短編小説 | ナノ

▽ 稀血とまたたび 2


『名前!無事か!』
『痛い……後ろ首、噛まれた……』
『!!』

ぶるぶると震えて顔すら上げようとしない名前の頸は微かに湿っていた。猫の唾液によるものなのか、それとも噛まれたことによる出血なのか──それを判別するよりも先に、俺の怒りが頂点に達しようとしていた。

乱れそうになる呼吸を抑えながら背後を振り返り、いつまでも未練たらしく居座っている猫達向かって唸り声を上げた。

『いいか、よく聞け。この猫は俺の番だ。傷付けることも、強引な交尾も、勝手な求愛も、全て許さない。二度と手を出すな。わかったらとっとと失せろ』

俺が引っ掻いた猫がこの中でも強い方だったのか、それとも元々意気地がなかったのか、彼等は怯えた様子で後ろに下がるとそのまま一目散に逃げていった。

辺りに猫の姿が見えなくなってから、俺は怯えて蹲っている名前の方に振り向いた。

『名前……大丈夫か?』
『……飲む……』
『ん?』
『薬、飲む……我が儘言ってごめん……』

襲われたことがよほど怖かったのだろう──名前は消え入りそうな声で薬を飲むと俺に約束してくれた。



◆◆◆



名前と一緒に庭先から屋敷へ上がった時、ちょうど俺も人間の姿に戻ったが猫の耳と尻尾は残ったままになっていた。

先に戻った俺を見上げて名前は不安そうな目をしていたが、気が変わらないように何度も「大丈夫だ」と宥めて名前の前に薬を差し出してやった。

薬を飲む直前まで名前は薬の臭いに顰めっ面をしていたが、あの騒動で猫でいることに懲りたのか最後は諦めたように俺の手から薬を飲んでくれた。

しかしどうしても薬が臭かったようで、薬を口に含んだ瞬間名前はしばらくその場でもがき苦しむ様子を見せた。
吐き出されないように俺も咄嗟に名前の口元を押さえたが、今度は引っ掻かれたり咬まれたりすることはなかった。

そのまま薬を飲み込んだのか、暴れ回っていた名前が急に大人しくなった。
まさか押さえ込みすぎて気絶させてしまったのかと慌てて名前の小さな体を抱き上げると、それはあっという間に体積を増やして元の人間の形へと戻っていった。

俺の腕の中で裸のまま目を瞬かせている名前の頭には、俺と同じように猫の耳が生えており、背後には細長い尻尾も確認できた。

茫然たる顔で至近距離から俺を見つめる名前の顔が少しずつ赤く染め上がっていく。

「っ……見るな馬鹿ッ!!」

ああこれはマズい、と頭で思う頃には遅かった。

猫の頃と同じように毛を逆立てた名前が俺の頬を手で押して強引に顔を背けさせた。これだけ間近で名前の全裸姿を見たのは久々だったので俺も少し落ち着かない気分になった。

「恥ずかしがる必要はないぞ名前!俺もほぼ裸だからな!」
「うるさい馬鹿!そんなことどうでもいいし何の慰めにもなってないんだよ!」
「そうか!しかし名前!俺は正直今のお前の姿をもっとじっくり眺めたいと思っているのだが──」
「このど変態ッ!!」
「お前相手なら変態にでも助平にでもなるぞ俺は!」
「開き直るな!!」

ぐいぐいと何度も顎を手で押されてなかなか名前の姿を見ることができないが、俺が少し力を加えれば名前の身体など簡単に組み伏せることが出来る。

それをしないのは名前の嫌がることをしたくないという、俺の意地のようなものからだった。けれど名前の体は離したくなかったので、掴んだ手首と腰だけは未だ離さないままでいる。

時折手に触れる名前の尻尾の感触が心地よくもっと触れたくなったが、それをすれば愛おしい幼馴染みに逃げられてしまう恐れがあるので俺は触れたい欲求をグッと堪えた。

「名前!少しだけでも駄目だろうか!」
「ダメに決まってるだろ!」
「どうしても見たい!」
「見るな馬鹿!我慢しろ!」
「一瞥するだけでも駄目なのか!?」
「嫌だ!こんな恥ずかしい格好……ッお前に見せたくない……!」

顎を押し上げられながら聞こえた声は震えていた。視線だけ向けると、名前の項垂れた頭にある猫耳はぺったりと下がっていた。

──よもや、落ち込んでいるのか?

