海賊の子 | ナノ

余計な詮索


「何だこの蒸し風呂みたいな部屋は……。こんな所で夏を過ごしていたらいつかその内事故物件になるぞ」
「何それ!? 暑さで死ぬってこと!? 怖いこと言わないで!迂闊に眠れなくなるから!」

「……?」

目を閉じて寝ていたら、由兄ちゃんの大きな声が聞こえた。うっすら目を開けたら、ぼんやりした景色の中に由兄ちゃんの顔が見えた。

「さっき眠ったばっかりだ。起こすなよ」
「もう起きてるぞ」
「なにっ!?」

きょろりと目を動かすと、びっくりした顔の由兄ちゃんの隣に何故か尾形お兄ちゃんがいた。どうして尾形お兄ちゃんがここにいるんだろう。

「あー……翔太、起こしちまってごめんな? あの、今から俺、買い出しに行ってくるから……」
「…………」
「すぐ戻るから、尾形と一緒に……っ」

僕は、なんとか手を伸ばして由兄ちゃんの服の裾を掴んだ。由兄ちゃんは、またびっくりした顔になって僕を見下ろした。

「…………てかないで……」
「翔太……」

なんとか声を出そうとしたけど、喉が掠れていて上手く言葉が出てこない。頭もぼうっとしていてすごく眠たくて、瞼がさっきから何度も落ちてくる。その内瞼も上がらなくなって、由兄ちゃんを掴んでいた手から力が抜けていった。

眠っちゃダメだ。眠っちゃダメだ。眠っちゃったら、由兄ちゃんがいなくなっちゃう。お父さんとお母さんみたいに、もう帰ってこなくなっちゃうかもしれない。眠っちゃダメだ。ダメなのに──

いくら眠っちゃダメだって思っても、一度落ちた瞼はもう上がらなくて、僕はその内何も考えられなくなった。


◆◆◆


「…………」
「…………」

スヤスヤと寝息を立てて眠る翔太の寝顔を、白石と尾形は黙って見下ろしていた。さっきまで白石の服の裾を掴んでいた翔太の手は力を失って、布団の上に落ちている。俯く白石の横顔を、尾形が覗き込んだ。

「どうする? 残りたいってんなら条件次第で代わってやらんこともないぞ」
「……いや。やっぱりあんたが見ててくれ」
「……いいのか?」
「ああ。その代わり──」

白石は布団の中に両手を入れると、眠っている翔太の体をそっと抱き上げた。そのまま静かに立ち上がり、自分を見上げる尾形の顔を苦笑いで見下ろす。

「あんたの部屋で寝かせてやってくれ。俺の部屋、エアコンねーからさ……こいつに寝苦しい思いさせたくねーんだ」

本当は残ってやりたいだろうに、この男は──

尾形は息をつくと、やおらその場から立ち上がって白石の前に両腕を出した。白石は自分の腕の中で眠る翔太を尾形の腕にそっと託し、足元にあるカバンを拾い上げた。中身を確認し、玄関へ向かう。尾形もその後を追って、二人して部屋を出た。



「30分も掛けねぇと思う。何かあったら連絡くれ、携帯は持ってるからよ」

白石はそう言って尾形に連絡先の書かれたメモ用紙を手渡した。翔太は既に尾形の部屋のベッドに寝かされて、二人は玄関先で会話している。尾形は手渡されたメモ用紙を一瞥し、視線を白石の顔に戻した。

「……本当にいいんだな」
「フッ……俺だって残ってやりてぇさ。……できるなら、あんたの部屋でな」

ボソリと呟かれた白石の最後の台詞に、反応した尾形の手が素早く玄関先の警棒に伸びる。

「ほらぁ〜そういうとこ〜」

白石は乾いた笑みを浮かべて両手を挙げ降参の意を示した。

「俺が戻ってくる頃まで寝てるだろうから、たぶん大丈夫だろうと思う。もし翔太が目を覚ましたら、その時はフォローよろしく頼むぜ、尾形ちゃん」
「…………」

気を取り直して笑顔を浮かべた白石が、後は任せたと伝えるように尾形の肩を叩いた。それに対し何故か尾形の手がぬっと警棒に伸びたので、白石は大慌てでその場から逃げるように駆け出した。

「翔太のこと、マジで頼んだぞーッ!」
「…………うるせぇ奴だな」

見えなくなった白石に対しひとりポツリと呟いた尾形は、後頭部をガシガシと掻いてやがて玄関のドアを閉めた。
家具の少ないリビングを抜けて寝室に向かうと、シングルサイズのベッドに眠る翔太の姿が確認できた。尾形は自分のベッドに腰掛けて、スヤスヤと寝入るの翔太の寝顔をじっと見下ろした。熱を持った頬は僅かに赤らんでいて、息は浅く呼吸が少し速い。尾形はすっと目を細めた。

