藤色の焔 | ナノ


杏寿郎の手はいつも温かい。今も昔も変わらずそうだ。僕の手は死人のように冷たくて白いから、いつも温かい杏寿郎の手が羨ましいと思う時がある。そういう時は、決まって杏寿郎に手を繋がれた時なんだ。



「……杏寿郎、どこに行くの?」

僕の手を引いたまま真っ直ぐ前を歩いている杏寿郎に、僕は繋がれた手を見つめたまま尋ねてみた。この辺りは山に囲まれていて本当に何もないから、たまに来る商人からか買い出しに出掛ける祖父経由からでしか物は手に入らない。田舎も田舎、ど田舎だ。

遊びに行けるようなところなんてないのに一体どこへ連れて行くつもりなんだろうか。

「裏山の月蝕山だ!」
「えっ? でもあそこ……何もないよ?」
「いや、ある!」
「何もないったら……」
「ある!!」
「うわ、うるっさ……」

僕より足の速い杏寿郎は僕の前をずんずんと進んでいる。手を引かれる僕はそれについて行っているんだけれど、少しでも僕の歩く速さが落ちてくると杏寿郎も僕に合わせて歩く速さを落としてくれる。

それが何だか申し訳ないような、少し悔しいような感じがして、僕は無理にでも早く歩こうとした。そうすると杏寿郎がこっちに顔を振り向かせて「無理はするな!」と笑顔で言ってくるのだ。

それに僕が反発して「無理なんかしていない」と強い口調で言い返すと、杏寿郎は「そうか!」と言って再び顔を前へと向けた。それでも杏寿郎は歩く速さを少しずつ落としてくるので、僕は段々と近くなる杏寿郎の広い背中を手でぶっ叩いた。前を歩く杏寿郎から「よもや!」と笑い声の混じった声が聞こえた。



◆◆◆



「皐月、こっちだ!」
「っ、わかってるよ……!そんな強く引っ張るなって……!」

山に入ってからも、杏寿郎は慣れた足でぐんぐんと山を登って行った。迷いなく獣道を選んで進んでいる辺り、杏寿郎はこの山を何度か登っているようだ。僕はもうヘトヘトになって歩くだけでも精一杯だ。

「足元に気を付けろ!」
「わかってるって……!」

ゼェゼェと息を吐きながら急斜面を登る。対して目の前に立つ杏寿郎は汗一つかいていないし息も乱れていない。さすが鬼殺隊の柱だと認められるだけある。僕はもう杏寿郎の体力について行けそうにない。

「杏寿郎……ちょっと、疲れた……休みたい……」
「そうか!しかしこんなところで休んでいては目的地に到着する頃には日が暮れてしまうぞ!」
「お、お前と……僕は、違うんだからっ……ちょっとは、後先のこと、考えろよ……!」
「うーむ」

踏みつけた小枝が足を傷付けたのか、さっきから足がズキズキとして痛いし呼吸がしづらい。一体どこまで登ってきたのだろう。こうなるまで空気が薄くなっているのことに気付けないなんて、田舎育ちの男として情けない。

「よし、わかった!ではこうしよう!」
「え?」
「少し失礼するぞ、皐月!」
「えっ、ちょ……なにっ?」

屈んだまま動けないでいる僕に、目の前に立っていた杏寿郎は突然両手を伸ばしてきた。何をされるのかと慌てているうちに、杏寿郎は僕の背中と膝裏に腕を回して一気に胸の高さまで持ち上げだした。あまりにも唐突過ぎて一瞬頭の中が真っ白になってしまった。

「うむ!これなら行けそうだな!」
「……っな、何やってんだよ馬鹿!」
「ん? 皐月がもう歩けないと言うのなら俺が目的地まで運ぼうとし──」
「降ろせ!降ろせ阿呆!ばかぁっ!」
「しかし皐月!お前、足を怪我しているだろう!無理は良くな──」
「降ろせってばぁ!」
「うーむ」

同じ男だというのにこうも簡単に持ち上げられたことがどれだけ屈辱的なのか、こいつにはきっと一生わからないだろう。僕は懸命に手足をばたつかせて杏寿郎の手から逃れようとした。

「皐月、あまり興奮すると呼吸が──」
「あーもぉーっ!馬鹿!早く降ろせっ……て、ば……ハァッ……」
「皐月?」

苦しい。肺が痛い。頭痛がする。
杏寿郎がこんなところに連れてくるからいけないんだ。休みたいって言ったのに、無理矢理連れて行こうとするから──

「皐月、大丈夫か!?」
「ハァッ……ハァッ……」

いいからもう降ろしてくれ。まだ日は暮れないだろうが、時間に余裕を持って山を降りないとこの速度じゃ間に合わなくなる。
伝えたいことは沢山あるのに、息が苦しくて言葉がなかなか出てこない。

