短編小説 | ナノ

▽ たらし規制線


最近、あまりに何も起こらないので、月島はこれからもずっと何も起こらないのではないかと錯覚していた。朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、飯を食って、寝る。そんな平々凡々な日常が続くのだと。

勿論そんな事はなく、気がつかないところで何かはいつも通りちゃくちゃくと進行していたのだが、気がついたときには少々遅かった。


◆◆◆


第七団地公園前交番には時折、ハコ長の鯉登警部補が視察に訪れる。その際、溜まっていた未処理ファイルが見つかると割と厄介なので、月島は巡回中にサボり癖のある尾形や二階堂達にデスクワークさせていた。谷垣は今日も真面目に巡回中である。

近々、鯉登警部補がこの交番へ視察に訪れるというタレコミがあったので、月島は今懸命に手付かずだった書類を片付けていた。普段ならマイペースに仕事をする尾形と二階堂も、あの口うるさい上司に嫌味を言われるのが嫌なために黙々と仕事を進める。地味な仕事に見えるがこう見えてかなり大変であるのだ。

そんなピリピリとした空気が充満する交番の中で、一本の電話が入った。近くにいた月島が書類から目を離さないまま受話器を取った。

「はい。こちら第七団地公園前交番……」
『有料アダルトサイトの閲覧料金の延滞金があります。至急電話をください。電話番号は……』
「何か御用でしょうか、鶴見警部殿」

電話越しに聞こえた突拍子も無い話の内容に、月島は顔色一つ変えず通話相手に用件を尋ねた。

『なぁんだ、また月島か……はぁ』
「ため息をつきたいのは私の方です。毎度毎度イタ電で始まって……業務妨害になりますよ、鶴見警部殿」
『まぁそう言うな。どの道お前に相談したいことがあったのだから、お前が出てくれたのは却ってちょうどいい』
「相談ですか?」
『うむ。実は鯉登警部補が先日ミスを犯してな……私から口頭で軽く注意したのだが、それきり塞ぎ込んでしまって全く使いモノにならんのだ』
「鯉登警部補が……?」

それはそうなるだろう──敬愛する鶴見警部に叱られることを極端に恐れる鯉登にとって、その軽い注意は彼の精神を崩壊させる程の破壊力を持つものだ。鶴見警部もそれはわかっているはずなのに、何故彼を迂闊に叱りつけてしまったのだろうか。

『仕方ないので、今から私が鯉登警部補を連れてそちらへ向かう』
「は……?」
『月島、美味しいお茶の用意を頼んだぞ』
「あの、鶴見警部殿……」
『行き掛けに美味い団子を持って行くから、名前くんも誘っておいてくれ』
「鶴見警部殿。お言葉ですが私に名前くんを呼び出すことは不可能──」

「尾形お兄ちゃん、綺麗な石あげる」
「持って帰れ」

月島が鶴見の無茶な要望を断ろうとした矢先、在所の隅の方から聞き知った幼声が聞こえて彼は硬直化した。顔を向けると、尾形の机の前には石を並べている名前がいた。

──何故、名前くんがここに?

月島の頭上にクエスチョンマークが羅列する。その直後、通話越しに鶴見の笑い声が聞こえた。月島はハッと意識を取り戻す。

『聞こえたぞぉ、月島ァ』
「鶴見警部殿、今のはっ……」
『確保して絶対に逃すんじゃない。……わかったな?』
「……わかりました」

『よろしい』との言葉の後に電話は切られた。月島は深いため息をつきながら受話器を置くと、頭を抱えて尾形の方へと視線を向けた。

「こっちの方が綺麗だから、尾形お兄ちゃんにあげるね」
「二階堂にやれ」
「えっ!?」
「超いらない!」
「……じゃあ、持って帰る……」

月島は、何故こんなにも危険で冷たい男が天使のように優しい心を持った名前に懐かれているのか、皆目検討がつかなかった。案の定、尾形達に冷たくあしらわれた名前はしょぼくれた顔で石を持つと踵を返した。

「……一つだけ置いて行け」
「……!」

ところがそこで、尾形は書類にペンを走らせながら名前に声を掛けた。振り返った名前が目を見開いて尾形を見つめている。尾形はペンを止め、視線だけを名前に向けてやった。

「文鎮代わりに使う」

仕方ないから貰ってやる──わかりやすいその意思表示に、名前は目を輝かせて喜んだ。

「じゃあコレ、あげる〜」
「……土くらい落としてこい」
「浩平お兄ちゃんはこっち。洋平お兄ちゃんはこっち」
「だからいらないって!」
「おい!何で俺の石だけこんなに濡れてんだよ!嫌がらせか!」
「さっき公園で洗ったの。おんなじ形の石、泥に汚れてたそれしかなかったから……。でも、水で洗って綺麗になったから、これで二つとも一緒だよ。双子のお巡りさんと一緒で、双子の石だよ」
「はぁ? 何だそれ? 全然理解できない。洋平、まだ飴あったよな?」
「引き出しにある」
「レモンとオレンジくれ。石と交換させて帰らせるから」
「わかった」

