短編小説 | ナノ

▽ 籠の中の歪み愛


昔々あるところに、大きくて立派お屋敷がありました。そこには仲の良い三兄弟と、一人の真面目な執事が暮らしておりました。

しかしある時のこと、三兄弟の長男が水難事故で亡くなってしまい、長男と仲も良く年の近かった次男は深い悲しみの感情に囚われてしまいました。そうして大き過ぎる喪失にトラウマを覚えてしまった次男は、まだ生まれて間もない三男を決して手放してなるものかと固く心に誓いました。

従順な執事は二人の主人に傅き、変わらぬ愛を注ぎ、常日頃から平等の扱いを心掛けておりました。

沢山の愛を与えられ続けた三男は心優しい子に育ち、三男だけを見つめ愛しんできた次男は──


三男だけしか愛せない、狂った貴公子となってしまいました。


◆◆◆


「最近、名前に近付き過ぎではないか?」

給仕の合間、主人の突然の問い掛けに紅茶を注ぐ手を止めた。

甘く芳しい香りがカップから漂う中、机上の書類にサインを済ませた鯉登は、気だるげな瞳を伏せ目がちに執事に向けながらペンを投げ出してワザとらしく溜息を吐いてみせる。

「いつもと変わらず、身の回りのお世話をさせていただいておりますが」

執事の月島は至極冷静な態度でそう鯉登に返した。その返答が気に食わなかったのか、鯉登は眉根を寄せると机の引き出しから何かを取り出した。鯉登によって引きずり出されたそれは一見するとただの白い布のように見えるが、机の上に置かれたことによりその全貌が明らかになる。

「名前が昨夜着ていたワイシャツだ」
「…………」
「お前の匂いがした」

子供用に造られた白いワイシャツにはシミひとつない。それは常日頃から月島が丁寧に洗い上げているからだ。それ故に月島は今までに一度だって、汚れが残っているなどと指摘された事はなかった。が、しかし、匂いについては別だった。

「……名前様の身の回りのお世話をしている以上、私の匂いが多少なり移ってしまうのは避けられません。ですが私なりに、着替えの回数を増やして名前様に匂いが移らないよう工夫は致しました。それでもまだ、匂いますでしょうか」
「ああ、匂うな」

背筋を伸ばす月島を鯉登は目を細ませて睨んだ。席を立ち、机の上にあるワイシャツを握りしめて顔の前にまで持ち上げる。憎々しいとその目で訴えかける鯉登に対し、月島は変わらず冷静だ。

「いいか、月島。しっかり心に留めておけ。世話と称してもしも名前にふしだらな真似をしようものなら、お前と言えど私は絶対に許さん。馬鹿な真似はするなよ」
「はい。承知致しました」
「……もういい。行け」
「失礼致します」

再び席に戻った鯉登に月島は恭しく頭を下げると、そのままティーワゴンを引いて部屋から出て行った。

一人残された鯉登は握ったままだったワイシャツを口元に寄せ、軽く鼻を鳴らす。愛してやまない弟の匂いが鼻腔を通り抜け、脳髄を甘く蕩けさせる。そこに混じる余計な匂いさえなければ、鯉登はこのワイシャツを永遠に洗わずに取っておこうとさえ思った。

「名前……」

うっそりと微笑みを浮かべて、鯉登は弟の名を囁いた。恋い焦がれる乙女のような表情で頬を赤らめ、ここにはいない名前のことを思い出す。

鯉登の中で、黒く淀んだ生き物が蠢いた。


◆◆◆


屋敷の広いキッチンにて、月島がいつものように一人でディナーの準備を進めていると、不意に後ろから強い衝撃を受けた。腰にもろにぶつかってきたそれを、月島はゆっくりと振り返って確認する。そしてそれを視認した月島は困った表情を浮かべた。

「名前様……包丁を扱っている最中にそのように体当たりをされますと大変危険です。どうかおやめください」

月島の腰に腕を回して抱きついていたのは、この屋敷のもう一人の主人である名前だった。

名前は生まれた時から自分の身の回りの世話をしてくれていた月島によく懐いていた。月島もそんな名前のこと自分の息子のように可愛がり、大切に思っていたが──長男を喪った鯉登が変わってしまってからというもの、彼は名前との余計な接触は極力避けるようになっていった。これも全て、嫉妬に狂う鯉登をなだめるためだ。