「皐月、しっかりしろ!」
「これくらい、大丈夫だよ……!ちょっと、息苦しいだけ……!」
「無理をするな!」

またその台詞か。無理をするな、無理をするなって、お前と出掛けることができるなら多少の無理だってする。もう二度とこんな経験できないかもしれないんだから。

「大丈夫……少し、落ち着いてきた……」
「皐月……やはり山を降りるか?」
「馬鹿。お前が行くって言ったんだろ。僕は自分の足で歩くから、道案内しろよ」

そう伝えれば杏寿郎は複雑な表情を見せながらも僕を地面に降ろしてくれた。やっぱり足はズキズキと痛むが、歩けないほどじゃない。なるべく杏寿郎の顔を見ないようにして僕は先に歩き出した。

「ほら、行こう。この先なんだろ」
「……ああ」

いつになく暗い声の杏寿郎に思わず振り返りそうになった。さっきまでわあわあと騒いでたくせに何故そんな急に落ち込んだ声を出すのか不思議に思った。だけど僕は後ろを振り返らないままゆっくりと歩みを進めた。



山登りなんて久々だった。
最後に登ったのはもう何年も前になると思う。そうだ、そう言えばあの時も杏寿郎が一緒にいたような気がする。どの山だっただろう。出会ったのは藤襲山だけど、あの山を一緒に登ったのは祖父だったから最後に登った山ではないだろう。

断片的な記憶を思い出しながら無言で山を登って行く。あれから杏寿郎は一言も言葉を発しない。杏寿郎が大人しくしているなんて珍しいこともあるもんだ。いつも声がデカくてうるさいくらいなのに。今は静か過ぎて不気味に思うくらいだ。

ちゃんと付いてきているのだろうか──少しだけ不安を感じて、僕は確かめるべく背後を振り返った。

「ん? どうした?」
「っ、何でもない!」

ちゃんといた。それもすぐ後ろに。隙間がほとんどないくらい距離を詰められていた。なのに足音がほとんど聞こえない。軽く恐怖を覚えた。

「……もうちょっと、離れろよ」
「何故だ?」
「近い」
「近いと何か問題でもあるのか?」
「気になる」
「俺は皐月と片時も離れたくない。お前のそばにいられるのなら、前でも後ろでも隣でも大歓迎だ」
「だからっ……そういう恥ずかしい台詞を言うなよお前は!」
「どこが恥ずかしいんだ?」
「そばにいる、とか……離れたくないとか……言われるとなんかむず痒くなるんだよ!」
「そうか!だが俺は言われると嬉しいと思うぞ!」
「……っ」

誰かに言われたことがあるのか。

言いかけた言葉は声にならずそのまま喉の奥へと消えていった。何故そんなことを訊こうとしていたのか自分でもよくわからなかった。僕は小さく首を傾げて考えた。

言われたとしてもきっと弟の千寿郎くんぐらいだろう。杏寿郎にそんな恥ずかしい台詞を言える身近な奴なんて千寿郎くん以外に存在しない筈だ。

でもそこまで考えて、僕は杏寿郎と過ごした思い出が限られた場所で限られた時間の中でしかないことに気が付いた。僕の知らない場所で、杏寿郎が僕の知らない人とどう過ごしているかなんて屋敷にしかいられない僕は知る由もない。

もしも、杏寿郎にそんな恥ずかしい台詞を言える女の子が現れていたら──

「……皐月?」

杏寿郎に名前を呼ばれてハッとした。気が付いたら、自分の一歩前に杏寿郎が立っていた。いつの間にか足が止まっていたらしい。僕の方に顔を振り向けた杏寿郎は不思議そうな目で僕を見ていた。

「どうした。また具合でも悪くなったか」
「違う!」

伸ばされた手を振り払った。なんだか胸がむかむかする。自分で想像しておいて、何故こんなにも腹立たしい気持ちになるのかよくわからなかった。

「皐月」
「ねぇ、まだ着かないの? まさかこのまま頂上まで登るつもり?」
「いや、そろそろ着く頃だ」

杏寿郎が僕に向けていた顔を前へと逸らした。視線の先には、伐採された風にも見えないくらい整えられている拓けた場所があった。暖かな日の光が上から差していて、その場所だけがやけに神々しく見えた。