「お前ら仕事をしろ、仕事を」

完全に絆されている──月島は名前の天然たらしっぷりに感銘を受けていた。首輪やマズルガードがなければ手が付けられないほどの危険な獣達を、こうもあっさりと手懐かせてしまう名前は一体何者なのか。
月島は名前の将来を想像して震え上がりそうになった。

「じゃあ僕、もう帰るね」
「……!」

いかん。なんとかして名前くんをここに引き留めねば──

月島は飴玉を握り締めた名前の元まで駆け寄って、別れに振ろうとしたその手を掴み取った。それに驚いた顔をして見せたのは名前だけではない。尾形も二階堂も、月島の突然の行動に驚いていた。
一方で月島は、冷や汗を流しながら引き留めた言い訳を考えている。しばしの間、交番が沈黙に包まれた。

「……月島おじちゃん?」
「あ……いや、これは……」
「月島おじちゃんも石が欲しいの?」
「え? ……あ、ああいや……石が欲しいという訳ではないんだが……」
「……何の真似ですか、月島部長」

後ろから掛けられた尾形の問いに月島は息を詰めた。振り返ることができない。

「はい」
「えっ」

何と言えばいいのかと月島が悩んでいると、目の前にいた名前が突然月島の前に飴玉を差し出してきた。月島が呆気にとられていると、名前は微笑みながら小首を傾げた。

「月島おじちゃんの石ないから、好きなの選んでいいよ」
「っ、名前くん……」
「また今度拾ってくるね」
「……っすまない……」

月島は泣き崩れそうな思いで自分の口元を手で覆い隠した。出来ることなら一刻も早く名前を家に返してやりたかった。

──しかしそれは、無情にも叶わない願いとなる。


「月島巡査部長」
「……ッ」

名を呼ばれた月島は勢いよく顔を上げた。
そして交番の入り口に立っていた人物を見て、大きく目を見開く。

「つ……鶴見警部殿……」
「やあ。約束通り、手土産を持って来てやったぞ」

穏やかな笑みを浮かべた鶴見が、バックに芥子の花を咲かせて現れた。掲げて見せたのは、風呂敷に包まれた何かの手土産。事情を知る月島はそれが甘味であることをすぐに察した。

それからの月島は行動が早かった。

「あれー? 何で鶴見警部がここに──」

二階堂浩平が疑問を全て口にするよりも早く、月島は出入り口付近に置いていた箱の中から規制線に使うテープを取り出して、それを交番の出入り口に張った。

「尾形、お茶を用意しろ!」
「また俺ですか」
「二つだ!」
「わかりましたよ」

面倒くさそうな顔で尾形が休憩室へ行ったのを確認して、月島は鶴見の前で背筋を伸ばして敬礼して見せた。

「視察巡回、お疲れ様であります。現在谷垣源次郎巡査は第七二丁目付近にて巡回中であり不在であります」
「報告ご苦労。あとは楽にしろ。鯉登警部補には五分遅れて来るように伝えてあるから、隠したいものがあるなら今のうちに隠しておけ」
「お気遣いいただき感謝致します」

──そうなると鯉登警部補はパトカーの中で待機中か。

月島の推測は間違っていなかった。鯉登は今現在、鶴見の指示によりパトカーの運転席で待機していた。何度も腕時計を見下ろして、チラチラと交番に視線を向けている。パトカーからでは交番の中の様子は見えない。

しかし、その交番の出入り口に普段張られることのない規制線が張られてあることには気付いた。そしてそんな真似をするのは月島くらいしかいないということも、鯉登は知っていた。

月島が条件反射で規制線を張ったのにはもちろん大きな理由がある。この規制線は、鯉登専用の立ち入り禁止区域を示すものだ。つまりこの規制線より先は、鯉登は一歩たりとも入れないのである。

以前鶴見がこの交番に訪れた時、同行していた鯉登が交番内で興奮して手が付けられないほど暴れ回ったのは記憶に新しい。よってそれ以降、鶴見が鯉登を同伴させて交番に訪れる際は規制線を張るようにしたのである。これは他でもない鶴見からの提案なので、鯉登も文句は言えない。パトカーの窓越しから、鯉登は規制線を忌々しく睨んだ。

