短編小説 | ナノ

▽ 幸せと笑顔の食卓 2


校舎を出てからも名前の手を引いていると、門を抜けた先で俺の手から名前の手が突然離れていった。
一歩前に出た名前が振り返りながら「俺ん家行こ」と笑いかけてきたので黙って頷いた。


名前の家に行くのはこれが初めてではない。前に何度か誘われたことがある。剣道の道場と隣り合わせの家に住む名前はよく俺に剣道の手合わせを頼んできた。

筋がいいと褒められ名前の師範から門下生にならないかと誘われたが、名前にお勧めしないよと言われたのでその場は丁重にお断りした。

名前と一緒に稽古に励んでいたもう一人の門下生の男が、勧誘される俺を終始睨んでいたのが記憶に新しい。名前が言うにはどうやら彼は名前と同居している男らしい。名前は興味がなかったので忘れたが、首に勾玉の飾りを着けた目つきの鋭い男だったのを覚えている。

俺と名前が家の玄関先で別れる際に、最後まで見送ろうとする名前の手を掴んで強引に家の中へと引き摺り込んでいた。別れ際に見るものとしてはあまり気分のいいものではなかった。

なので名前の道場にはあまり行きたくない。またあの男に出会すのかと思うとひどく気分が盛り下がる。もし今日名前が道場に行こうと誘ってくれば帰るつもりですらいた。




「いらっしゃ〜い!」

──結果を言えば、真っ直ぐ家に連れて行かれた。

隣にある道場には目もくれず名前は自分の家の中へと俺を招いた。玄関先で立っている俺に一足先に入って行った名前が「おいでおいで」と笑いながら手招きしている。言われた通りに入ると、そのまま名前は俺を家のリビングまで通してくれた。

「トミー何か飲む?」
「…………」
「オーケー、麦茶ね」

この答え方からして俺が何を言ったとしても麦茶を出すつもりだったのだろう。名前は食器棚から二つのコップを出すと台所に行ってしまった。

「今日珍しく家に誰もいないんだ〜」
「…………」
「だからハメ外して遊べるよ。トミー何したい?」

ここまで誘っておいて行動選択の権を俺に握らせるのか。いや、誘ってから後のことを何も考えていなかっただけだろう。

「おままごとする?」

何故そうなるんだ。流れが全く読めなかったぞ。そもそも俺に選ばせようとしていたんじゃなかったのか。

「じゃあトミーは奥さん役で俺が旦那役ね」
「断る」
「あははは!やっと喋った!」

からかっていたのか、名前は笑いながら俺の前に麦茶の入ったコップを差し出した。

「じゃあトミーが旦那役やる? 俺奥さん役やってもいいけど」

役割が不服で断ったわけではない。そもそもそんなおままごとに付き合う気はなかったのだ。無視していれば勝手に話題を変えるものかと思えばいつまでも楽しそうに続けて、予想外だったから少し戸惑っているだけだ。

「よしダーリン、実は見せたいものが……」
「おい待て」
「ん?」

聞き捨てならない台詞に、俺は台所へ行こうとする名前の腕を掴んで引き留めた。振り返った名前が不思議そうに俺を見ている。

「何だダーリンとは」
「えっ、だってトミーは旦那役だからダーリンだろ」
「意味がわからん。そもそも俺はこの遊びに興じるつもりはない」
「え〜実弥はしてくれたのに」

不死川が? こんなくだらない遊びに付き合ったのか? あの不死川が? 何役だ?

「俺のことハニーって呼んでくれたのに……」
「は、に……?」

不死川も俺と同じ旦那役だと言うのか。だったら名前は嫁役なのか。

『愛してるぜェ、ハニー……』
『嬉しいダーリンっ……!抱いて!』

自分で想像しておいてここまで吐き気を催したのは初めてだ。コップを握る手が震える。目眩がして思わず頭を抱えてしまった。

あり得ないことだろう。あの不死川が名前をハニーなどと呼ぶなど──いや、よく考えれば名前が俺をからかうために嘘をつくことはよくある事だ。どうせまたいつもの嘘に決まっている。

「嘘をつくな」
「嘘じゃないよ。後ろからガッチリホールドされて苦しかったんだから。冗談で言っただけなのにマジになって襲ってくんだもん」

襲われたのか? 不死川に? それでお前はどうともなかったのか? 何も感じなかったのか? そんな事が許せるくらいに深い関係なのか?

