短編小説 | ナノ

▽ 変わらぬ意志


警備員になって間もない頃、俺の元に突然訃報が届いた。亡くなったのは、俺を支え続けてくれた兄貴と兄貴の嫁さんだった。

報せを聞いた直後、俺は頭の中が真っ白になって何も手がつけられなかった。会社の爺さん達は葬儀に出るなんて言っていたが、俺はそれを拒否した。葬儀に出る親族は、ほとんどが義姉の親族だ。結核で両親と他の家族を喪っていた俺たちにとって、兄貴の親族は俺一人。つまりこれで俺にはもう、血の繋がりのある人間がいない。

当時の俺は、そう思い込んでいた。


◆◆◆


「おい、杉元家の次男坊が来たぞ……」
「やぁねぇ、問題児が何しに来たのかしら……」
「シッ!聞こえちまうぞ……」

葬儀会場に足を運んで、芳名帳に名前を書いているとどこかからそんな声が聞こえた。歓迎されていないのは充分わかっていた。何せ葬儀の準備はほとんど義姉さんの親族達がしてくれていたんだから。それに俺は、過去に職場でトラブルを起こしていた。その内容も既に向こうは把握済みで、俺は向こうからすれば厄介者と言っても過言じゃない。

「……まさか佐一の奴、名前くんを引き取りに来たんじゃないのか……?」
「ダメよっ!いくら遺言書に書いてあったからって……あんな独り身の男なんかに任せられないわ!」

「名前……?」

虚無感に囚われていた俺の耳に、しばらく聞いていなかった名前が入った。その時俺はようやく、まだ自分に血の繋がりのある人間がいることを思い出した。

杉元名前──兄貴と義姉さんの息子で、過去に何度か会ったことがある。二人が亡くなったことで頭がいっぱいで、今まですっかり忘れてしまっていた。

「ああこら!名前くん!」
「待ちなさい名前くん!」
「佐一兄ちゃん!」
「ヴッ!」

受付所で呆然としていると、突然後ろから誰かに抱きつかれた。腰にダイレクトに伝わった衝撃に振り返ると、満面の笑みを浮かべて俺を見上げる名前がいた。名前は最後に会った去年の春よりも、少し大きくなっていた。そうだ、名前はもう小学一年生だ。

「名前……!」
「佐一兄ちゃん、久しぶり〜!」
「あ……ああ、久しぶりだな。少し見ない間にもうこんなに大きくなって……」
「ねぇねぇ、佐一兄ちゃんも何で黒い服着てるの? 今日、なにかのパーティーするの?」
「名前……お前、何も知らないのか?」
「……?」

自分の両親が亡くなったって言うのに、名前は全く悲しそうな顔をしていない。むしろ、これから何か楽しいことでも始まるのではと期待しているようだった。まさか、義姉さんの親族達は名前に何も伝えていないのか?

「お父さんとお母さんね、今眠ってるんだよ。僕何回も起こそうとしたのに、全然起きないの。佐一兄ちゃん、お父さんとお母さん起こすの手伝って」
「……名前、お前のお父さんとお母さんはもう……」
「佐一さん、名前から離れてください」

横から掛けられた声に振り向くと、どこかで見たことあるような顔の男がいた。たぶん、義姉さんの親族だろう。男はこっちに近づいて来るなり、突然名前の腕を掴み取った。

「いやっ……!」
「ほら名前、行くぞ」
「いやぁっ!」
「おい、嫌がってるだろ」

俺は男の肩を掴んだ。男は鋭い目付きで俺を睨んだが、俺も決して目を逸らさなった。怯んだのは向こうだった。名前は男の手を振りほどいて、俺の後ろにまで回って身を隠した。

「ッおい名前!」
「嘘つく人嫌い!お父さんとお母さん、死んでないもん!」
「死んだって言ってんだろ!何度も同じこと言わせんなよ!」
「死んでないもん!眠ってるだけだもん!」
「いいからこっち来い!そいつと関わんな!」
「いやっ!佐一兄ちゃんがいい!」
「……ッ!勝手にしろ!この恩知らず!後で泣きついて来ても知らねーからな!」