「おや、これはこれは……」
「ぁっ……」

ここにきてようやく名前の存在に気付いた鶴見が、月島の後ろに立つ彼の顔を覗き込んだ。名前はそれに驚いて月島の後ろに身を隠した。

「久しぶりだねぇ、名前くん。元気にしていたかね?」
「……うん」
「結構、結構。……そうだ、名前くん。君は甘いものは好きかな?」
「……?」

上体を倒して首をかしげる鶴見に、名前もまた同じように首を傾げた。鶴見は持っていた風呂敷包を掲げて、名前に微笑んで見せた。

「実は串団子が絶品だと評判の店でみたらし団子を買って来たんだが……良かったら一緒に食べてみないか?」
「……みたらしだんご?」
「おや、名前くんはみたらし団子を知らないのかね? それは勿体ない。洋菓子も洋菓子の良さがあるが、和菓子にも是非興味を持ってもらいたい。……月島」
「はっ」
「鯉登を絶対に入れるんじゃないぞ?」
「承知しました」

月島が敬礼したまま返事を返した直後に、休憩室から尾形がお茶を持って現れた。尾形は、名前と打ち解けようとしてみたらし団子を差し出す鶴見を横目に見て思わず失笑しかけた。

人たらしと天然たらしが揃ってみたらし団子か。全く、笑わせる組み合わせだ──

尾形は二人の前にある机に熱いお茶を置いてやった。鶴見はそれに軽く片手を挙げて見せ礼を示すと、すぐに意識を名前へと向けた。そして風呂敷を広げて、包んでいたみたらし団子をお披露目してやる。名前は初めて見たみたらし団子に目を輝かせた。

「わあぁ……」
「どうかね? 焼き目の美しさもさることながら、このタレの濃厚さは見るだけでも唾液腺を刺激させるだろう?」
「この茶色いのなぁに?」
「醤油タレだ。甘しょっぱいが、名前くんの口に合うかどうか……まあ、実際に食べてみないことにはわからんだろう。ほら、こっちに来なさい」
「あっ……」

机の上にあるみたらし団子に夢中になっていた名前を、鶴見は後ろからそっと抱え上げた。すると、用意してあったパイプ椅子に腰掛けた鶴見は名前を自分の膝上に座らせて、机の上にあるみたらし団子を一本手に取った。その二人の様子を、月島達がギョッとした顔で見ている。
鶴見はそんな視線など気にせずに、みたらし団子を名前の口元まで運んでやった。

「ほら、口を開けなさい。串団子は子供には少し危険だから私が食べさせてやろう」
「ぁ……僕、でも……」
「遠慮することはない。口に合わなければ吐いても構わん」
「ぅ……」

より口元に近付けられたみたらし団子を、名前は好奇心と微かな恐怖心で見つめている。「さぁ」と上から促す鶴見に、名前は意を決して口を開いた。

「鶴見警部殿!時間になりました!」
「!」

鯉登が交番に顔を覗かせた瞬間、月島は目にも留まらぬ速さで動いていた。月島は鯉登が現れた出入り口に立ち、両腕を広げて彼の前に立ち塞がった。

「月島……っ!一体何の真似──」

いきなり目の前で立ち塞がった月島の背中から鯉登は視線を前に向けた。そして、その光景に彼は言葉を失った。

「どうだね、名前くん。これは初めての味だろう?」
「んっ……んっ……」

鯉登にとってその光景はまるで夢のようなものだった。
敬愛する鶴見警部の神聖な膝の上で、愛くるしい名前が可愛らしさを前面に押し出した状態でちょこんと座っているではないか。柔らかな頬は食べ物をいっぱいに頬張ったハムスターのようにモチモチと動き、つぶらな瞳はキラキラと輝きに満ちている。対して鶴見警部は、そんな名前の様子を菩薩のような慈愛に満ち溢れた目で見下ろしている。
鯉登はこの完璧な景色の中に立ちながら、贅沢と快楽を味わい尽くしてみたいと思った。

「名前……鶴見警部殿……」
「いけません!鯉登警部補殿!規制線から入ってはダメです!」
「退け、月島……!私は、私はあの中に……あの桃源郷に行かなくてはならないのだ……!」
「くっ……二階堂!尾形!手を貸せ!その内俺一人じゃ抑えきれなくなる!」
「えー……」
「どうせ手当でないのに……」
「俺は仕事があるので無理そうです」
「いいからさっさ手伝え!」