「あ……」

その時、すごく懐かしい感覚がした。あの場所は見覚えがある。確か、今よりももっと日が沈んでいた頃だった。僕は誰かと一緒にここに来たんだ。

「やっと着いたな!」

立ち尽くす僕の横を杏寿郎が通り抜けた。その際、ごく自然に手を繋がれて引っ張られたので僕は転けそうになりながらもなんとかその場に踏みとどまった。

「ちょっと……!」
「こっちだ皐月!」

『こっちだ皐月!』
「……!」

重なる光景──そうだ、杏寿郎だ。
あの日、最後に僕と一緒に山登りしたのは杏寿郎だった。そして、登った山は間違いなくこの山だ。

『皐月!早く!』
『杏ちゃん待ってよぉ』
『時間がないから早く!』
『もう疲れたよぉ』
『なら俺が背負ってやる!』
『えっ!やだよ!そんなのカッコ悪いもん!』
『なら急げ皐月!日が暮れてしまうぞ!』
『うぅ〜……』

日も沈みかけた頃、杏寿郎と僕はこの山に登って遊んでいた。祖父が帰ってくる前に屋敷へ戻れば大丈夫だと、確かどちらかが言い始めて屋敷を抜け出したんだ。杏寿郎が僕の手をガッチリと握りしめて山まで連れて行ってくれた。

日が沈むと鬼が出るから早くと杏寿郎に急かされながら、僕は息絶え絶えになりながらもなんとか山を登った。そして、この場所に杏寿郎が連れて来てくれたんだ。

「皐月、もう少しだ!頑張れ!」
「っ、引っ張るなって馬鹿……!」

あの日のように興奮した様子でグイグイと手を引っ張って、ようやく辿り着いた場所にはポツンと一本の木が生えていた。

「……柿の木……?」
「うむ!今年も立派な実りだ!」

腕を組んで柿の木を見上げる杏寿郎はとても嬉しそうに笑っている。確かに、一本だけ生えている柿の木にはとても艶やかな実がなっているが、こんな山で手入れもなく生えている柿の木がここまで成長するものだろうか。

「皐月はまだ食べたことがなかったな!」
「え?」
「去年は台風もあってほとんど駄目になってしまったが、今年はうまそうに実をつけてくれた!」
「……杏寿郎、あれ食べたことあるの?」
「あるぞ!味見程度にな!次は収穫して皐月の元まで持って行ったが、部屋から一向に出て来てくれなかったので持ち帰った!千寿郎と一緒に食べたが実にうまかったぞ!」
「……そう、なんだ」

そういえばこの時期になると、杏寿郎がいつも柿とか栗とか芋とか色々持って来てたっけ。意地張っていつもいらないって突っぱねてたけど、こんな所まで採りに行ってくれてたのならもらっておけば良かったな。

「……あの、ごめ──」
「どれ!今年の実はどれ程のものか食べてみるとしようか!」

謝ろうとしたところで杏寿郎は突然走り出してしまった。引き止める暇もなく杏寿郎は柿の木を登っていく。それも、木につかまって登るのではなく跳び上がって足のみで登りきってしまった。

並ならぬ飛躍力に圧倒されているうちに、杏寿郎は一際太い枝に着地すると柿の実を二つほどもいであっという間に降りてきた。

「皐月!」

嬉しそうな笑顔を溢れさせ手を振りながら駆け寄ってくる杏寿郎。腕に抱いた柿の実は艶々と輝いていてとても美味しそうだ。

「綺麗なものをもいできた!どちらか好きな方を選ぶといい!」
「えっ……あ、僕は別に……どっちでも……」
「ならこっちの大きな方をお前にやろう!」

杏寿郎から差し出された柿は確かに大きくて、手に持つとほどほどにずっしりとしている。形を確かめるように柿を手で包み込む僕を、杏寿郎は口角を上げたまま爛々とした目でじっと見つめてきた。早く食べろとでも言いたいのか。

「……いただきます」
「うむ!いただきます!」

僕が一口柿を齧ると杏寿郎も続けて柿を食べた。
口に入れた瞬間、予想を超えた甘味が口の中いっぱいに広がって、咀嚼するたびシャリシャリと歯触りの良い食感がした。肉厚で甘味も濃縮されていてとても美味しい。こんな美味しい柿を食べたのは初めてだった。

「美味し──」
「うまい!」

僕の小さな声はいつも杏寿郎の大きな声に塗り潰される。顔を見上げれば、杏寿郎は柿を頬張りながら「うまい!うまい!」と言っている。

一人でここで味見した時もこんな風に叫んでいたのだろうか──たった一人で。

「ブッ」
「ん? どうした!咽せたか!」
「ちが、う……」

あくまでも想像に過ぎないのだが、あまりにも滑稽だったのでつい笑ってしまった。僕は笑った顔を見られないよう懸命に杏寿郎から顔を隠した。

「何故顔を隠す!」
「ちょっと……今話しかけるな……」
「皐月!耳が赤いぞ!」
「見るなって馬鹿……!」
「……笑っているのか?」
「ブフッ」

駄目だ、ツボに入ってしまった。杏寿郎に指摘されただけで笑いがこみ上げて吹き出してしまった。

「何かおかしなことでもあったのか!?」
「おま、え……のせいだよ……!」
「そうなのか!?」

何でか知らないが杏寿郎がさっきから僕の顔を見ようとしてくる。腕を交差させて必死に顔を隠しているのに、杏寿郎は柿を持たない片手の方で僕の片腕を外そうとしてくる。力の強い杏寿郎に引っ張られれば僕の細い腕なんか簡単に剥がされてしまう。