「トミー、もう腕離してよ。俺やる事あるから──」

手を振り解こうとする名前を後ろから抱き締めた。言葉を切った名前はそれ以降何も言わない。後頭部から覗く名前の耳は真っ赤に染まっていた。
不死川の時も、そんな反応を見せたのか。

「……っ、トミー、どうしたの……」
「……こうされたかったんじゃないのか」
「ち、違うし……離してよ……」
「不死川はしてくれたんだろう」
「実弥のは、こんなのじゃ……なくて……」

言葉が尻窄みになっていく名前の声は震えている。ますます赤くなっていく耳元に、これ以上の行為をされたのかとはらわたが煮えくり返りそうだった。

「っ……も、ダメ……」

呟くなり、震えていた名前が突如吹き出した。

「あっははははは!!」
「……?」
「あひぃーっ!いひひひひっ!!ひぃーっ!」

突然爆笑し始めた名前に困惑した。何故いま笑うのか全くわからなかった。

「ばっ、と、トミー!あひっ!さ、実弥のはこんなんじゃなくてっ、ぶふ!」
「……なんだ」
「ふっ、ふふっ、だからっ……実弥はのは、こう!」
「……っ!」

その瞬間、強く抱き締めていたはずの腕がいとも簡単に外された。掴み上げられた両腕が背中に回されると固定され、抵抗する間もなく首の前に回された片腕がグッと喉を締め付け呼吸を一瞬だけ止めた。

「お遊びにしても酷いでしょ!? あんなマジギレしなくてもいいのにさぁ、『愛してやるよハニィよォ!』っていきなり首絞めてくるんだもん!冗談で言っただけなのに!」
「……もうわかったから、離せ」
「あ、ごめん」

ようやく解放されて振り返ると、名前は悪びれなくニコニコと笑いながら俺を見ていた。その笑顔を見ていると急に居た堪れなくなり、俺は荷物を持ってリビングから出ていった。

「あっ待ってよ!何で帰んのさ!」
「…………」
「怒ったの? 何か俺悪いことした?」
「…………」
「お願い待ってトミー!トミーってば!ねぇ!」

玄関にたどり着くなり名前は俺の腕を掴んだ。
そこまで引き留める必要などもうないだろうに。からかうだけからかって大笑いできて満足だろうに、これ以上俺に何を求める。

「……何だ」
「トミーに見せたいものあったんだって!」
「見せたいもの……?」
「うん!こっち!」

どうせまたからかわられる。振り回されるだけだ──わかっていても、名前に強く頼まれると拒めない自分がいる。何故こうもこの男に執着してしまうのかわからなかった。

言われるがまま名前の後を追うと、出ていったばかりのリビングにまた戻された。「座って待ってて」と言われて椅子に座らされ、名前に言われた通り大人しく待つ。

台所に消えて行った名前が「すぐ準備するから」と言うと、ガスコンロを点火させる音が聞こえた。換気扇の回される音、棚が開けられる音、立て続けに聞こえてくる音はどれも調理を始めようとする音だった。

「……何を作っているんだ」
「作ってないよ、温めてるだけ」

何を? それが知りたいのが、待てと言われた以上ここから動くわけにもいかなかった。

じっと座って待ち続ける間に気付いたが、あのおしゃべりな名前が珍しく何も話そうとしない。そういえば名前が調理している姿を俺は一度も見たことがない。たしか、部活動は料理部とかで気分次第で参加していると聞いていたが──