「……お前は、祝福されて生まれてきた子供なんだな……」

尾形の手が、翔太の額にそっと伸ばされた。汗で張り付いていた前髪を撫で上げ剥き出しになった額に手の甲を当てると、尾形の手にじっとりとした熱が伝わる。冷房が効いた部屋でも、風邪を引いている子供の体温はなかなか下がらないようだ。

「…………」

尾形は翔太の額から手をどかすと、掛け布団を僅かに首元から下げ、熱の逃げ道を作ってやった。今まで自分以外の誰かを看病してやった経験がない尾形に出来るのは、せいぜいこの程度である。

自分に出来ることも特に思い浮かばず、尾形がしばらく翔太の寝顔を眺めていると、突如玄関のチャイムが鳴った。尾形は自身の腕時計を見て、今度の訪問者が白石でないことを悟る。ベッドから腰を上げて寝室を出る。ドアを後ろ手に閉じて、玄関まで真っ直ぐに向かった。

尾形はそっとドアスコープを覗き、訪問者の顔を確認した。相手の顔が確認できたところで、尾形は間も置かずに玄関の鍵を開けてドアを押し開けてやった。すると、ドアの前に立っていた者が尾形の顔を見るなり突如敬礼してみせた。尾形は少しうんざりした様子でため息をついた。

「谷垣……俺と会う度敬礼するその癖は何とかならないのか」
「は……し、失礼しました。つい、癖で……」

突然の訪問者──尾形の後輩である谷垣源次郎は、申し訳なさそうに視線を下に向けて頭を下げた。

「仕事中ならわかるがプライベートでも敬礼する男なんて月島部長くらいだぞ。……あと、鶴見警部に会った時の鯉登警部補くらいか」
「すみません……。非番の時でも独身寮で過ごしていると先輩方とよく会うもので、つい……」
「気持ちはわからんでもないがな……。それが嫌なのもあって俺は引っ越したが……まあ、入れ」
「は、失礼します」

尾形はドアを開けた状態で踵を返した。その背中に軽く会釈をした谷垣が後に続くようにして玄関に入る。その際鍵は二重に掛けることを忘れずに行い、谷垣は靴を脱ぐと尾形の後を追った。

「あの子は元気ですか?」
「あ?」

谷垣の問い掛けに尾形は一瞬何のことかと頭をひねったが、すぐに答えに合点がいったので「あぁ」と短く返事を返した。

「チカパシ、とか言ったか……通勤途中でたまに見かけるぞ」
「そうですか。でしたら、学校にはきちんと通えているんでしょう」
「そんなに心配なら、お前があの女と結婚して見てやればいいだろう。こんな人使いの荒い先輩のパシリにされて、そのついでと言った形で見るくらいならそっちの方がお前にとってもいいと思うが?」
「そ、そういうわけには……」

尾形の言葉を聞いて顔を赤らめた谷垣は、そこから先の言葉を濁すなり少し慌て気味に台所へと入って行った。ハッキリしないその態度を何度も見てきた尾形は、これ以上彼に何を言っても無駄だとすぐに判断した。深追いはせず、気を遣って放っておくことに決めた。

「買ってきたもの、冷蔵品以外はいつもの場所に置いておきます」
「ああ、悪いな」
「それにしても……本当に良かったんですか?」
「ん?」
「レトルトカレーです。以前まで辛口だったのに、今回は甘口を頼まれたので……」
「余計な詮索はしなくていい」
「は……はぁ」

尾形は気を遣ってやったことをすぐに後悔した。しかし、同じ職場で働く双子の後輩に比べれば、この男の方がまだマシだと思い直した。プライベートであのいけ好かない双子を駒に使うのは、尾形にとっても面倒だったのだ。

「そう言えば……もうすぐ交通安全月間ですが、ウチの交番からも何人か収集があるようですよ」
「学校に行くのだけは御免だぞ」
「ハハッ、二階堂達も同じことを言ってましたよ。ですが、今回も月島部長がご参加できないとのことなので、尾形さんにもお声が掛かるかと思いますよ」
「月島部長が参加できない……? あの方はいつも欠かさず参加しているだろう」
「そ、そうでしたか? 少なくとも自分は、月島部長が参加されているところを見かけていませんが……」
「そりゃそうだろう。あの方は小さいから着ぐるみ……」
「え?」
「……いや、何でもない。気にするな」
「尾形さん、今……着ぐるみって……」
「谷垣」
「は、はい」