捨て台詞を残して男は鼻息荒く去って行った。子供相手に何ムキになってんだ。
呆れた後に名前の方へ振り返ると、名前は俺の腰にしがみついて顔を横に背けていた。その目には、たっぷりの涙が浮かんでいた。

「名前……?」
「……寝てるだけだもん……。死んでなんかないもん……」
「…………」

俺は腰に回されていた腕を外して、名前の方へ振り向くとその場に屈んだ。今にもこぼれ落ちそうな涙を指で拭い取ってやると、名前は下を俯きながら口を開いた。

「……佐一兄ちゃん」
「……どうした?」
「……もし、お父さんとお母さんが起きなかったら……僕、どうなるの……?」

不安そうな視線が上目遣いに俺に向けられた。俺を信じる目、俺を頼る目、俺しか見えていない目だ。今、名前は俺に助けを求めていた。
俺は名前の頭に手を置いて優しく撫でてやった。

「……安心しろ。俺が名前を一生護ってやるから」
「……本当……?」
「ああ。約束する」

俺は名前の前に自分の小指を差し出した。契約書なんかなくたっていい。

この子の面倒は、俺が一生みてやるんだ。


◆◆◆


知多々布一丁目 アパート《コタン》


「名前!」

大声で名前を呼ばれ、テレビの前に座っていた名前が大きく肩を跳ねさせた。恐る恐る後ろを振り返ると、視線の先には子供用歯ブラシと子供用歯磨き粉を持って仁王立ちする杉元佐一がいた。

「歯磨きし忘れてるぞ!仮面サーファー見るのは歯磨きの後!」
「ぅ……」
「ほら、こっち来い。磨いてやるから」

胡座をかいた杉元が自分の膝の上を叩くと、名前は顔を赤らめて首を振った。

「僕、赤ちゃんじゃないから一人で磨けるもん……」
「お前仮面サーファーに気を取られてちゃんと磨かないだろ」
「ちゃんと磨く〜」
「いいからこっちに来いって」
「いやぁ〜っ」

四つん這いで逃げようとする名前を杉元は後ろから抱き上げて、床の上に転がした。暴れる頭を膝の上に固定し、顎を抑える。名前は頬を膨らませて杉元を睨め上げた。

「仮面サーファー見えない……!」
「ほぅら、やっぱ気になってんじゃんか」
「もうっ!僕一人で磨く!」
「は〜い、お口開けましょうね〜」
「もぉ〜っ!」

杉元は悪戯な笑みを浮かべて名前の口を歯ブラシでこじ開けた。名前は自由な足をジタバタと動かしたが、杉元はそんな些細な抵抗にビクともしない。名前もその内暴れるのをやめて、大人しくされるがままになる。杉元は楽しげに鼻歌を歌った。

「ひゃいひにぃひゃ、ひゃへんひゃーふぁーおわっひゃう」
「え〜? 仮面サーファー? ……大丈夫、まだ変身前だから」
「わふぁひぇふぇーふぃんふぁ?」
「ワカメ星人はまだ悪さしてるよ……ってもう、喋るなって。磨きにくいだろ」
「うーっ」
「わかったわかった」

再び愚図りだしたので、杉元はそれ以上磨くのを諦めて名前を解放してやった。その途端元気に洗面所まで駆け出して行った名前に、杉元は呆れたように笑った。

──ようやく元気になってくれたな。

半月前にあった葬儀の後と比べて、名前はだいぶ明るさを取り戻していた。ここに連れてきたばかりの頃は寂しさに枕を濡らしていたが、一緒に生活を送っている内にすっかり慣れてくれたようだ。
それが杉元にはとても嬉しかった。

「名前〜。もうすぐ仮面サーファー変身するぞ〜」
「あっ、待ってぇ!」
「いや、俺に言われても……」

洗面所から慌てて飛び出してきた名前がテレビの前に滑り込んだ。近過ぎる画面から離すように、杉元は名前の体を持ち上げると少し後ろに引かせて自分の胡座の中に座らせた。二人で一緒になって、仮面サーファーの変身シーンを見つめる。

