▽ 大人の芸術 2
「ふぅー……できた」
「……おまんじゅう?」
「えっ……名前くんだけど……」
「えっ」
「えっ……」
そっか。きっと僕は杉元お兄ちゃんに普段からおまんじゅうみたいに見えているんだ。だからこんな風にぺったんこでもちもちした形をした絵になっているんだ。
「……僕、食べてもおいしくないよ?」
「食べないよ!っていうかおまんじゅうじゃないからねこれ!」
「じゃあ今度僕が描くね」
「名前くん聞いて!」
僕はヴァシリお兄ちゃんと杉元お兄ちゃんを描こうと思って、まずはヴァシリお兄ちゃんの特徴を探すことにした。
ヴァシリお兄ちゃんの方を見たら、お兄ちゃんは真剣な顔でまだきゃんばすに絵を描いていた。よく見てみると、ヴァシリお兄ちゃんの髪の毛の色は土の色をしていて目の色は綺麗な空の色をしていた。
綺麗だなぁってじっと見ていたら、ヴァシリお兄ちゃんが突然こっちに目を向けた。目が合うと、お兄ちゃんはまたニコッと目を細めて笑ってまた絵を描くのに集中してしまった。
僕が持ってる黒いペンじゃ、ヴァシリお兄ちゃんの髪と目の色がちゃんと描けない。どうしよう。クレヨンもクーピーも色鉛筆も、全部由兄ちゃんのお家に置いて来てるから取りに戻れない。これじゃあ僕だけ絵が描けない。
もう一度ヴァシリお兄ちゃんの方を見てみた。僕よりずっと描くスピードが速い。早く描かないとヴァシリお兄ちゃんに絵が渡せない。
僕は持っていた黒いペンでなんとか描いてみることにした。だけど杉元お兄ちゃんの特徴は上手く描けても、ヴァシリお兄ちゃんの特徴は上手に描けなかった。
「……ぅ……」
「ん……えっ? 名前くん!? どうしたの!?」
「……!」
どうしよう。上手く描けない。本当のヴァシリお兄ちゃんはもっと綺麗なのに。黒い色だけじゃヴァシリお兄ちゃんの色が出せない。早く描かなきゃいけないのに。どうしよう。どうしよう。
「ひっく……かけないよぉ……!」
「えっ? 何で? あれっ、でも……インク切れじゃないよなぁ……?」
「うぅ……っ」
「…………」
涙が紙の上に落ちて、絵がじわりと滲んだ。せっかく描いたのに、もう全部ダメになっちゃった。
もう今日はダメな日なんだ。由兄ちゃんは嘘つきだし、杉元お兄ちゃんには怒られるし、ヴァシリお兄ちゃんの絵も上手に描けないし、全部ダメダメだ。
「名前くん、大丈夫だよ。ちゃんと描けてるよ」
「ぅっ、ぅっ……かけないぃ……」
「名前くん……」
「……
Не плачь」
「……!」
ぽん、と頭の上に突然手のひらを乗せられた。見上げたら、ヴァシリお兄ちゃんが悲しそうな顔で僕を見下ろしていた。
「
Когда ты плачешь, мне тоже грустно」
「ぐすっ……」
何て言っているのか僕にはわからないけど、ヴァシリお兄ちゃんは僕の頭を撫で撫でしながら苦笑いした。もしかして僕が上手に描けないのを見て励ましてくれてるのかな。
「ぐすっ……うん……ありがとう……」
「名前、ガンバレ」
「……!うん!」
頑張れ、って言ってくれた。ヴァシリお兄ちゃんが僕に頑張れって。
僕がヴァシリお兄ちゃんの真似をして大きくこくこく頷いたら、ヴァシリお兄ちゃんはニコニコと笑ってまた僕の頭を撫でてくれた。それがちょっと恥ずかしくて、でもすごく嬉しくて、僕は胸の中がポカポカした。
「あのね、これ杉元お兄ちゃん……」
「あっ、やっぱり〜?」
僕はペンを握ってもう一度絵を描き始めた。色はないけど、ちゃんと最後まで描いてヴァシリお兄ちゃんに見せてあげるんだ。
「こっちはヴァシリお兄ちゃん……」
「わぁ、いいねいいね〜」
「アシリパお姉ちゃんがこっち……」
「うーん、可愛い!」
「これが由兄ちゃん……」
「うんうん、そっくり〜」
「あとこっちが尾形お兄ちゃん……」
「あー……尾形描くんだー……。うん、まあ、そうだよねぇ……」
紙に描けるだけの人数の絵を描いたらもう人でいっぱいになっちゃった。どれも色がないけど、ちゃんと最後までみんな描けた。
「ヴァシリお兄ちゃん、見て見て。これヴァシリお兄ちゃんの──……わあぁ」
立ち上がって紙をヴァシリお兄ちゃんに見せようとしたら、ヴァシリお兄ちゃんのきゃんばすに描かれた絵が見えた。
きゃんばすには、ニコニコと笑っている僕の絵が大きく描かれていた。
「おっ、やっぱすごいなぁ〜現役美大生は。短時間でもうこんなにスケッチできたのか」
「ヴァシリお兄ちゃんすごいっ!じょうず!ねぇどうやったらそんな風にじょうずに絵をかけるの?」
「…………」
「……?」
