短編小説 | ナノ

▽ 〇〇しないと出られない部屋


尾形百之助は一枚のメモを見下ろして絶句していた。

『この部屋は名前の手にキスをしなければ出られない部屋です』

あまりにもふざけた文面に尾形は思わずメモを破り捨てたくなったが、現在の状況を見るに迂闊な真似は出来なかった。

何故なら尾形は今、出口らしい出口もない部屋に閉じ込められているからだ。部屋の構造は、尾形が住んでいる団地の部屋とほぼ同じものだった。しかし、そこに外へと繋がる窓やドアは存在しない。置いてある家具も尾形が所持しているものと全く同じものではあったが、ここ最近で使われた形跡が全くない。ここにある家具のどれもが、買って間もない新品の家具だった。それはまるで、部屋にいる者の警戒心を緩めさせるようなものだった。

「…………」

尾形はふと、視線をソファーへと向けた。黒い革製のソファーは尾形が気に入って買ったもので、市場には出ていないはずのものだ。そのソファーの上に、名前が寝転がって眠っていた。尾形は眉根を寄せて、持っていたメモを拳の中に握り込めた。

首謀者はどこかで監視している筈だ──尾形は一度冷静になって部屋の中を見渡した。パッと見渡してみた限り、監視カメラのようなものは見当たらない。四方を囲む壁も、マジックミラーというわけでもなさそうだ。

そうなるとどこかの家具に隠してある可能性がある。尾形は普段の生活に不必要な家具は買わない主義なので、ここにある家具も尾形の部屋と同様に置いてある数は少ない。探せばすぐに見つかるだろうと尾形はこの時思っていた。

──しかしいくら丹念に探しても、それらしいものは一つも見つからなかった。尾形は頭を抱えた。まさに八方塞がりのお手上げ状態である。

「んー……」

突然、ソファーから呻き声が聞こえた。尾形が目元を覆っていた手の隙間から視線を向けると、ソファーの上で寝ていた名前が寝苦しそうに身動いでいた。

部屋の間取りが同じなら──
尾形は何かに閃いて、ソファーまで向かうと眠っている名前を腕に抱いた。そのまま隣の部屋に向かうと、案の定見慣れた自分の寝室がそこにあった。ご丁寧に新品のベッドまで用意してある。尾形は小さく舌打ちを漏らした。

「んん……」

未だに身動いでいる名前を、尾形はそっとベッドの上に降ろした。極力静かに優しく降ろした筈だったが、尾形の気遣いも虚しく名前はベッドの上でパチリと目を覚ました。再び尾形の口から舌打ちが漏れる。

「んぅ……だれ……?」
「俺だ」
「尾形お兄ちゃん……?」

目をこすりながら身を起こした名前を、尾形はベッドに腰掛けて見下ろした。名前は大きなあくびをして見せると、ふと辺りを見渡してから首を傾げた。

「……何で僕、尾形お兄ちゃんのお部屋にいるの?」
「ここは俺の部屋じゃない」
「……?」

名前は訳がわからないといった顔で、今度は反対側に首を傾げて見せた。尾形は首の後ろを掻き、これ以上名前を混乱させるような発言は控えようと心に決めた。

「由兄ちゃんは……?」
「知らん。壁を叩いてみたが反応がない。まあ、近くにはいないだろうな」
「僕、帰る……」
「帰ることができるのなら帰してやりたいが……今は無理だ」
「なんで?」
「閉じ込められている」

尾形は淡々と、事実のみを名前に伝えた。名前はいまいちわかっていないのか、困惑した顔で尾形の顔をじっと見ている。
やはり無理があったか──尾形は共に閉じ込められた相手の理解力のなさにため息をついた。

「……一応、ここを出る為のヒントはある」
「……?」
「…………」

それまで淡々と事実を話していた尾形が、そこになって急に言葉を詰まらせた。手に握らせていたメモを拳の中で擦り合わせ、押し黙った状態で下を俯く。名前は再び首を傾げた。

「尾形お兄ちゃん?」
「…………」

せめてあのまま眠ってくれていれば──
尾形は自身の前髪を撫で付け、きまりの悪い顔を名前から逸らした。
起きてしまったものは仕方ない。

「……名前」

ギシリ──

ベッドが微かな軋みを立てた。
尾形はベッドについていた名前の片手をおもむろに取ると、それを自分の顔の近くにまで持ち上げた。

本気でやるつもりか──?

尾形の中で、誰かが嘲笑った。
途端、眉間に皺が刻まれる。尾形は名前の手を一度離すと、自分の両手の指を組ませて額に押し当てた。深いため息をつきながら腰を曲げ、下を俯いた状態で目を閉じる。

「……尾形お兄ちゃん、どうしたの?」

どうしたもこうしたもない──尾形の中で苛立ちが募る。葛藤の理由について、尾形は真剣に考えていた。

まず真っ先に思い浮かんだのは、こんなくだらないことを企てた奴の思惑通りに動くことに、嫌悪と抵抗を感じたという理由。そしてもう一つ思い浮かんだのが──例えこの部屋から出られる方法がそれだけしかないにしても──名前のような子供相手に大人である自分がキスをするというのは色々とマズいという、世間一般的な常識によるものだった。