『海の平和を脅かす悪い奴は俺が許さない!サーファー……』
「サーファー……」
『変・身!』
「変・身!」
「あでっ!」
「あっ」

変身ポーズをとった名前の手が、すぐ後ろにいた杉元の顎に直撃した。名前があわあわとしていると、痛む顎を抑えた杉元がおどろおどろしい顔で名前をジロリと見下ろした。

「名前〜……」
「ぁっ……ご、ごめんなさい……」
「ワザとか!? このっ!」
「いやぁーっ!」

杉元は名前の脇の下に手を入れて体をくすぐった。そうされる覚悟が若干あったのか、名前の表情はとても楽しげで悲鳴に似合わず高い声で笑っている。
床の上にゴロンと転がった名前を後ろから抱きしめて、杉元もケラケラと笑いながら転がった。

「佐一兄ちゃんが抱っこしたから当たった〜!」
「人のせいにするなっ!」
「きゃあーっ!」
「参ったか!参ったって言え!」
「参らない〜!」
「小癪な〜!」
「あははっ!」

名前はゴロゴロと床の上を転がり、やがて杉元の手をすり抜けると急いでその場から立ち上がった。

「あっこら!名前!」

逃げられるとは思わなかった杉元が慌てて手を伸ばすが、身軽な名前は杉元に捕まる前にそのまま走って玄関から出て行った。行き先は凡そ予想できていたが、杉元は顔色を変えて名前の後を追った。

玄関を飛び出して廊下を見てみたが、名前の姿はどこにもない。杉元は頭を抱え、深いため息をついた。そのまま重い足取りで数歩進むと、自分の部屋の隣にあるドアの前で立ち止まる。杉元が三回ばかりドアをノックすると、しばらくしてから中の住人がドアを開けてくれた。

「悪いヴァシリ、そっちに名前来てない?」
「…………」

現れたのは、杉元の部屋の隣に住むロシア人留学生のヴァシリだった。ヴァシリはいつものように黒いマスクを着けていて、『明日があるさ』などと可笑しな日本語がプリントされたTシャツ姿をしている。毎度のことなので杉元は一々つっこんだりしない。

「ヴァシリ、そこに名前がいることはわかってるんだからよ……」
「…………」

ヴァシリが何も言わないので、杉元は仕方ないといった様子でヴァシリの部屋に上がり込んだ。意外にもヴァシリはそれについて言及することはなかった。ヴァシリは杉元を迎え入れるように玄関から道を開けてやった。

部屋に入って、杉元はすぐに部屋の奥にあるベッドの元まで真っ直ぐに向かった。ベッドには不自然な膨らみがあり、それは時折微かに蠢いていた。

「こぉら!名前!」
「あ〜っ!」

杉元がそのベッドの不自然な膨らみの中に手を突っ込ませると、名前のくぐもった悲鳴が上がった。手に触れたシャツを掴んで強引に引っ張り出せば、布団の中から名前の下半身が出てきた。

「なんでわかったの?」
「わかるに決まってるだろ。お前がどこにいても俺は絶対に見つけるからな」

ずりずりと引っ張り出して、ようやく全身が出てきた名前を杉元は腕に抱き上げた。横抱きされた名前は少し不満そうな顔を見せたが、自分を見下ろしてくる杉元の微笑みを見ると名前も照れたように笑った。

「迷惑かけたな、ヴァシリ。お前も突撃されたくないならもう今度からちゃんと鍵掛けとけよ? その内泥棒に入られるぞ?」
「…………」
「いや、掛けとけってマジで。お隣さんとしても警備員としても注意させてもらうけど、お前ほんと不用心すぎるぞ。心配になる」
「佐一兄ちゃん、ヴァシリお兄ちゃんの言いたいことがわかるの?」
「えっ、いや……なんとなく……」
「すごぉい」

目を輝かせて尊敬の眼差しを向ける名前に杉元は思わず目を逸らした。ジェスチャーだけで伝えたいことをなんとなく察しているだけで、杉元も本当のところはヴァシリの考えていることなどよくわからない。それでも毎度こうして名前の訪問を受け入れてやっているということは、それなりに彼も名前を大事に思ってくれているんだろうと杉元は勝手に解釈していた。