わざわざ台所までやって来た尾形が、無表情に影を作って谷垣を睨んだ。それに背筋を冷やした谷垣がすぐに口を噤む。

「余計な詮索はしなくていい。……さっきも言ったはずだが?」
「す、すみません!」

尾形の一段と低い声に後退りした谷垣が、慌てたように謝罪を口にした。この時点で谷垣は事のあらましをなんとなく察してしまったのだが、それを声に出したが最後、自分は少なくとも二人の上司に睨まれる立場になるだろうと予想し、濃厚になった疑惑をそれ以上追求しようとはしなかった。

「で、では自分はこれで……」
「由兄ちゃん……?」

一刻も早く退散した方が良いと判断した谷垣が台所を出ようとすると、奥の方から聞き馴染みのない幼声が聞こえた。その声につられて顔を向けた谷垣が見たものは、一人の少年の姿。その少年は、いつか自分が交番まで連れて行った迷子の少年だった。

「……起きたのか」
「え、あの……尾形さん、あの子は……」
「……由兄ちゃんは……?」
「買い出しだ」

眠そうな目を拳で擦りながら、少年──白石翔太は、おぼつかない足取りで尾形達の元まで歩いてきた。翔太は熱に浮かされた、ぼうっとした顔で尾形を見上げると、その隣に立つ谷垣の方にも顔を向けた。小さな頭が横に傾く。

「だぁれ……?」
「お前を交番まで連れてきたお巡りさんだろう。覚えてないのか」
「……名前、わかんない……」
「あ……谷垣だ。谷垣、源次郎……」
「ん……」

翔太は谷垣の名前を聞くと小さく頷いて、尾形のズボンをそっと握りしめた。

「僕の名前は、白石翔太です……。6歳です……」
「あ、ああ。翔太くんと言うのか。ようやく名前を聞くことができて嬉しいよ」
「お父さん、抱っこ……」
「!?」

翔太のこの一言に、部屋の中の空気が一瞬で凍りついた。翔太は寝ぼけた様子で尾形の脚に寄り添いながら、尾形に向かって両手を伸ばしている。そんな、早く早くと抱っこをせがむ翔太を、尾形は真顔で見つめていた。谷垣の顔に大量の冷や汗が流れる。

「……俺はお前の父親じゃない」

尾形は動揺を微塵も匂わせない、至極冷静な声で翔太に言い聞かせた。その言葉に翔太は蕩けきった目をパチクリと瞬きさせ、不意に谷垣の方を見ると、よたよたと彼の方へと歩み寄って行った。

「お父さん、抱っこ……」
「えっ!?」
「やめろ」

両手を伸ばして谷垣に縋ろうとする翔太を、尾形がすかさず襟を掴んで阻止する。ぽてりと尻餅をついた翔太がこっくりこっくりと頷いているのを見るに、寝ぼけて正常な判断ができていないのだと尾形は悟った。やれやれといった様子でため息をつく。

「谷垣、後はもういい。金はそこに置いてあるからさっさと受け取ってお前はもう帰れ」
「え……あ、はい」

まだ色々と聞きたいことはあったが──

翔太を抱き上げて寝室に向かう尾形の背中を見て、谷垣は小さく微笑むと置かれてあった茶封筒を手に玄関まで向かった。

余計な詮索はしなくていい──尾形の背中から語られる言葉を、谷垣はたしかに聞き届けた。


◆◆◆


「たまご粥と梅粥もあるのか……ん〜普通のでいいか」

一方で白石は、近所のスーパーで買い物をしていた。カゴの中には子供向けの紙パックジュースとカップ麺、安売りシールの貼られた惣菜が何点か入っている。白石は手にしたレトルト粥をその上に置いて、会計に向かった。


「合計1400円か……まとめて買えば安いんだろうが、残してもアレだしなぁ……」

会計を終えた白石が、レシートを見ながらスーパーから出てきた。今まで特に真剣に見ることもなかったレシートの合計金額に、悩みを孕ませたため息が思わず漏れてしまう。

遺産についてあれこれ争いが起こっているこの最中に、今までような金の無駄遣いは間違ってもできない。この緊迫した状況下では、缶ビール一本買っただけでも後ろ指差されそうだった。