しかし名前はそんな月島の思いも知らずに、真っ直ぐて純粋な愛を毎日彼にぶつけてくる。月島が離れようとすればするほど、名前は惹かれるようにして月島に懐いた。

「月島さん、僕もお手伝いしたい……」
「それは……いけません。貴方は私の主人であるのですよ。それに、私のことは月島とお呼びくださいと何度も……」
「僕、リンゴ剥く……」
「名前様、今夜の献立にリンゴは使用致しません。それよりも、お勉強はどうされたのですか? もう終わったのですか?」
「だって……難しくてわからない……」
「……わかりました。後で私がお部屋まで伺いますので、名前様はどうかお戻りください」
「早く来て欲しいから、お手伝いする……」
「名前様……」

これだった。月島がこの屋敷に残る理由の一つは、名前への愛おしさにあった。芽生えた時から密かに育ませていた愛情を摘むことなど、月島にはできなかったのだ。

鯉登は名前を歪んだ愛で束縛し、名前もまた月島を無意識のうちに愛で束縛していた。否、月島の場合は束縛されることを望んでいたのかもしれない。名前に突き放された時のことを思うと、月島は胸が張り裂けそうな気持ちになった。そしてそれを形容する言葉を月島は知っていた。知っていたからこそ、月島は認めようとしなかった。

自分の主人である名前に想いを焦がすなどと、執事として許されるべきことではないのだから。ましてや名前はまだ幼い少年で、恋の経験もない純潔な存在である。その身に触れることすら畏れ多い。

しかし、今になってもう──


「……もうすぐディナーのお時間です」

月島は名前の顎に手をかけて、幼い顔を自分の方へと掬い上げた。

「時間になりましたらお呼びいたしますので、名前様はお部屋にお戻りになってどうか大人しくお待ちくださいませ」

目を細ませ、名前のつぶらな瞳を覗き込む。自分だけを映すその瞳に月島は喉の渇きを覚えた。月島の視線が自然と名前の唇に向く。強く触れればそれだけで破れてしまいそうな名前の唇は、月島の目に熱い果実のように映った。

──貪りたい。俺を狂わすこの唇を、余すことなく。

「……さぁ、名前様」

月島の指が唇をなぞって、そっと名前から離れた。名前は触れられた下唇を上唇で食むと、コクコクと頷いてキッチンから走り去って行った。別れはあっさりとしたものだった。

「…………」

唇をなぞった手を握る。月島はそのままカウンターに振り向いて、置いたままにしていた包丁を握ろうとしたが、その手は空中で静止する。すると何を思ったのか、月島は置いていた包丁を逆の手で持つと、自分の指に小さな切り込みを入れた。赤い線から微かな血が溢れる。月島はそれを、おもむろに自分の唇に充てがった。

これは、指を切ったからだ──何かに言い訳するように胸の内で呟くと、月島は溢れる血液ごと自身の指を舐めとった。

月島の獣のような瞳が鈍い光を放っていた。


◆◆◆


キッチンから飛び出した名前が自分の部屋に向かうと、出る時には閉じていた筈の部屋のドアが微かに開けられた状態になっていた。名前は不思議に思いつつ、中途半端に開いていたドアを開けて自分の部屋の中へと入って行く。

「……名前」
「……!」

その時背後から聞こえてきた声に、名前は咄嗟に反応できなかった。振り返ろうとした瞬間に、名前は体を抱き上げられあっという間にベッドへと運ばれた。マットの上に転がされた名前が上を見上げて大きく目を見開く。

「にぃに!」
「名前〜!」

ぱあっと明るい笑顔を浮かべて指を差す名前に、馬乗りで上に跨っていた鯉登は締まりのない笑みを浮かべて見せた。

「どこに行っていたんだ〜!部屋に行ってもいなかったから心配したぞ〜?」
「やぁっ、くすぐったぁい!」

鯉登は名前の小さな頭を抱き込めると、すりすりと柔らかな頬に頬擦りをする。名前は擽ったさに身をよじらせて抵抗した。

「はぁ……全く」

ひとしきり頬擦りを堪能すると、鯉登は一息ついて名前を横目に睨んだ。

「また月島のところに行っていたな?」

先ほどとは打って変わって急に声色を変えてきた鯉登に、名前はケロリとした顔で頷いてみせた。

「うん。お手伝いしようと思ったの」
「名前……月島には不必要に関わるなと、あれ程言っておいただろう?」
「でも……月島さん、一人でご飯作るの大変……」
「それがあいつの仕事だ。仮に何か有事があっても、他の使用人に任せる。だからお前は私の側にいればいい。本当ならお前の世話だって、私だけがしてやりたいくらいだ」
「でも……」
「ああ、わかってる。お前はそれを望まないんだろう? だから大目に見てやっているんだ」