怒鳴り上げる月島に二階堂達は渋々従うことにした。月島がホッとしたのも束の間、何故か彼らは携帯していた警棒を構え出して鯉登の前に立ち塞がった。やる気のなさげな二階堂兄弟に対して、尾形は腰を低くさせてやる気満々の構えである。月島は眉間に皺を寄せた。

「馬鹿者!しまえそんな物!使う相手を見誤るな!」
「え〜」
「いや、これくらい出さなきゃ危ないですよ」
「刺又を持って来い!刺又を!」
「チッ……」

「おや、名前くん。口元にタレが付いているぞ……」
「ンッ」
「……!」

月島達の騒ぎも気にせず、鶴見は名前の口元についたみたらし団子のタレを指で拭い取ってやっていた。しかしその直後、名前はあろうことか鶴見の指についたみたらし団子のタレを、まるで子猫のように小さな舌でペロリと舐めとったのだ。

これには交番にいた名前以外の全員が目を見開いて固まった。途端、名前はハッとした顔になって辺りを見渡すと、みるみるうちに顔を赤らめて下を俯いてしまった。

「ぁ……ごめんなさい……。由兄ちゃんと……間違えた……」
「キエッ……」
「こっ、鯉登警部補ッ!!」

突如鼻血を噴出させて卒倒した鯉登に月島は慌てた。二階堂達はお互いに声を潜ませて何かを話し合っているようだった。一方で尾形は眉間に皺を寄せて、疲れた目でもほぐすようにして指で目頭を揉んでいる。

しかしその中でも鶴見だけは、穏やかな笑みを浮かべて名前を優しく見下ろしていた。

「構わないよ。そこまで君に気を許して貰えたのならそれはとても光栄なことだ」
「……怒ってないの……?」
「怒るものか。可愛らしいくらいだよ。……さあ、まだみたらし団子は残っているんだ」

鶴見は名前の不安に揺れる瞳を覗き込みながら、その滑らかな顎のラインに沿って指を這わせた。掬い上げた名前の顔に鶴見は自身の顔を近づけて、その口元にタレのかかった串団子をそっと寄せる。

「クセになるまで、味わい尽くしてくれたまえ」

唇に押し付けられた新しいみたらし団子の先端を、名前は鶴見の目を覗き込みながら口に含ませた。

「ぐ……私は、一体何を……」
「ハッ……いけません鯉登警部補!まだ起きないでください!」
「何だ月島……ぬ、これは……鼻血か? 何故鼻血なんか出て──」
「美味しいかね? 名前くん」
「んぅ〜」
「ぐぉ……ッ」
「鯉登警部補ーッ!!」

再び気を失った鯉登に「これでは拉致があかない」と尾形は鶴見と名前を半ば強制的に引き離した。

出血多量で白目を剥く鯉登をパトカーに押し込み、鶴見も名残惜しそうに運転席に乗る。そして車の窓を開けた鶴見が、見送りに来た名前に残念そうな表情を見せた。

「せっかくの機会だからもっとゆっくりと話をしたかったのだが……ウチの部下がこのままでは本当に使いモノにならなくなってしまうのでな。今回はここでお別れだ、名前くん」
「うん……バイバイ……」
「鯉登警部補、起きたまえ。別れの挨拶くらいせねば失礼だぞ」
「う……?」

鶴見の声を聞いて本能の力で目を覚ました鯉登が、重たい頭を起こしてパトカーの中を見渡した。そして、その視線はパトカーの外に向けられる。

「バイバイ……お仕事頑張って……」
「キッ……キエェ──」

開いていたパトカーの窓は即閉じられた。無表情で車を出した鶴見と、顔を真っ赤にさせて拳で窓を叩きつける鯉登がどんどん遠くなっていく。名前は寂しそうに手を振り続けた。

そしてパトカーが完全に見えなくなった頃、月島はぐったりとした顔でその場に崩れ落ちた。その背後には、一見すると殺人現場と間違われてもおかしくない惨状が広がっている。鼻血で真っ赤に染まった規制線は破かれ、最早その役目を何も果たせてはいない。

「……これが、これからも不定期で起こるというのか……」

目の前にはこんなにも平和な世界が広がっているというのに、何故ウチの交番だけはこんなにも非日常的な空間になるのだろうか。

「……月島おじちゃん」
「……なんだい、名前くん」
「今度はみんなで、美味しいもの食べようね……」

「僕、お団子いっぱい作ってくる」と続けて、名前は月島に微笑みかけた。

月島はその天然たらしに、一人撃沈した。


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