「よーし、できた」

明るい声と共に換気扇が止められる音が聞こえた。台所の方から豊かでコクのある香りが漂ってきている。この香りには、覚えがあった。

「はいダーリン、お待たせ」

台所から現れた名前が、コトリと目の前に深皿を置いた。視界に入ったのは、湯気を出している鮭大根。見た瞬間、すぐにわかった。

「誕生日おめでと〜!確か今日でしょ? ケーキにしようか迷ったんだけどさ、前にトミーが鮭大根好きだって言ってたからそれ作ることにしたんだ〜!いえーい、ドッキリ大成功〜!あっ、今更ケーキの方が良かったとかはナシね!俺めっちゃ部活で練習して頑張って作って──」
「名前」
「ん?」

今まで口を閉じていたのに突然饒舌になった名前に、俺は湧いてくる喜びを噛み締めながら口を開いた。

「……ありがとう」

礼を述べた途端、名前の顔が強張った。意外なものを見る目で俺を見ている。
それでも喜びは隠せなかった。多幸感に包まれて、つい頬が緩んでしまう。

何気なく話したつもりの俺の好物を覚えていてくれたことも、俺のために誕生日を祝おうとしてくれたことも、好きなものを作ってくれたことも、全てがたまらなく嬉しかった。

「……トミーって好きなもの前にしたらそんな風に笑うんだね」

俺の顔を見て最初こそ驚いていた名前が、目を細ませて笑った。

「勿体ないな。実弥もオバニャンも天ちゃん先輩も、みんなトミーのその笑顔知らないなんて」
「……知っているのはお前だけでいい」
「またまたぁ〜」

本心だというのに名前は「素直じゃないんだから〜」と訳の分からないことを言っている。テーブルを挟んで俺の前の椅子に座った名前は頬杖をつきながら俺の顔を見つめた。

「……食べないの?」
「……いただくとしようか」

一度派手に緩んだ頬の筋肉はそう簡単には戻らないものなのか、名前の前だとやけに笑顔が続いた。穏やかな眼差しで俺を見つめる名前からようやく視線を逸らして、目の前にある鮭大根にありつく。

口に入れた大根の煮付けは、少々甘過ぎるほど砂糖が入っていてしっかりと芯まで味が染み込んでいた。煮崩れを起こしていないのに箸で簡単にほぐすことができる大根は驚くほど柔らかく、舌の上に乗せて潰すと含んだ煮汁をじわりと溢れさせた。

鮭にも箸を入れると、大根と同様に力を入れずにほぐすことができた。煮汁を吸って艶を出した鮭の身を一欠片に割って口に運ぶと、飾り気はないが実直でどこかほっとする懐かしい味がした。心の奥まで温められるようだった。

「……うまいな」
「えへへぇ〜ありがとう」

鮭大根から顔を上げて見えた名前の笑顔にさらに胸の奥が温まった。彼と夫婦になれば、毎日こんな贅沢を味わうことができるのか。それならおままごとも悪くないな、などと今更なことを思う。

「……下手なドッキリを仕掛けられるよりはこっちの方がいい」
「下手で悪かったな!」
「褒めてるんだ。可能ならお前と結婚して毎日でも食べたいくらいだ」
「え〜トミーと結婚? 鮭大根食いたいだけじゃん!」
「……?いけないことか……?」
「愛がないだろ!トミーは結婚しても絶対最後は嫁に逃げられるタイプだね!」

気に障ったのか、それともまだおままごとを続けているのか、名前は「実家に帰らせてもらいますからね!」などと言ってそっぽを向いた。

お前の実家はここだろう──そう言いたかったが、相手にしていれば鮭大根が冷めてしまうのでそのまま無視をすることにした。

「ちょっとダーリン聞いてるの!?」

どうやらまだ続けていたらしい。

「ふ……俺が逃がすわけないだろう」

一応反論してやると、名前は一瞬だけ怯んだもののすぐにいつものニヤけ面に戻って「やだぁ惚れ直しちゃう〜」と言いながら身を捩って笑った。

名前の笑い声に包まれた食卓で、俺は幸せで温かな食事を楽しんだ。


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