鯉登は身を起こし、マウントをとった状態で名前を上から見下ろした。

──嗚呼、なんて可愛らしい完璧な弟だ。

幼い弟を育てたいと願ったのは鯉登自身だ。望み通り、何者にも染まっていない真っ白な状態の名前を、鯉登は望むままに教育してきた。純粋無垢で、自分だけを信じて頼るように。しかし理想通りに育ってくれたはいいが、名前から向けられる感情は幼いばかりの甘えや我儘のようなもので、自分と同じ想いをこの弟の中に見つけることが出来ないでいる。

──どうすればお前は私だけを見てくれる?

「にぃに、重たい……」
「では、替わるか?」
「替わるって?」
「こうするんだ」
「わっ……」

鯉登は自分の下に敷いていた名前を抱き上げて、自分がマットの上に転がると名前を腹の上に乗せた。鍛え上げられた鯉登の硬い腹筋の上に名前が乗ったところで、重くもなければ苦しくもない。むしろその僅かな重みでさえ、鯉登には愛おしく感じられた。布越しに伝わる名前の温度が心地良い。

「これなら文句なかじゃろ?」
「にぃに、また訛ってる」
「すまんすまん、無意識だとどうにも直せなくてな……」
「にぃにがお仕事する時、訛ったら偉い人に言葉が伝わらないって月島さん言ってたよ」
「……また、月島の話か……」

和やかだった空気が一瞬で変わった。
鯉登は腹の上に乗せていた名前の背中に手を回し、Y字のサスペンダーへと指を掛けた。しっかりサスペンダーを掴んだ鯉登は名前の背中を押して、強引に体を自分の方へと倒させる。倒されたことで胸の上に両手をついた名前が、目を丸くして鯉登の目を覗き込んだ。鯉登の仄暗い目には、名前の呆気にとられた顔しか映っていない。それだけで独占欲が満たされて、鯉登の気がいくらか晴れた。

「名前はむぜなぁ……」
「……僕、可愛くないよ。カッコよくなりたい」
「よかや、名前はこんままでよか……」
「んっ……」

鯉登はうっとりとした声で囁き、名前の頬に口付けた。うなじに手を回すと、名前が擽ったそうに胸を押した。

「もう、にぃに、チュッってするのやめて」
「嫌じゃ。月島の匂いがする。こんままじゃ気に食わん」
「もぉっ、やだぁっ」

頬だけでなく耳元や首筋にまで何度も口付ける鯉登に名前は抵抗した。そんなくすぐったいと暴れる名前の体に、鯉登は小さな火種を次々と植え付けていく。

「名前……こっちに来やんせ」

さてこの火種がいつ芽吹くのか──鯉登は成長した頃の名前を想像し喉を鳴らして笑った。


──ああそうだ、名前。お前の相手は、私じゃなければ許さない。


鯉登の中で蠢いていた生き物が、その黒く淀んだ姿を露わにさせた。


◆◆◆


ディナーが終わり、鯉登は明日に控える仕事の準備に取り掛かる。若くしてこの屋敷を取り仕切る主人となった鯉登は、いつだって忙しく休む暇もない。だからこそ、名前の世話のほとんどは執事である月島に任せていた。

そんな世話役の月島がいつもと同じように、名前を風呂に入れようとしたところ、彼は名前の白い首筋に残る跡に気付いた。点々と残る小さな鬱血の跡は人為的につけられた、いわゆるキスマークである。

あの方がつけたのか──月島は名前の首筋についたキスマークに指を這わせた。

「んっ……なぁに?」
「いえ……虫刺されがありましたので」
「え〜どこぉ〜?」

指摘された名前が、必死になって手を首筋に回す。痒くもないはずなのにポリポリと肌を掻くので、月島はそれを止めるように名前の手を後ろから優しく掴み取った。

「後でお薬をつけましょう。今はまず、体を清めて……」
「でも、気になる……」
「大丈夫ですよ。掻くと余計に跡が残りますので、今はそのままにしてお風呂にお入りください」
「……うん……」

名前はまだ気になるらしく、掻くまではしないもののしきりに首筋を気にしているようだった。「掻くのは禁止ですよ」と念を押し、月島は脱がした衣服をまとめて、頭を下げると浴室から出て行った。