「はあ〜ぁ。……酒が飲みてぇなぁ」
「ッおい!あんた!」
「ぅえっ?」

男の大声が聞こえた直後に、白石の前に突如誘導棒が飛び出してきた。すぐ目の前には、駐車場から出ようとする車が止まっている。もし声を掛けられなければ、気付かずにぶつかるところであった。

「っぶねぇ〜……気を付けろよなぁ!」
「あんたも、歩行者優先なのは確かだが前をよく見ろ。俺の仕事増やさないでくれ」
「あぁん? ……あ」

随分口の悪い交通警備員に、カチンときた白石がすかさず凄んで見せるが──

「あ?」

白石に振り向けられたその顔には、確かに見覚えがあった。制帽のひさしで影になった目元──その下に、派手な傷跡が見えたのだ。

「……ッ!」

この男は、確か前にコンビニで会った──

白石が息を飲んだ瞬間、怪訝な顔をしていた警備員が突如大きく目を見開いた。

「あーッ!お前っ、あの時の傘泥棒!」
「だれが泥棒だ!盗んじゃいねぇよ!変な言いがかりはやめろ!」
「何でお前がここにいんだよ!」
「買い物だよ!見てわかんねーのか!」
「ぁんだと〜!?」

顔に傷のある警備員は交通誘導も忘れて、白石の挑発にムキになった。白石は、自分がお客様であるという謎の上から目線で警備員に当たっている。それが更に彼の怒りを買ったようだった。

「こっちは真面目に仕事してんだ!お前みたいな人生フラフラ野郎に付き合ってる暇はないんだよ!」
「ぁンだって〜!? よくも言いやがったな!? 決めた!ぜってぇお前の会社にクレームつけてやる!おい、会社どこだ!会社!」
「はっ、誰がお前みたいな頭のおかしいクレーマーに対して真面目に対応するかよ!現実見ろ、アホ!」
「アッ、ホ……!? ……っ言いやがったな〜!? その台詞ぜってぇ後悔させてやる!とっとと会社名言え!SNSに上げて二度と経営できなくしてやる!」
「やれるもんならやってみろ!業務妨害と名誉毀損と脅迫で訴えてやる!」
「いいから言えよ!会社名!」
「ワッペン見ろよ!ドアホ!」

怒りに歯を食いしばりながら白石は男のワッペンに目を向けた。しかしそれを目にした途端、白石の顔から怒りの感情が消えた。

「兼定……警備保障……」

白石は、尾形の寄越した名刺に書かれた会社名を思い出した。そして、その会社名の下に刺繍された名前に思わず息を飲んだ。

「杉元……」

──その警備会社の『不死身の杉元』って奴に会え。俺の名前を出したら取り合ってくれるだろうから。

尾形の台詞が脳裏をよぎった。白石は言葉を失い、こちらを訝しげに睨む男の顔を見つめた。このいけ好かない傷の男が、尾形の言っていた不死身の杉元なのだろうか。白石の手に汗が滲む。

「……? 何だよ、急に黙りこくって」
「……お前、不死身の杉元って奴か?」
「……ッ!」

首をひねる男に白石が確かめると、男は一瞬驚愕に目を見開き、制帽のバイザーで自分の目元を影で隠した。

「……その名前をどこで聞いた」

低い声が這う。どうやら何か訳ありのようだった。白石は持っていた財布の中から、尾形から受け取った名刺を抜いた。シワのついたそれを男に差し出す。男はサイバーから手を離さず、視線だけを名刺に向けた。

「尾形って男からあんたの会社を紹介された。その訳ありっぽい名前も、その男から聞いてる」
「チッ……尾形の野郎……」

舌打ちを漏らし目線を逸らした男はしばらく口を噤んでいたが、やがて誘導棒を握り直すと白石に背を向け交通誘導に取り掛かった。

「おい!」
「明日の13時」
「あ?」

男は振り返らずに白石に言った。

「その名刺に書かれた住所に来い。話くらいは聞いてやる」
「な……んだよ、その態度は……」
「こっちは仕事中だ。これ以上のことは、その時にしか話さねぇ」
「けっ!あーそうですかい!」

どこか不服げな様子の男の横顔に、白石もそれ以外構うことをやめた。早く帰らなければ、翔太が目を覚ましてしまうかもしれない。

「明日必ず行ってやっから今のうちに始末書の準備しとけよ、不死身の杉元サンよ」
「…………」

白石はそう捨て台詞を吐き残し、その場から駆け出した。男は交通誘導をしながら、遠くなっていくその背中に視線を向ける。

「……爺さんに色々言われそうだな……」

男はそう独りごちて、深いため息をつくと後頭部を掻いた。


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