落ち込む理由が分からずしばらく頭を悩ませたが、俺の顎を押し上げる名前の手の力が弱まったので少しだけ顔を下に向けて見た。

もう隠す気はないのか、名前は真っ赤に染まった顔を逸らして黙ったまま膝を抱えた。ゆらゆらと揺らめく尻尾はゆっくりと名前の脚に巻きつき、少しの隙も見せないような守りの体勢に入ってしまった。

やはりまだ見られたくないのか──俺は下に向けかけていた顔を再び上に向けて名前の姿を見ないようにした。

「……名前、俺は目を逸らしておくからその間に着替えを持ってくるといい」
「…………」
「お前が部屋から出たら俺も庭にある隊服を持ってくる。お前がその姿を見られるのがどうしても嫌だと言うのなら俺はもう見ない。約束する」
「…………」

語りかけてみるが名前は何も返さない。顔を向けてもいいのだろうかと気になり、視線だけもう一度向けると名前は折り立てた膝の中に顔半分を埋めて目を潤ませていた。

「……別に」

泣かせてしまったかと一瞬慌てたが、名前の口から小さな声が聞こえたので思わず口を噤んだ。少しずつ顔を名前の方へ向けると、特に嫌がる素振りも見せず彼は俺から顔を逸らしたまま自分の尻尾を揺らめかせた。

「……痛かったか」
「ん?」
「僕が引っ掻いたところ……」

今まで横を向いていた名前の視線がそこでようやく俺の方へ向いた。一瞬何のことかと思ったが、すぐに名前に付けられた引っ掻き傷を思い出して俺は自分の右手を見下ろした。
赤く細長い線が三本ほど皮膚に走った自分の手の甲を見て、つい失笑してしまった。

「これか!こんなのは擦り傷だ!名前が心配する必要はないぞ!」
「…………」
「ん? 何だ、よく聞こえなかった!もう一度言ってくれないか?」

ボソボソと何か話した名前の口元に己の猫耳を近づけた。急に距離を縮めたことに名前は驚いてビクリと猫耳を立てて反応したが、やがてゆっくりとその耳は先程と同じように下がってしまった。

動く口元に今度こそ聞き逃しはしまいと耳を傾けると、名前は完全に顔を膝の中に埋もれさせてしまった。

「名前──」
「助けてくれて、ありがとう……」
「!」
「守ってもらえて……う、うれし……かった……」

顔から湯気が出るのではないかと思うほど、名前の顔は首元まで赤く染まっていた。顔は伏せているのに下がっていたはずの耳がしっかりと立ててあるので、そのチグハグな反応が微笑ましくつい笑みが溢れた。

「名前、着替えを持って来よう。そのままだと風邪を引いてしまうからな」

これだけ清らかで尊い存在に己の欲望をぶつけるのは良くないと改めて思い直し、俺はせめて庭先にある己の羽織を持って来ようとその場から立ち上がった。名前の肩に掛けてやろうと思っての行動だった。

「……っ!」

しかし俺が立ち上がったのと同時に、片腕を掴まれて下から強く引っ張られた。倒れるまではなかったが上半身が前のめりになり、つい名前の肩に手をついてしまった。

迂闊に触れたことに対して怒鳴られると思ったが、名前の口からから怒声が飛んでくることはなかった。

「名前……?」
「……っ」

声をかけるが、名前は顔を逸らしたまま何も言わない。露出した肩に置いた手をそっと肌の上に滑らせると名前の顔がさらに赤くなった。

体が震えている。やはり肌寒いのだろうか。

「名前、このままでは体を冷やすぞ!今はまだ火照っているようだが油断は大敵だ!」
「ッこの……鈍感猫!!」
「なっ」
「もう知るか!治るまで僕に近付くな!馬鹿!」
「名前!」