「じゃあな。鍵ちゃんと閉めとけよ」
「ヴァシリお兄ちゃん、バイバイ……」
「…………」
「永遠のお別れみたいにしんみりするなって。隣同士なのに。帰りにくくなるだろ」

苦笑いしながら杉元はヴァシリの部屋を後にした。


◆◆◆


「どこ行っていたんだ、杉元、名前!」
「アシリパさん……何で俺の部屋にまたいるの?」

杉元が名前を抱いたまま部屋に戻ると、何故かそこには一階に住んでいる筈のアシリパの姿があった。つい先ほどヴァシリに戸締りの徹底を言い聞かせてきたばかりの杉元は、人のことは言えないなと一人反省する。

「アシリパお姉ちゃん!」
「おはよう、名前!」
「おはよう〜!」

腕の中で呑気に手を振る名前を、杉元はそっと玄関先で降ろしてやった。名前は真っ直ぐにアシリパの元まで向かって、彼女の前に立つと嬉しそうに手を握りしめた。

「朝ご飯はもう食べたか?」
「うん!ご飯とね、お味噌汁とね、納豆とね……」
「相変わらず味噌汁か……。好きだなぁ、杉元は」
「俺の定食なんだからいいじゃん!」
「名前、今夜また夕飯をお裾分けしに行くから楽しみしてろ」
「わぁい!」
「えっ? また? そんな、毎日毎日……悪いよ、アシリパさん」
「今更なことを言うな杉元。私も祖母も、好きでやっていることだ」
「うん……そう言ってもらえるのは有り難いことなんだけどさ……」

杉元は申し訳なく思った。仕事中は名前を現場に連れて行けないので、彼はいつも名前をアシリパの祖母に預けさせてもらっていた。そしてアシリパもまた、夜に帰らない杉元の代わりに名前の面倒をよく見てくれていた。
ここまで面倒見のいいご近所さんが他にいるだろうか。助かっているとは言え、二人の厚意に甘えてばかりいるのは良くないことだと杉元は感じていた。

「杉元」

アシリパは申し訳なさそうに顔を俯かせる杉元の名を呼んだ。その凛とした声につられて杉元は顔を上げた。

「お前は名前を引き取って後悔しているのか?」
「……!そんな訳ない!」
「だったら名前の前でそんな顔をするな。子供は大人の姿をよく見ている。誰に対しても遠慮するお前を見て、名前はどう思う?」
「…………」
「お前が名前の世話を負担に思うから、その負担を私や祖母に掛けたくないと思っているんだろう?」
「それは……」

杉元は言葉を濁した。返す言葉が見つからなかったのだ。

「私も祖母も、名前の世話を楽しんでいる。負担に感じたことなど一度もないぞ、杉元」
「アシリパさん……」

そう言って微笑んで見せるアシリパに、杉元はどこか救われたような気持ちになった。自分の味方になってくれる存在がこんなにも近くにいるのだと改めて実感する。
義姉の親族全員を敵に回した杉元にとって、アシリパの言葉は心強く感じられた。

「さぁ、そうとわかれば今日も私の部屋で人生ゲームをしよう、名前!」
「うんっ!」
「あっちょっ……勝手に名前連れて行かないでアシリパさん!」
「佐一兄ちゃん、早く早く〜」
「早く早くじゃなくてっ……あーもう、お前は少し遠慮を覚えろ名前!」



──もし、名前が俺の甥っ子じゃなくて全く知らない他人の子でも、俺はこんな風に名前と過ごせるだろうか。
俺はただ、自分との血の繋がりだけにこだわっているだけなんじゃないか──そんな風に考える日もあった。

だけど今わかった。
そんな考えに縛られずに生きる道がちゃんとあるということに。

俺は名前を護る。名前が俺を信じて頼ってくれるのなら、俺はそれに対して全力で応えるだけだ。だから名前を大切にしてくれるアシリパさん達も俺が護る。

俺はもう、一人じゃない。


prev / next

[ back to top ]


×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -