短編小説 | ナノ

▽ 報われぬ魂


すべての窓に板が打ち付けられた廃寺の薄暗い一室に、一人の青年が運びこまれた。

生地も破けてボロボロの布団に寝かされた男は、身じろぐこともなく熟睡している。わずかに上下する胸で彼が生きていることは証明されるが、顔色の悪いその顔は、あまりにも作り物じみていた。

その彼を、布団の側に立って眺めている男がいる。
金糸の髪に混じった赤毛や身に纏った絢爛な着物から歌舞伎役者ではないかとも推測されるが、男の表情がそれを否定した。

縦長の虹彩が浮かぶ獣の赤目。中でも鋭い眼光は、ある種の危うい光を灯している。血管の浮かぶ大きな手には鋭い爪まであった。体中に走る精緻な赤の刺青は一つ一つが炎の紋様を表し、そこに込められた呪いの力が異形の者として形作っている。その異様な姿に自ら近づく者はいないだろう。

おもむろに男は青年の髪を梳き、そのまま目蓋を覆い、唇を合わせた。そっと触れるだけの軽いものだったが、男はそれでも満たされたような気持ちになる。男がかつてより愛してやまなかった「彼」を、この腕に抱くことができるのだから。

もう一度、彼に口づける。息苦しいのか、わずかに顔をしかめるが、そこはおいおい教育すればいい。焦ることはない。男は彼の恋人なのだから。

最後に男は青年の右足首に足枷を填め、赤い番傘を手に取ると上機嫌のまま部屋を後にした。



◆◆◆



苗字名前は、ひどい頭痛に眉をしかめた。
身体を起こそうと試みたが、目蓋を持ち上げることでさえ億劫だと感じてしまう。
名前には昨日の記憶が無かった。嫌なことは忘れてしまう癖があったが、昨日のことを丸一日忘れるなんてことは今までになかった。それに右足首にかすかな違和感を覚える。意を決して身体を起こし目蓋を開けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。

「何、これ……」

右足首には重々しい枷が填められ、そこから錆びついた鎖が伸びている。鎖の先を辿ると、薄汚れた仏像に何重にも巻きつけられ、さらには南京錠がかかっていた。

鎖の長さは相当ありそうだが、いまの名前にはまったく意味がなかった。鎖を解く以前に足枷を外さないことには、ここから逃げ出すことはできない。

改めて周りを見渡す。辺りには仏像の他に文机と古びた座布団がひとつずつと、一箇所に扉が見えた。窓らしき物はすべて板で塞がれていたが、隙間から漏れている僅かな灯りで全体を見渡すことはできた。

広さはそこそこあるが、外へと通じる扉や窓が閉ざされ、何よりも鎖で繋がれているという状況が名前をさらに混乱させた。

ここに居てはいけない。足枷を外そうと、がむしゃらに手足を動かす。しかし足首を痛めるだけで、まったく外れる気配はない。

「何で……ッ!くそ!」

苛立ちをこめて鎖を床に叩きつける。


その音に気付いた男が、廃寺の側に生えた朽ちた御神木の太枝から立ち上がった。月の光すら遮る番傘と共に男が抱えていたのは竹でできた小さな籠。中には柿の実があったが、そのどれもが熟れ過ぎて果肉が腐りかけていた。

男の顔に笑みが浮かぶ。そろそろ頃合いだろう。
男は籠を木の下に落とすと、音もなくその場から飛び降りた。潰れた柿の実以外、そこには何も残らなかった。



◆◆◆



「名前、目が覚めたのか」

足枷をガチャガチャと弄っていた名前の耳に、ふと男の低い声が聞こえた。ビクッと肩を揺らし、声が聞こえた方を振り返る。

そこには煌びやかな紅い着物を纏い、大きな番傘を担いだ男が立っていた。名前は男の顔を見て目を見張った。

「杏寿郎……?」
「俺だとわかってくれたか」

そう言って嬉しそうにはにかんだ男は、名前のよく知る存在だった。名前が幼い頃から一緒に過ごしてきたかけがえのない幼馴染み──つい先日に鬼との死闘で亡くなったと告げられたばかりの、煉獄杏寿郎だった。

