短編小説 | ナノ

▽ 大人の芸術


「名前くん……元気出してよ」
「…………」

そう言いながら困った顔をして僕の顔を後ろから覗き込もうとしているのは杉元お兄ちゃんだ。でも僕は今すごく怒っていて悲しい気持ちだから元気なんか簡単には出せない。

どうしてかと言うと、今日一緒に動物園に行くっていう約束を由兄ちゃんが破ったからだ。

「また今度行くって言ってたじゃん。ね? だからそんなさ……ほっぺた膨らませてないでこっち向いてよ」
「…………」
「うーん……」

また今度行くって約束しても、由兄ちゃんはきっとまた破っちゃうんだ。今日みたいに知らない男の人たちをお家に入れて、僕を杉元お兄ちゃんに預けて男の人たちと一緒に遊ぶんだ。

僕だって由兄ちゃんと遊びたいのに、由兄ちゃんは杉元お兄ちゃんの家で夕方まで待ってなさいって言った。もう由兄ちゃんなんか知らない。きっと僕よりあの男の人たちと遊ぶ方がいいんだ。

「あっ、そうだ名前くん!お絵描きする!? 確か名前くん好きだったよね〜?」
「……うん」
「よっしゃキタ!やっと口きいてくれたッ!!あっ、待ってて!紙と鉛筆持って来るから!」

杉元お兄ちゃんはそう言ってお部屋の隅っこにある大きなカバンの中を探し出した。ガサゴソガサゴソしながら色んな物を中から取り出している。

「あれ〜……鉛筆……どこやったかなぁ……」
「…………」

今なら、杉元お兄ちゃんも僕の方を見ていないからお部屋をこっそり抜け出してもわからないかもしれない。こっそり由兄ちゃんのお家まで帰って、僕も由兄ちゃんと一緒に遊んでもらえるかもしれない。

「あ、消しゴムはあった!あとは〜……鉛筆〜……」
「…………」

僕はそろりそろりと立ち上がって、杉元お兄ちゃんに見つからないようにして玄関まで向かった。杉元お兄ちゃんはまだカバンの中を探している。だから今のうちにと僕は玄関のドアを静かに開けてそぉっと出て行った。

気づかれませんように、ってお願いしながらドアを静かに閉じたけど、杉元お兄ちゃんがお部屋から出てくることはなかった。脱出成功だ。

「あ……」

でも勝手に一人でお家に帰ったら由兄ちゃんにすごくすごぉく怒られるかもしれない。ううん、絶対怒られる。どうしよう。戻った方がいいのかな。

「……!」

そうだ、アシリパお姉ちゃんに一緒に連れて行ってもらおう。

「……あ」

でも今日ここに来る時にアシリパお姉ちゃんが部活に行くって言ってたから、アシリパお姉ちゃんは今日お家にいない。じゃあどうしよう。尾形お兄ちゃんにお願いしようかな。

でも尾形お兄ちゃんがいる交番まで行くにはバスに乗らなくちゃいけない。僕は今お金を持っていないからバスには乗れない。じゃあどうしよう。

「……あっ」

そうだ、ヴァシリお兄ちゃんにお願いしよう。ヴァシリお兄ちゃんは大人の人だから一緒にいても大丈夫だ。

僕は杉元お兄ちゃんのお隣にあるヴァシリお兄ちゃんのお部屋のインターホンを押した。ピンポン、って音が鳴って少ししたらドアがゆっくり開いた。

「……!」
「ヴァシリお兄ちゃん、こんにちは」

ドアから出てきたヴァシリお兄ちゃんにペコリと頭を下げてご挨拶したら、ヴァシリお兄ちゃんはビックリした顔で辺りをキョロキョロし始めた。どうしたんだろう。

「ヴァシリお兄ちゃん、あのね、えっとね、僕ね、由兄ちゃんと一緒に遊びたいからお家まで連れて行って」
「…………」
「あっ、由兄ちゃんのお家ね、第七団地ってところにあるんだよ。ヴァシリお兄ちゃんわかる?」

僕が首を傾げてきいたら、ヴァシリお兄ちゃんはニコニコと目を細めて笑って頷いてくれた。よかった、ヴァシリお兄ちゃん、由兄ちゃんのお家がわかるんだ。

ヴァシリお兄ちゃんがニコニコしながら手を出してくれたから僕もニコニコ笑いながらヴァシリお兄ちゃんの手を握った。そうしたらヴァシリお兄ちゃんは僕の手を優しく引っ張ってお家の中に入れてくれた。

「ヴァシリお兄ちゃん?」

ヴァシリお兄ちゃんが僕の手をぐいぐい引っ張るから、僕はとりあえず靴を脱いでヴァシリお兄ちゃんのお部屋の中に「お邪魔します」って言ってから入った。

お出掛けするためにお着替えするのかなって思ってたけど、ヴァシリお兄ちゃんは僕をお部屋の中まで連れてきたら畳の上を手でぽんぽんと叩いた。座れってことなのかなって思って、僕はヴァシリお兄ちゃんが手で叩いたところに座った。

そうしたらヴァシリお兄ちゃんは何故か僕を置いてお部屋から出て行ってしまった。どこに行ったんだろうって思いながら、ヴァシリお兄ちゃんが帰って来るのを待ってたら隣の方から杉元お兄ちゃんの叫び声が聞こえた。