──ここ最近、益々執着心が強くなっているようだ。

ディナーの時間でも、鯉登は傍らに控える月島に見せ付けるようにして名前を自身の膝上に抱き寄せていた。食べにくいと抗議する名前を決して離さず、テーブルの上に並べられたスープを自らの手で飲ませようとしていた。

名前が嫌がると、鯉登は指を使って強引に名前の口を開かせた。苦しさに喘ぐ名前の顔を斜め後ろから眺めて、興奮しているようだった。月島にはそれを止める権限はない。ただその傍らで、二人のやり取りを黙って見つめるのみだった。

このままではいずれ──否、近いうちにでも名前様は彼に食われてしまうだろう。あれほどまで露骨に見せ付けてくるということは、きっと彼はもう名前様を“そういう存在”として扱う気であるということに違いない。

月島はナイトテーブルの上に置かれた写真立てを見下ろし、密かに拳を握った。写真立てに飾られていたのは、かつての心優しい主人達。生まれたばかりの名前を腕に抱き、二人の兄弟が仲睦まじい様子で笑い合っている。

もうあの頃には戻れない。あの方も、そして俺自身も──


「月島さん、お風呂終わった〜」
「……!はい、ただいま参ります」

浴室から聞こえてきた声に月島は振り返った。既に用意していた着替えを手に浴室へ向かうと、生まれたままの姿の名前が立っていた。

月島は名前の前まで向かうとその場に跪き、高品質のバスタオルで名前の体を肩から包み込んだ。そしてもう一枚用意してあったタオルで髪の毛の水気を丁寧に吸い取らせていった。名前は最初から最後まで大人しくされるがままでいる。月島は手際よく名前の体を拭いていった。

「……あのねぇ、月島さん」
「はい」
「にぃには僕が嫌いなのかなぁ……」
「……?」

月島は脚を拭く手を止めた。顔を上げると、バスタブのふちに腰掛けた名前が不安げな表情を浮かべていた。

「……何故、そのように思われるのです?」
「……最近ね、にぃにがね……僕が嫌って言ってもね……」
「はい」
「……あの、ね……」
「……!」

顔を赤らめて言葉を濁す名前に、月島は目を見開いた。

そんな、まさか──動揺に揺れる月島の視線が、不意に名前の脚の付け根に向いた。タオルで隠れたその白い内股に、微かに見えたのは鬱血の跡。
月島は酷い眩暈を覚え、頭を抱えた。

「……いつから、ですか?」
「……一昨日くらい、から……」
「……そうですか」

心の底の動揺に刺激されて、月島の中に身を潜ませていた黒い獣が目を覚ました。
重い体を引き摺って、上へ上へと這いずるように昇ってくる。それに従うように、月島の手が名前の細い脚を伝った。

「名前様……お薬をつけましょう」
「んっ……お薬……?」
「はい。少しくすぐったいかもしれませんが……我慢できますか?」
「んん……」

名前の肩からタオルが滑り落ちた。脚を登ってくる月島の手に名前は小さく震え、唇を固く結んだ。月島の手はそのまま腿の上を通過すると、脇腹へと移動し胸を伝ってうなじにまで回った。引き寄せられた名前が月島の肩に手をついた。月島は、前屈みになった名前の首筋に自身の唇を寄せた。

「……名前様」
「……っ」

飼い殺しならまだ、救いがあったものを──

「無礼をお許しください。……俺は貴方を、お慕いしております」


──俺は、貴方でないと満たされない。


留めきれなくなった月島の想いは溢れ、黒い獣はついに姿を現した。


◆◆◆


昔々あるところに、大きくて立派お屋敷がありました。そこには仲の良い三兄弟と、一人の真面目な執事が暮らしておりました。

しかしある時のこと、三兄弟の長男が水難事故で亡くなってしまい、長男と仲も良く年の近かった次男は深い悲しみの感情に囚われてしまいました。そうして大き過ぎる喪失にトラウマを覚えてしまった次男は、まだ生まれて間もない三男を決して手放してなるものかと固く心に誓いました。

従順な執事は二人の主人に傅き、変わらぬ愛を注ぎ、常日頃から平等の扱いを心掛けておりました。

沢山の愛を与えられ続けた三男は心優しい子に育ち、三男だけを見つめ愛しんできた次男は、三男だけしか愛せない狂った貴公子となってしまいました。

やがてお屋敷の中から、三男が姿を現わすことは二度とありませんでした。


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