寒いだろうと思って気を遣えば何故か突然怒鳴られた。肩に置いていた手も叩き払われ、下からキツく睨め上げられたかと思えば──猫であるが、脱兎の如く逃げられた。

しかし相手は猫であろうが何だろうが、昔から付き合いのある己の幼馴染みだ。逃げ出した先に向かう場所も、足の速さも、体力の限界値も、全て把握している。

「逃げても無駄だぞ名前!」
「うわっ!追いついてくんな馬鹿!」

名前を追って部屋を出れば案の定すぐに彼の背後にまで追いついた。しかし安易に触れようものならまた名前に怒鳴られて嫌がられてしまう可能性がある。

なので捕まえはせず、しばらく逃げ続ける名前の後を追い掛けることにした。

「素っ裸で並走しながら追いかけて来んな!怖いんだよお前!変態かよ!」
「変態ではないし怖がらせるつもりで追ってるわけではない!名前が止まってくれれば俺も止まるぞ!」
「お前がついて来なければいいだけだろ!」
「しかしお前に逃げられるとどうしても追いたくなってしまう!」
「やっぱり変態じゃないか!」

これでは埒があかないな──裸のまま逃げ回る名前の肩をいつ掴もうかと考えていると、その内名前の走る速さが遅くなってきた。
追い越すと追い掛ける意味がなくなるので、俺も名前の速さに合わせるように後ろを走った。

「だから並走すんなってば!鬱陶しいんだよ!馬鹿!」
「では俺に捕まってくれるか?」
「はぁ!? 意味わかんないだけど!」
「失礼するぞ!」
「なっ……」

走っている最中の名前の背後に手を伸ばし後ろから腕を掴み取った。反動で倒れ掛けた彼を抱き留め抵抗される前に腕に持ち上げると、不意の出来事に茫然とした顔が目の前に現れた。

「よし!捕まえたぞ、名前!」
「…………」
「追いかけっこはこれでお終いだな!さぁ、着替えよう!」

腕に抱いたまま踵を返したところで彼はようやく正気に戻ったらしく、顔を真っ赤にさせて俺の腕の中でめちゃくちゃに暴れ出した。

「馬鹿!降ろせ阿保!触んなァッ!」
「名前、あまり暴れないでくれ!持ちにくいぞ!」
「だから降ろせってば!自分で歩ける!」

鬼ほどではないが名前も半分猫であるので爪は鋭い。時折肌に当たる名前の鋭い獣爪がチクチクとして痛痒いが、俺の腕の中で必死に逃れようと暴れる名前の様子が可愛くて仕方ない。いくら眺めていても飽きない愛らしさだ。

しかし暴れ回ったことにより名前の髪の毛がかなりボサボサになってしまっている。せっかくの可愛らしい猫耳が跳ねた髪の毛で埋もれ、ほとんど隠れてしまった。

「触んな馬鹿!早く降ろせ!」
「名前」
「なん──ひぃあッ」

両手が塞がっているので己の舌を使って名前の猫耳の毛繕いをすると、名前は上擦った悲鳴を上げて一気に毛を逆立てた。

構わず歩きながら舐め続けると、名前は目を硬く閉ざして首を竦ませた。さっきまで叩くようにして脚に当たっていた名前の尻尾が、今ではキツく腿に巻き付いている。

「やっ……やめろって馬鹿……!そんなとこ舐めんな、ぁっ……!」
「ただの毛繕いだ」
「じっ、自分でするからぁ!」
「遠慮するな。お前の舌ではここまで届かないだろう」
「ばかっ!ばかぁっ……!」