しかしその姿は──“人間だった”杏寿郎とは明らかに違う姿をしていた。一目見てその変化に気付いた名前は己の口元を震える手で覆い隠した。

「何で……嘘だ、どうして……」
「会いたかったぞ名前。あの日、俺は死ぬ間際にお前のことを思った。きっとその思いが通じたのだろうな。こうしてまた会うことが叶ったのだから」

訳の分からない言葉を紡いで、さらに名前との距離をつめる。口元に携えた笑みが怖くてしかたがなかった。

名前は後ずさろうとしたが、すぐ後ろに壁がありどこにも逃げ場はなかった。
杏寿郎は布団の上に踏み込み、名前の目の前に膝をついた。

「違う……杏寿郎は、死んだって……前に鴉が……」
「死んだな。ああ、俺は一度死んだ。いや、死んでなかったのかもしれん。しかし今となってはそんなことどうでもいいことだ。俺は今こうして生きている。お前の前にいる。それだけで充分ではないか」
「違う!杏寿郎はこんなことしたりしない!お前は鬼だ!杏寿郎に化けた鬼だ!」

名前は足枷を指し、杏寿郎に訴えた。

「枷を外せ!僕をこんな所に閉じ込めてどうするつもりなんだ!」

名前の怒鳴り声が上がるたび、杏寿郎の瞳から少しずつ温度が失われていく。先程まで浮かんでいた笑顔が急に消えたことに名前は声を詰まらせた。

不意に杏寿郎が手を伸ばす。嫌悪感から名前は鬼の手を叩き落とそうとしたが、前髪を掴まれ、背後の壁に思い切り後頭部を叩きつけられた。

「痛っ!」

目覚めたときの頭痛と相まって、目の前に星が散った。予想以上の鬼の膂力に全身がすくむ。
杏寿郎は、にゅっと顔を近づけ不気味に笑った。

「名前。わかるだろう。俺は煉獄杏寿郎だ。お前の幼馴染みの──」
「ッち、ちが…ぅ……」
「ん? 何が違う?」

名前は目の前の鬼を退かそうと抗うが、まるでビクともしない。
それどころか杏寿郎は己の鋭い爪を名前の首筋にあてがう。恐怖のあまり、身動きが取れなくなった。

「お前は愛いな。昔から変わらず、俺を困らせて気を引こうとする愛いやつだった」
「ぅ……」
「わかるぞ、名前。ただの幼馴染みではないとお前は言いたいのだろう?」
「ひっ」

あてがわれていた爪がゆっくりと下に降りて、名前の着物を崩していった。はだけた胸に手が這わされ、名前は悲鳴をあげて咄嗟に顔を逸らした。

「俺とお前はもう想いが通じ合った恋仲だ。ここなら誰にも邪魔される心配もない。俺と共に永遠に暮らそう」
「っ、や……」
「何だ? よもや、嫌だなどと言う気ではあるまいな?」

鋭い眼光が名前を捉えた。途端、金縛りにでもあったかのように体が動かなくなる。名前は今にも泣き出しそうな顔で口を噤んだ。

「名前……名前、そんな悲しそうな顔をするな。お前に泣かれるのが俺は一番堪えるのだ」

杏寿郎の大きな手のひらが名前の頬に添えられた。鋭い爪の生えた指が、名前の血の気の引いた白い頬を優しく撫でている。その覚えのある懐かしい感触に、名前はついに溜めていた涙を頬にこぼした。

「ああ……泣いてしまったか。しかし涙を流すお前も実に愛いな……。こうして一生眺めていても飽きない美しさだ」
「や、めて……触らないで……」
「何故だ? 俺とお前は恋仲だろう。何故俺を拒む」
「杏寿郎は、こんな酷いことしない……僕を閉じ込めたりしない……」