「……クソが……ここを出たら殺す……」
「? ……っわ」

ぶつぶつと呟く尾形の顔を覗こうと近付いた名前だったが、その体はごくあっさりと押し倒された。軋むベッドにふわりと跳ねる掛け布団。唖然としている名前の片手を尾形は再び掴み取った。

「目を閉じろ」
「えっ」
「いいから、目を閉じろ」

名前は最初、尾形の意図が分からず混乱していた。しかし彼の、何かに激昂しているような、じれったいとでも言うような黒い瞳を見て、名前は彼の言うことには従わなくてはいけないと感じ、反射的に目を閉じた。

暗闇の中で、掴まれた自分の手が持ち上げられるのがわかる。名前は今すぐにでも目を開けたかったが、その微かな好奇心よりも開けた後の恐怖を思うと瞼は上がらなかった。ドキドキと名前の心臓が高鳴る。

そんな時、不意に自分の指先へ吐息がかかった。そしてそのまま、柔らかな感触が一瞬だけ指先に触れる。ビクリと名前の肩が小さく跳ね上がった。

今の感触はなに──?

名前は眉間に皺を寄せて、恐怖に身を固くした。

「…………」
「…………」

静まり返る部屋。しばらく経って、尾形は名前の手を離すとベッドから降りた。
もう目を開けてもいいのだろうかと、名前は依然目を閉じたまま狼狽えていた。

「……話が違うぞ……」

どこかから、そんな尾形の声が聞こえた。名前はオロオロとしながらベッドの上で手を彷徨わせた。目は相変わらず閉じたままだ。

「どういうことだ……何がダメなんだ……」

ぶつぶつと呟く声が聞こえる。名前は目を閉じた状態で尾形を捜した。そうしてしばらくして、足音がこちらに戻って来る。すると、名前の彷徨っていた手が突然下から掬い上げられた。突然のことに名前は驚いて、思わず手を引っ込めそうになったがそれは叶わなかった。尾形はしっかりと名前の手を掴んでいた。

「……尾形お兄ちゃん。僕、怖いよ……目を開けてもいい?」
「…………」

返事が返ってこない。名前は恐る恐る瞼を開いた。

「ぁ……」

名前が瞼を開けると、目の前には尾形が跪いていた。まるで絵本で見た王子様のように、手を取って片膝をつく尾形は真剣な表情で名前の顔を見ていた。

「……尾形お兄ちゃん、どうしたの?」
「……これでダメなら、俺は頭のイカれたただの変態だな」
「……?」

また何か訳の分からないことを言っている──名前が首を傾げようとしたその時、尾形は目を閉じて名前の手の甲に唇を落とした。

「……!」

予想だにしなかった尾形の行動に、名前は目を見開いて四肢を硬直させた。もし名前の体に猫のような体毛があれば、きっと全身の毛が逆立っていただろう。名前はそれ程までに驚いていた。

尾形による名前の手の甲への口付けは、およそ五、六秒程続いた。姫への忠誠を誓う騎士ですら、そこまで長くはないだろう。その入念とも言える長さの口付けが終わると、尾形の唇は名前の手の甲からそっと離れていった。

──ガコッ!

その時、どこかから何かが外れるような音が聞こえた。
尾形はすぐさま後ろを振り返り、寝室から飛び出して行った。

「! ドアが……」

出口として真っ先に思い浮かんだ場所に向かうと、最初にはなかった玄関のドアがいつの間にか現れていた。こんなもの、たった一瞬で用意できる代物ではない。尾形は夢でも見ているのかと思った。

「尾形お兄ちゃん……」
「……!」

震えた声が聞こえて、尾形は後ろを振り返った。困惑しきった表情の名前が、片方の手首を掴んだ状態で立っていた。その手はつい先程、尾形が口付けをした手だった。

「名前……」

尾形は名前の名を呟き、そっと歩み寄ろうとした。それにビクッと反応して見せた名前が一歩後ろに退がったの見て、尾形は思わず足を止めたが──彼は再び歩みを進めて名前の元まで向かった。視線を合わせるようにその場に屈むと、尾形は名前が掴んでいる手を見つめて、それから名前の顔を見つめた。

「……嫌だっただろ」
「…………」
「……悪かったな」

尾形の視線が下がった。ばつが悪そうに目を背いた尾形に、名前は口を噤んで首を左右に振った。

「……嫌じゃないよ。びっくりしただけ……」
「……そうか」

視界の端に映ったその否定に、尾形はどこか救われたような気持ちになった。無意識のうちに口元が綻び、尾形はそれを隠すように名前を自分の肩に抱き寄せた。胸に当たる名前の手は、未だ手首を掴んだ状態なのか少し硬さがあった。名前の緊張が体を通して伝わる。

「……名前、手を下ろせ」
「ぇっ……でも……」
「いいから下ろせ」

名前は一瞬迷ったが、やがて尾形に言われた通りに手を下ろした。気をつけの姿勢になった名前の体を尾形が改めて抱きしめると、トクトクトクトクと早い心臓の鼓動が伝わった。

なるほど。これは面白い──

最初こそこのからくり部屋のことは忌々しく感じていたが、その用途を知ればそこまで悪いものでもない気がした。

「ん……尾形お兄ちゃん、苦しい……」


行き場のない嘲笑に、尾形の唇が歪んだ。


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