文句が馬鹿としか言えなくなったということは、名前ももう限界だということだ。俺の舌での毛繕いがくすぐったいのか、肩を縮こませてて耐えるような表情をしている。

その表情に、あとひと押し、という決意のような、迷いのようなものを感じてしまい、やめ時を忘れてただ夢中になって名前の耳を毛繕いし続けた。



◆◆◆



部屋にたどり着く頃には何故か名前はすっかり息絶え絶えな様子でぐったりとしていた。もはや抵抗する気も起きないらしく、俺が着替えさせようと肌に触れても何も言わない。

俺も自分の隊服に着替えたところで、床の上に横たわっている名前の元へ戻った。
もう動くこともできないのか、上から名前の名前を呼んでも顔すら向けてもらえなかった。

「名前……少しやり過ぎた。すまなかった」
「…………」
「胡蝶が言うには明日にでも元の姿に戻れるそうだ。俺はもう行くが、もし御当主が帰って来た場合は説明を──」

話している途中──膝の上に載せていた手に何かが当たった。ふわりと柔らかな感触のそれに目を配ると、己の毛色とは違う黒色の尻尾が手の甲を何度も叩いていた。

「……名前?」
「……もう行くのか」
「!」

うつ伏せで隠れていた名前の寂しそうな顔が覗いた。手を叩いていた尻尾が手首に巻き付き、まるで「行くな」と言っているかのように思えた。

「……もう少し居た方がいいのなら、まだ残ってやれるぞ」
「じゃもういいっ!さっさと行け!」
「名前……」

言葉選びがまずかったのか、また顔を伏せられてしまった。

すっかり拗ねてしまった様子の名前に苦笑しつつ、いつまでもこうしている訳にもいかないので俺は名前の猫耳が生えた頭に手を置いて優しく撫でてやった。

「では、行ってくる」

一言そう告げて、立ち上がろうとした時だった。

「ゴロゴロ……」
「……ん?」

今まで聞いたこともないような音が名前の方から聞こえて、思わず手の動きが止まった。

何の音かとしばらくそのままじっとしていると、伏せられてあった名前の顔がほんの少しだけ覗いた。

「……もう一回」
「もう一回?」
「……頭触ったの、もう一回しろ」

気持ち良かったから──そう付け足すように囁かれた言葉に、全身の毛が逆立った感覚がした。

それは──その姿で言うのは、反則だろう!

「いくらでも撫でよう!」
「ふにゃあッ!」

らしくもなく興奮してしまい、うつ伏せになっている名前の背中に飛び付いてしまった。驚いたのか慌てて起き上がろうとした名前の上がった顎下に手を伸ばして撫でると、またあのゴロゴロとした音が喉から聞こえて更に気分が高揚した。

「っ、やめろ!馬鹿!退け!」
「嫌なのか?」
「この体勢が嫌なんだ!」
「重くないように体は浮かせているぞ!」
「違う馬鹿!これじゃあ側から見たら交尾してる猫みたいだろ!」
「む!たしかに!」

言われて初めて気が付いたが、退こうという気にはならなかった。むしろ交尾の体勢だと言うのなら、名前がそう意識できているというのなら好都合だ。

「ならばせっかくなのでこのまま戯れあってみないか?」
「は!? 何考えてんだ馬鹿!」
「安心しろ!ただあの時のように“毛繕い”するだけだ!」
「……ッ!!」

含ませた言い方に意図を察してくれたのか、名前の顔がみるみる内に赤くなっていく。名前のその表情に己の加虐心がくすぐられるのはどうしてか。

訳を考えるよりも先に手が出てしまい、せっかく着替えさせた袴にもすぐ手を掛けてしまった。

「あっばか!馬鹿!杏寿郎……っ何してんだよ!」
「毛繕いするために脱がしているだけだ」
「そんなところ毛なんか生えてない!」
「生えてるだろう。ささやかではあるが」
「ッ……!!馬鹿野郎!!このど助平!!ど変態!!」

なんと罵倒されようがもう止まらなかった。
無論、名前がそこで「嫌だ」とハッキリ拒絶したのであれば話は別だが──


結局、名前の口から「嫌だ」という拒絶の言葉は出ることはなく、俺からの“毛繕い”が終わるまで名前は可愛らしく鳴き声を上げ続けるだけだった。

一時の間であろうが、我も忘れて猫の名前にああまで夢中になってしまうとは──獣になった己が少し恐ろしく思えた。

──全てが片付いた後にでも、名前には詫びをしなくてはならないな。

そう反省しつつも、猫になった強気な名前も悪くないと懲りずに考えている自分がいた。


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