僕が訊くと、ヴァシリお兄ちゃんは僕が握っていた紙をそっと抜き取って、僕が描いた絵をじっと見つめ出した。ヴァシリお兄ちゃんみたいに上手じゃないから恥ずかしかったけど、ヴァシリお兄ちゃんは目をキラキラさせながら僕と絵を何度も見比べた。
「
Это я?」
ヴァシリお兄ちゃんは、紙に描かれたヴァシリお兄ちゃんの絵を指差すと今度は自分の顔を指差した。
「……あっ、それヴァシリお兄ちゃんだよ!」
「……!!」
「わっ」
「あ゙ッ!」
絵に描いてあるのがヴァシリお兄ちゃんだって伝えたら、ヴァシリお兄ちゃんは突然僕をぎゅうって抱き締めてきた。嬉しかったのかな。喜んでもらえたのなら僕もすごく嬉しい。
僕がぎゅーって抱き返したらまたヴァシリお兄ちゃんがぎゅーって抱き締めてきた。ちょっと苦しくて「くるしぃ」って言ったら、杉元お兄ちゃんが慌てて僕をヴァシリお兄ちゃんから剥がしてくれた。
「ヴァシリお前なぁ!名前くんは繊細なんだから大事に優しく扱わなきゃ駄目だぞ!」
「…………」
「そんな恨めしそうな目で睨むなよ!本人が苦しがってたから引き剥がしただけで別に俺は二人の仲を引き裂くつもりとかなかったからな!?」
ヴァシリお兄ちゃんがじぃっと杉元お兄ちゃんを睨むから、杉元お兄ちゃんも「違うって言ってるだろ!」って怒ってしまった。喧嘩しないでって言ったら二人とも苦笑いして最後はちゃんと仲直りしてくれた。
「……ん? あ、携帯か」
杉元お兄ちゃんがズボンのポケットからスマホを取り出した。もしかして由兄ちゃんからかな。僕がドキドキしながらじっと見上げていたら、杉元お兄ちゃんはなんだかちょっと残念そうに笑って僕の方を見下ろした。
「由兄ちゃん?」
「正解」
「やったあっ!」
「帰る支度しようか」
「うん!」
由兄ちゃんが僕を待ってると思うと嬉しくて、僕は急いで玄関まで走った。
「あっ……」
だけど僕は玄関で回れ右をして、もう一度ヴァシリお兄ちゃんの元まで戻った。不思議そうに僕を見ているヴァシリお兄ちゃんの手を、僕はぎゅっと握りしめた。
「ヴァシリお兄ちゃん、スパシーバ!また今度遊ぼうね!」
「……!!」
「コラ。すぐ抱き着こうとすんな」
手を離したらヴァシリお兄ちゃんはプルプル震えながら両手を伸ばしてきたけど、杉元お兄ちゃんに上から手を下ろされて、ヴァシリお兄ちゃんはギロッと杉元お兄ちゃんの顔を睨んだ。
「睨むなよ!言っとくがこれが外なら事案だからなお前!」
「杉元お兄ちゃん早く!」
「はいはい、わかってるから急がない!一人で出ちゃダメだよ!」
早く由兄ちゃんに会いたくて杉元お兄ちゃんを呼んだら何故かヴァシリお兄ちゃんが来た。どうしたんだろうと思って顔を見上げたら、ふっとヴァシリお兄ちゃんの影が降りてきた。
「
Спасибо」
「……!」
ふに、とほっぺたに柔らかい感触がした。何だろうと思ってほっぺたに手を当てる頃にはヴァシリお兄ちゃんはもう顔を上げていて、後ろの方で杉元お兄ちゃんが高い声を出して叫んでいた。
そしてすごい速さで僕は杉元お兄ちゃんにヴァシリお兄ちゃんのお部屋から連れ出された。
◆◆◆
──それから何日か経って、ある日由兄ちゃんのスマホに杉元お兄ちゃんから画像が送られてきた。
「おっ、すげーな!」
「わあぁ」
それは、僕が前にヴァシリお兄ちゃんと杉元お兄ちゃんと一緒に描いた絵だった。その隣には、ヴァシリお兄ちゃんがぎゃんばすに描いた僕の絵もあった。表彰状まで並んである。
「ねぇ、なんて書いてあるの?」
「あーっと……『題材が“最高の笑顔”で表彰状をもらったらしい』……だとよ」
「そうなの?」
「そうみたいだな」
「んふふ……」
「おー、生の最高の笑顔だな」
由兄ちゃんも僕に負けないくらいの笑顔を浮かべて僕の頭を撫でてくれた。僕は嬉しくて益々笑顔になった。
「しっかし何だろうな、この絵……。名前が描いた絵なんだろうが……何で尾形ちゃんと杉元の絵だけ色が塗られてないんだ?」
「……? あ、本当だ」
見てみたら、僕の絵には色が塗られていた。だけど尾形お兄ちゃんと杉元お兄ちゃんだけは白黒のままだ。ヴァシリお兄ちゃん、どうして二人だけ色を塗らなかったんだろう。これが芸術っていうものなのかな。
「……由兄ちゃん、これって芸術?」
「あー……かもな。こりゃ大人の芸術だ」
「なんて題名?」
「……嫉妬、だな」
「……?」
大人の芸術は僕にはちょっと難しかった。
だから僕はまた今度、ヴァシリお兄ちゃんと会った時に訊いてみることにした。
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