ドタバタドタバタガッチャンドタバタ──慌てた音が続いた最後に、ヴァシリお兄ちゃんのお部屋の玄関がバンッて大きな音を立てて開かれた。

ドアの向こうに、杉元お兄ちゃんが怖い顔をして立っていた。

「名前くぅぅぅぅ〜ん!?」
「ぁっ、ぅ……」

見つかっちゃった。どうしよう。怒られる。早く隠れなくちゃ。

僕は近くにあった大きな白い板を取って、それで自分の体を隠した。ドスドスドス、って杉元お兄ちゃんの大きな足音が近付いてきて、がしっと白い板を掴まれた。

「ぬぁんで勝手に出て行ったのかなぁぁぁ〜!?」
「ふぇぇ……」

白い板の横から杉元お兄ちゃんの怖い顔が覗いた。僕は顔を逸らして頑張って杉元お兄ちゃんの怖い顔を見ないようにした。

「もぉ〜ッ!ダメでしょ勝手に出て行っちゃ!ヴァシリが俺に伝えに来てくれたからまだ良かったけど……」
「あっ……」

そうだ、ヴァシリお兄ちゃん。ヴァシリお兄ちゃんはどうしたんだろう。
そっと杉元お兄ちゃんの後ろの方を見てみたら、ヴァシリお兄ちゃんはニコニコ笑いながら僕たちを見下ろしていた。

「ヴァシリお兄ちゃん、何で杉元お兄ちゃんに教えちゃったの?」
「コラ!まずは反省しなさい!」
「ごめんなさい……」
「あーもぉー素直でよろしい!しょうがないから許す!」

そう言うと杉元お兄ちゃんはやっと怖い顔をやめてくれた。ホッとしていたら、ヴァシリお兄ちゃんが突然僕が持っていた白い板を上から取り上げた。

ヴァシリお兄ちゃんは白い板を持ちながら人差し指で僕を指差すと、今度は持ち上げた白い板に指を向けた。何が言いたそうにしている。何だろう。

「ヴァシリ、それ何だ? ……あ、キャンバスか?」

杉元お兄ちゃんの質問にヴァシリお兄ちゃんがこくこく頷いた。きゃんばすって何だろう。あの大きい白い板のことみたいだけど、何に使うものなんだろう。

「まだ何も描かれてないな……」
「…………」
「ん? ……え? なに、もしかして名前くん描きたいの?」
「…………」

ヴァシリお兄ちゃんはまたこくこくと頷いた。どうやらヴァシリお兄ちゃんはあのきゃんばすに僕を描きたいらしい。あんな大きな板に僕を描いてどうするんだろう。

「ん〜……どうする? 名前くん。ヴァシリのヤツ名前くんのこと描きたいってさ」
「何で僕なの?」
「…………」

ヴァシリお兄ちゃんはしばらくじっとしていたけど、少しするとお部屋の隅っこにあったカバンから何かの紙を一枚取り出した。その紙を杉元お兄ちゃんに渡すと、ヴァシリお兄ちゃんはまた僕の方を指差してきた。

杉元お兄ちゃんは不思議そうな顔で僕たちを見てから紙を読んだ。そして、読んでいる途中で「えっ」と声を上げた。

「えぇ……まぁ、うん……わからなくもない題材だけど……」
「なぁに?」
「いや……あのね、名前くん」
「うん」
「ヴァシリがさ、なんか……大学の課題で絵を描かなくちゃいけないみたいでね」
「うん」
「それで名前くんが描きたいんだって」
「そうなの?」
「そうみたい」
「ヴァシリお兄ちゃん、そうなの?」
「…………」

ヴァシリお兄ちゃんの方を見上げて訊いてみたらこっくり頷いた。
描かれるのは嬉しいけどちょっとだけ恥ずかしい。もうちょっと小さなきゃんばすはないのかな。

「あっ……じゃあ、僕もヴァシリお兄ちゃん描く!」
「突然だねぇ!なんで!?」
「僕もお絵描きしたい!」
「まあ元々そのつもりだったけどさぁ……何もヴァシリの家でなくても……ああわかったわかった。わかったからそんな膨れた顔しないで可愛いから」

杉元お兄ちゃんはやっぱり優しい。ヴァシリお兄ちゃんも杉元お兄ちゃんの優しさに感動してニコニコ笑っている。でも何で僕の方に向かってばっかりニコニコしてるんだろう。杉元お兄ちゃんにニコニコしてあげればいいのに。

「ヴァシリ〜、鉛筆と適当な紙ない? 名前くんも絵描きたいんだと」
「…………」
「紙だよ、紙。あー……ペーパー。それと……ペン。ペーパーアンドペン。ペーパーアンドペンプリーズ、オーケー?」
「……!」

杉元お兄ちゃんの英語が通じたみたいで、ヴァシリお兄ちゃんは杉元お兄ちゃんに紙とペンを渡した。「いや俺じゃないから」と言って杉元お兄ちゃんはその紙とペンを僕に貸してくれた。

「ヴァシリお兄ちゃん、ありがと……あっ、す、スパシーバ!」
「Не за что」
「んふふ」
「……!」

伝わったことが嬉しくて僕が笑うと、ヴァシリお兄ちゃんは突然目を見開いてきゃんばすに凄い勢いで鉛筆を走らせた。まるで別人みたいにすごい顔をしている。そして描く速さもすごかった。まるで鉛筆がくるくる踊っているみたいだった。

「杉元お兄ちゃんも描こう!」
「えー……俺はいいよ」
「お願い……」
「名前くんにお願いされたら描くしかないねコレは!」

僕がペンを渡したら杉元お兄ちゃんも紙に絵を描き始めてくれた。何を描くんだろうと思ってワクワクしながら見ていたら、なんだか不思議な絵が出来上がってきた。


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