「見るなってばぁ!」
「うーむ、しかし……皐月の笑った顔を俺は見たい!」
「やめろって!そんなの見たって何にもないだろ!」
「もう十年も見ていないんだぞ!」
「もうっ……ふっ、なに興奮してんだよ!」

笑ったせいで、ほんの一瞬だけ力が抜けた。その隙を見計らったのか、杏寿郎はさっきよりも強い力で僕の腕を引いた。あっ、と思う頃には僕の顔を隠していた腕は解かれてしまって──

「…………」
「……っ」

杏寿郎の前に、僕の顔が晒された。

その瞬間、またしてもあの杏寿郎の「うまい!」が頭の中で再生されて、僕はフグのように頬を膨らませると耐えきれずに一気に吹き出した。

「あはっ!あはははははっ!」
「…………」
「もっ、ばかっ……かお、見せんなよぉ!」

止まらない。笑いが止められない。お腹が痛いくらいひとしきり笑った後、僕はお腹を抱えながら滲み出た涙を拭った。

一呼吸置いて落ち着きを取り戻した後、僕は今まで見ないようにと逸らしていた顔を杏寿郎の方へと向けた。

「……な、なんだよ……」
「…………」
「……笑ったこと怒ってるのか」

杏寿郎は茫然としていた。うっすらと口を開けたまま固まった杏寿郎はどこを見ているのかいまいちわからない。無視されてるのかと思って一歩近付くと、僕は杏寿郎の顔の前に手のひらをかざした。そのままひらひらと振って見せようかとしたところで、突然その手を取られた。

「ぁっ……」

本当にあっという間だった。手を取られた瞬間、背中にまで杏寿郎の手が回された。食べかけの柿は地面に落ちてもう見えない。
僕の首元に、杏寿郎の顔があった。しっかりと抱きしめられ身動きが取れない。何故抱きしめられたのか全くわからなかった。

「……なにしてんの」
「わからない」
「抱き締めてるだろ」
「ああ」
「何で抱き締めてるのか訊いてるんだけど」
「……抱き締めたくなった」
「だから、何で──」
「愛おしく思った。皐月のことが」

熱い。密着しているせいか、杏寿郎の熱が伝わってきて体が熱く感じる。熱いと感じているのに心地良く思うのはどうしてだろう。

「……すまない」
「……っ」

背筋を這う手のひらに体が震えた。断片的だった記憶がまた蘇る。

痛い。熱い。苦しい。

『杏ちゃぁん!』
『皐月!!』

そうだ。僕の背中の傷痕──あの日、鬼に傷つけられて、痛くて、傷口が熱くて、息が苦しくて、怖くて、怖くて、怖くて──

「俺が不甲斐ないばかりに皐月を傷付けてしまった。身も、心も、思い出も──」

繋がってしまう。忘れていたものが、消えかかっていたものが全て一つになってしまう。僕が望んでいることなのだろうか。もう止められない。

ああそうだ、この柿の木は、僕と杏寿郎が埋めた思い出の柿の木。

日の暮れかかった頃に屋敷を勝手に出て、杏寿郎と一緒に柿の実を食べながら山へ登った。疲れた歩けない休みたいと喚く僕のことなどお構いなしに、杏寿郎は僕の手を引きながらここまで連れて来たんだ。一緒に柿の種を埋めて、大きくなるといいね、なんて言って笑い合った。

そして日が暮れて、帰ろうとした時に僕は鬼と会ったんだ。初めて出会った鬼だった。すごく、怖かった。

当時女の子だと思っていた杏寿郎を僕が守らなくちゃいけないと思って、武器もなにも持っていないのに、僕を守ろうとしてくれた杏寿郎の前に飛び出した。その時背中をやられたんだ。あの時の杏寿郎の顔を今でも覚えている。

『  の人間か!』

──あれ? あの時、鬼に何か言われたような気がするのに、思い出せない。

またバラバラになってしまう。
ようやく一つになった記憶は全てを思い出す前に消え失せてしまった。

「皐月」
「……っ」
「山を降りよう」

体を離した杏寿郎はそう言って僕の手を取った。あまりにも優しく握りしめるものだから振り払えない。僕は言われるがまま杏寿郎の後について行った。

前を歩く杏寿郎は、もう柿の木の方へ振り返らなかった。




  



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