣は、紅に染まる刀となっていた。

涙に濡れた顔を上げると、目の前には、炎を背負う男の姿があった。

「……きょうじゅろ……」

名を呼べば、何度も見てきた杏寿郎の金糸の髪が揺れる。僕の方へと振り向こうとしていた杏寿郎だっだが──

その顔を見るよりも先に、僕の意識が闇に飲まれた。




  



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