鼻を啜りながら涙声で話す名前に、杏寿郎は無意識のうちに己の胸を着物の上から鷲掴んだ。

“何か”が、杏寿郎の中で大きな声で叫んでいる。「やめろ」「手を出すな」その繰り返しが何度も続く。悲鳴にも似たその強い声は、杏寿郎の手をそれ以上動かせないように戒めているようだった。

「……何故だ」

杏寿郎はぽつりと呟いた。

「何故拒む。俺はお前をこんなにも愛しているのに。お前も俺を好きだと言っていたはずだろう。何故俺を拒もうとする」

解せない。納得できない。杏寿郎の中で苛立ちばかりが募っていく。目が覚めたとき、きっと笑って喜んでくれるものだと信じていたのに裏切られた気分だった。

杏寿郎の胸の内側で何かが暴れて、必死に外に出ようと爪で引っ掻き回している。
やめろ。外に出てくるな。“お前”はもう死んだのだ。これからは“俺”が名前を愛してやるのだ。邪魔をするな。

「お願い……家に帰して……」

震えた声で懇願された。杏寿郎は感情のない笑みを浮かべて首を傾げた。

「何を言っている? お前の家はここだろう? 俺と共に暮らすための、新しい家だ」
「ちがう……僕の家は、藤の花の──」
「違わない!」
「ひっ……!」

突然怒鳴り声を上げた杏寿郎が、己の拳で名前の顔の真横にある壁を殴りつけた。朽ちた壁は杏寿郎の拳で大きな穴を開けて、冷たい風がそこから吹き込んでくる。恐怖に竦み上がった名前は両手で頭を抱えた。

「何も違わない!いいか!お前の住処はここだ!どこにも行かせはしない!逃げようなどと考えるな!大人しく俺のそばにいろ!永遠にだ!わかったか!!」
「っ……!」

声にならない悲鳴をあげながら、名前はこくこくと必死に頷いて見せた。恐怖に歪んだその表情には喜びの欠片も見えないが、名前が頷いてくれたことに杏寿郎の怒りは少しずつおさまっていった。

「……怒鳴ってしまってすまない、名前」

一度怒りが引いたあとは、まるで別人のように優しくなった。怯えて小刻みに震える名前の身体を杏寿郎はそっと腕で包み込んだ。

人間の杏寿郎より一回り大きくなった鬼の体躯は、平均より一回り小さな名前の身体などすっぽりと覆い隠せてしまう。太い腕が名前の胴体に回され、壊れものでも扱うかのように優しく抱き締めてきた。

「震えているな。まるで狩られる前の兎のようだ。しかし名前は兎とは違うな……ああ、そうだ。お前は自由気ままな猫のような奴だった」

語り掛けてくる鬼の言葉は、目を閉じて聞いていればまるで本物の杏寿郎が語り掛けているように思えた。名前は涙で膜の張った瞳をそっと閉じて、自分を包み込む温もりに大人しく身を委ねた。

「素っ気なく振る舞う割に相手の気を引こうと必死な姿を見せてくる。だが下手に構おうとすれば警戒心を露にさせて逃げ出そうとする。……お前は我が儘で愛らしい俺だけの猫だ」
「ッ!」

名前が黙ったままじっとしていると、突如身体を布団の上に転がされた。鎖が擦れ合う金属音が辺りに冷たく鳴り響く。
布団の上で仰向けに寝かされた名前は目を白黒させながら、自分を上から愉しそうに見下ろす杏寿郎を見つめた。

「名前。俺と夫婦になろう」
「……嫌だ」

名前は顔を背けようとしたが、顎を掴まれ杏寿郎の正面に固定される。

「なると言え。俺を受け入れろ」
「っ、ぃ……やだ……」

否定的な言葉を吐き捨て抵抗しようとした名前の口は、杏寿郎のそれによって塞がれた。
口の中に杏寿郎の舌が入ってくる。蛇のようなその動きに、名前は思わず奥歯を噛みしめた。

「……っ」

低い呻き声を上げ杏寿郎の口が離れる。舌を噛まれたようだ。名前は荒く息を吐き、杏寿郎を睨みつける。その反抗的な目が杏寿郎を苛立たせた。

杏寿郎は名前の胸倉を掴み上げ己の爪を横に薙ぐと、一気に着物を切り裂いた。

「っあ!」

名前はいまの自分の状況が信じられなかった。この男が自分に何をするつもりなのかを、理解してしまったからである。

杏寿郎は破れた着物を広げ、名前の上半身を露わにした。

「そう怯えるな、名前」

杏寿郎の鋭い爪が頬から喉、胸、腹へとつたう。時折皮膚に強く押しつけられ、名前は「ひっ」と悲鳴を上げた。

「もっと虐めたくなってしまうだろう」

杏寿郎はそう言いながら名前の胸にある突起に爪先をあてる。

「綺麗だな」

名前は口を真一文字に結び、屈辱に耐えていた。

「痛っ……」

不意に左胸に鋭い痛みが走る。乳首のすぐ下に薄く切り傷がつけられていた。

「……甘い香りがするな」

杏寿郎はもう片方の突起に手を伸ばし軽く揉んで、傷口に鼻先を寄せると匂いを深く吸い込みながら名前の反応をうかがった。

「離して……!」
「ん? 痛かったか?」

杏寿郎は愉しげに笑い、血の滲む乳首に歯を立て、それを愛撫した。ビクリと名前の体が跳ね上がる。

甘く、芳しい、芳醇な生命の根源が、鬼の喉を潤していった。以前に何時、この甘さを味わったのだろうか、もはや彼は思い出せなかった。

突き破った皮膚から流れ出る暖かさを味わい、その甘さを味わい、ポタポタと溢れ出した数滴の為に白い肌を舐めた。

『やめろ!!』
「ッ……!」

ドクン、と強く心臓が跳ね上がった。
また、あの煩わしい声が己の中で叫んでいる。

『名前に手を出すな!!』
「くそ……」
『名前を傷つけるな!!』
「黙れ……」
『名前を泣かせるな!!』

──うるさい。お前は引っ込んでいろ。

声を上げて何度も抗い続けるもう一つの意思を、鬼は己の体の奥に再び押し込めた。叫び声は次第に遠くなり、そのうち何も聞こえなくなった。

「う、ぅ……」
「ああ、待たせたな」

呻き声に気付いた鬼が、さっきまで苦痛に歪めいた顔に微笑みを浮かべた。

歯を食いばり強張っている頬に指を這わせると、ろくに熱の残っていない名前の体に震えが走る。

蒼白な顔に驚愕を張り付かせたままの彼の頬をそっと両手で包むと、鬼は血で濡れた唇で彼の唇を奪った。あの甘い血の匂いとは違う、己の呪われた血の匂いがした。舌を噛まれた際に混ざったのだ。

名前の咥内は微かに暖かい血で濡れていて、そこに熱を持って鬼の舌が潜り込んでくる。歯の並びを嘗め回し、柔らかな唇を食み、彼の舌に絡めて弄ぶ。

「ん……ぅ、んッ……いやだっ!やめろ!」
「まだ抗う気か。それ以上抵抗するのであればお前の祖父を殺しに行く」
「!!」

信じられないものを見る目で名前は杏寿郎の顔を見た。濡れた瞳にさらに涙が溢れてこぼれ落ちる。その表情を見て、杏寿郎の中で言い知れない感情が湧き上がってくる。

──ああ、名前が俺を見ている。俺しか見えていない目だ。

満たされる。かつて拒まれ続けた負の反動が今になって襲いかかってきた。熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なく衝き上げてくる。

「……なる」
「ん?」
「っ……夫婦に、なるから……」

爺様を殺さないで──今にも消えてしまいそうな涙声で懇願した名前に、杏寿郎は恍惚とした表情を浮かべた。

「安心しろ。幸せにすると約束する」
「ッ……ぅ、うぅ……」
「これからは永遠に二人きりだ」

杏寿郎は力なく横たわる白い手を取り、甲に口付け、名前の顔に唇を寄せた。
あの煩わしかった声はもう遠く、大事な記憶すら消えかけた彼の中で、奪った唇の呼気だけがいつまでも暖かかった。


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